第二章
4
俺に惚れてるのなら、ノゾミは無条件で『それ』を受け入れる。
俺は少なくともそう思っていた。
だが俺は胸を強く突かれて弾かれた。
「えっ」
思わず声が漏れ、ノゾミに押された胸が熱を帯びたようにじんじんと次第に痛みだす。
狭い空間の一番隅でノゾミは顔を覆い、俺に背中を向けている。
逃げようにもそれ以上逃げられず、追い詰められるように身を小さくして、もぞもぞとしていた。
俺はすっかり動揺してただ突っ立っていた。
でも心は虚しさと寂しさと恥かしさが混じり合って、いたたまれない。
素直に謝るべきなのか、おどけて開き直って誤魔化すべきなのか。
どっちにしても辛いモノがあった。
俺は何をしてたんだ。
自分を縛り付けていたかっこよい自惚れの部分がつるっと飛んで、殻を剥かれたむきエビみたいに、弱々しい部分がさらけ出される。
はっきり言って、逃げ出したくなるくらい気まずい。
俺が戸惑って声を詰まらせている間もノゾミは隅でもそもそと動いていた。
やがて、俺に背中を向けたまま声を絞り出した。
「あの、その、ご、ごめんなさい」
ノゾミには非がないのは確かなのに、申し訳なさそうにオドオドとしていた。
その態度に俺は恥じてかぁっとしてしまう。
俺は一体何をしているんだ。
「いや、俺が悪かった。あまりにも強引だったかも…… その、あの」
それでも男らしくなく、俺は言い訳をするように弁解する。
まだ充分な謝罪を俺が言い切らないままに、突然ノゾミは声を荒げた。
「ち、違うんです!」
「えっ?」
「そ、その、鼻血が……」
「は、鼻血?」
「はい。すみません」
まだ俺に背中を向けながらごそごそしている様子は、こっそりとその始末をしているようだった。
そういえば昼も鼻血を出していた。
「もしかして、刺激が強かったとか?」
「そ、そうです」
なんということだろう。
俺の顔をまじかにして、キスを迫られたくらいでこれほどまでに興奮して鼻血ブーになるとは──
なんだかかわいいじゃないか。
真実を知ると、俺はほんわかと和んできた。
無性におかしさがこみ上げる。
俺の自信がまた元に戻り、俺はいつもの調子に戻って行った。
「それじゃ、鼻血が止まったらもう一度、チャレンジするか?」
「いえ、そ、そんな。だけど、いくら承諾したからといって、天見先輩が無理する事ないです」
「無理したわけじゃないけど、付き合うってこういう事だと思ったから、自然にそうなったんだけど」
「でも、私には勿体な過ぎます」
「もしかして、嫌だったのか?」
「嫌だとか、そんな…… 寧ろ、嬉しかったです。あっ、その」
ポロッと漏れた本音。
俺を好きでいる事は間違いなく、俺の自尊心を再び高めてくれた。
嫌がってはなさそうだが、慣れない事に戸惑っているのが伝わってくる。
俺も冷静になり、なぜあんなことをしでかそうとしていたのか、自分自身自問自答する。
あの時は、そうすることに疑問も何も抱かなかったのに。
これが男の本能というものだったのだろか。
少なからずノゾミに興味を持って、俺は感情を動かされたと認めるべきだろうか。
まだ俺も、その辺がよくわかってなかった。
「俺もちょっとかっこつけすぎたかも」
素直にやり過ぎた敗北を認めたら、自分自身急に楽になった。
鼻血を出したノゾミの前だから、自分も恥ずかしさを自然と表現できたような気がする。
普段は虚栄心の塊のように、棘をいっぱいつけている生意気な俺が、それらを削ぎ落されるくらいノゾミにはやられっ放しだ。
「先輩、まだ鼻血が止まらなくて、あの、どうぞ先に帰って下さい」
「いいよ。ここで待ってるから、ゆっくりしろ」
俺は階段を一段降りて、そこで腰掛けた。
ノゾミは振り返り、俺の背中を見てるかもしれない。
今はそっとしておいてやるべきだと、俺は静かにそこで下に降りていく階段をぼんやりと見つめながら、一息ついていた。
不意に空気が揺れ動き、風を感じた。
閉じ込められていた狭い空間に穴が開いたみたいに、急に野に放たれたような開放感が広がった。
不思議に思って振り返れば、ノゾミが屋上に出るドアを開けていた。
開かずのドアだと思っていたのに、意図も簡単に開いている。
ノゾミは躊躇なく屋上へ足を踏み入れ出て行った。
「おいっ」
俺もすぐその後を追い、屋上へ出れば、柔らかな春の風が俺に向かって通り過ぎていく。
その風を味わっている間、ノゾミはすでに屋上のへり、フェンスのあるところに立っていた。
大きく広がっている青い空に、筋を引いたように雲が横に流れている。
密集したビルや家の建物が遠くまで見渡せ、その向こうには山の稜線が浮かび上がっていた。
普段入れない場所から見るその景色はとても新鮮で、俺もノゾミもそれに魅了された。
「鍵壊れてたのかな」
俺が傍に行くと、ぼそっとノゾミが呟いた。
「最後に開けた奴が、閉め忘れてただけだろう」
ずっと開かずのドアだと思い込んでいたから、誰も試しに触れた事はなかったのだろう。
「まさか開くとは思わなかった。でも、試してよかった」
「そうだな。なんでもやってみるもんだな。お前は特にチャレンジャーとして、どんどんと違う世界へ踏み込んでいきやすいんだろうな」
「違う世界……」
ノゾミはその言葉が気に入ったのか、俺に振り返りニッコリと微笑んできた。
冷たい空気に触れ、興奮も静まってリフレッシュしたお蔭なのか、すでに鼻血は止まったようだった。
鼻血を出した後だが、跡形なくきれいになっている。
手鏡や濡れティッシュも持ち歩いているのだろう。
俺と付き合うために、粗相はできないと色々と身だしなみのために小物類を持ち