第一章


 一夜明けたこの日、もやもやした俺の気持ちに反して、皮肉にもすっきりとした青空が広がる気持ちのいい天気となった。
 俺はそんな天気を見つめながら、足取り重く学校に向かう。
 会った事がない父親から提供してきた大学費用に心が揺れていたが、プライドや複雑な感情で俺は素直にそれを認められない。
 母は俺のためになるのなら、昔の事は水に流して、広崎家の跡を継ぐのもありだという。
 それもまた考えようによっては、乗っ取って復讐するという事にもなるからと付け足して、寂しげに笑っていた。
 折角忘れていた広崎家と再び係わりを持つことで、過去の古傷が疼いて辛いだろうに、母は俺に医者になって欲しいために、無理しているように思えた。
 煮え切らない思いを抱き、欠伸をしながら、前屈みで教室に入れば、江藤が走り寄って元気に出迎えてくれた。
 能天気にあいさつされると、イラつく。
 適当に声を出すだけでかわし、かったるく自分の席にどさっと座り込んだ。
「天見は相変わらず、仏頂面だよな。なんかあったのか」
「色々とな」
「外を見ろよ。世界はこんなにも素晴らしいんだぜ。あの青空、清々しいじゃないか。ほら、お前もあの空に向かいたいと思わないか」
 窓に向かって、大げさに指を差し、芝居じみたわざとらしさが、余計に鼻に突く。
「お前はパイロット目指してるから、そういうのに憧れるんだろ。俺は違うから」
「なあ、おれ、お前にいつパイロットになりたいって言った? ずっと秘密にしてたんだぜ」
「昨日、下校前に進路の話になって、俺に言ってきたじゃないか」
「ちょっと待て、昨日、俺はお前の進路の話が気になっただけで自分のは言ってないぞ」
「それじゃ、一昨日の放課後だ」
「一昨日? 日曜日だぜ」
「えっ?」
 なんだろうこの違和感。
 そういえば今日は火曜日だった。
 昨日は月曜日。
 それじゃ俺はいつ江藤からパイロットになりたいと聞いたのだろう。
 あれは俺が放課後、先生に進路の事で初めて呼び止められた後の事だったと思ったのだが、昨日は二回目に呼び止められたから、その前だと思って一昨日と思ったけど……
 あれ、どっちも月曜日の出来事だったような気がする。
 それじゃ先週の月曜日だったのだろうか。
 それだとおかしい。
 その時はまだ進路希望のプリントは先生に提出してなかったはずだ。
 その日は配られたばかりだった。
 あれ?
「おい、大丈夫か? まあ、俺も知らないで口走ってたのかもな。それより、天見が進学しない事の方が重大だ。医者になりたいって仄めかしてなかったか? なんで進学しないんだよ」
「人にはそれぞれ事情があるだろうが。放っておいてくれ」
「放っておけるかっていうんだ。俺は天見の事を常に把握しなければならない義務っていうのがあるの」
「そうやって俺の情報を女子達に流して、見返りを得てるんだろ。俺をダシに商売するなよ」
「いいじゃないか別に。天見の事を知りたいという女子は一杯いるんだ。早速なんだが、昨日の放課後、一年女子と一緒に帰ったらしいな。すでに噂になってるぞ。一体どういうことか説明してもらおうか」
「別に大したことないよ。付き合ってって言われたから、承諾しただけだ」
「えっ! 付き合ってる!? それ本当か」
「ああ、面白そうだから、付き合うことにした」
「嘘だろ。今まで特定の彼女なんて作った事ないお前が、そんなにあっさりと受け入れるなんて。そんなにいい女だったのか?」
「いや、普通だ」
「普通? 一体どんな女なんだ。俺にも会わせろよ」
「そのうちにな」
 江藤はその後、大スクープと称して、俺の話を周りに吹き込んでいった。
 大げさに騒ぐものだから、俺に憧れていた女生徒は泣き出したり、さほど仲がいいとはいえない男たちも冷やかしにきたりと、俺の周りは賑やかだった。
 江藤はノゾミの何が気に入ったのか探ろうとしてくるが、まさか一億円を貰う約束をしたからとは言えない。
 お金でなびいたというよりも、その金額自体がありえないから、言ったところで誰も信じないだろう。
 俺ですら、本当にもらえるとは思っていない。
 成り行きをみてみたくて、ノゾミの不可解な行動が気になって興味がでただけだ。
 惚れたという事ではなかった。
 気まぐれで付き合う事にしたが、果たしてそれで本当によかったのだろうか。

 まだ実感も湧いてないながら、昼休み、ノゾミが俺の前に突如現れた時は、また不意を突かれてびっくりしてしまった。
 上級生の教室に一年生のノゾミがズカズカと入り込んでくるその様は、歴代の大勢のスーパーヒーローを前にして、無理に戦おうとしている、弱き悪の手下を連想させた。
 ノゾミもカチコチになって必死の形相で強張っている。
 それでも負けてなるものかと踏ん張って、ロボットのように動きが変になりながら、俺が座っている席までやってきた。
「こ、こんにちは」
「ああ、お前か。こんなところまで来てどうした」
「こ、これを」
 震える手で白い箱を俺の机の上に差出した。
 俺がすぐに行動しないから、傍に居た江藤が代わりにその箱を開ければ、赤いつやつやとしたものがパッと目に入った。
「うぁお、美味そう」
 江藤が声を上げると、周りに居た者も覗きに来て歓喜があがった。
「昨日お約束したお菓子です。イチゴタルト作ってきました。甘さも抑えました」
 自信なさそうな弱々しい声。
「おお、そうだったな」
 こんなに早く持ってくるとは思わず、それも見栄えは店で買ってきたように完璧に作ってあった。
 きれいに切り添えられたイチゴがタルトの上にのって、ナパージュされているから、つやつやでルビーのようにキラキラ光っていた。
 直径15cmくらいの小さ目なものだが、一人で食べるにはデカい。
「いいな、天見。俺にも半分くれ」
 江藤が先に手を出そうとするのを、俺は叩き、とにかくそれを手にとって、端を一口噛んでみた。
 さくっとしたタルトは口の中でいい塩梅に崩れていく。
 そこに甘みを抑えたカスタードクリームにイチゴの甘さが引き立って、素人が作ったにしては店で売ってもいいレベルの味だった。
「うん、美味しい」
 それは本当にそう思ったし、素直な感想だった。
 ノゾミはそれを耳にして、目を潤わせて震えていた。
 これもまた彼女の激しい感情がそうさせているのだろう。
「俺にもくれ」
 横から江藤が奪うと、ピラニアが寄ってきたように他の者も手を伸ばし、そのタルトはあっという間に姿が消えた。
「お前らいい加減にしろよ。俺、一口しか食ってないじゃないか」
「いいじゃん、また作ってきてもらえば、その時は俺の分も持ってきて」
 江藤は厚かましくノゾミに頼んでいる。
「ところで、この子誰? 見かけた事ないけど、天見の新しいファンの子?」
「こいつは俺の彼女だ。叶谷希望という名だ」
 約束通りに俺は、ノゾミを彼女として扱い、皆の前に公表した。
「この子が、天見の彼女?」
 江藤が意外だという目を向けてじろじろと見ているところを見ると、やはりぱっとしない雰囲気があったのだろう。
 この時もノゾミは体を突っ張らして一生懸命耐えるように、その場に突っ立っていた。
 本当は逃げたいのを我慢しているという葛藤が見える。
「まあ、とにかくそういうことだ。俺たち付き合ってるから」
 たくさんの視線を浴びたまま、辺りはしんと静けさが漂っていた。
 ノゾミも路頭に迷ったようになっていたし、意外だと言わんばかりの微妙な静寂さに俺まで居心地悪くなったから、俺は立ち上がり、ノゾミの肩に手をまわして、教室を出て行った。
 ノゾミはまた真っ赤になってぎこちなく歩いていた。
 人目を避けて、階段の踊り場へくればノゾミは手で鼻を覆い、あたふたしていた。
「どうした?」
「は、鼻血が……」
 恥ずかしそうに慌てて、制服のポケットから取り出したティッシュで鼻を押さえていた。
 あまりにも熟し過ぎて真っ赤になって、そこに俺が彼女の肩に触れたから、興奮しすぎたのだろうか。
 ノゾミは鼻血を出すほど、あまりにも繊細な女の子だった。
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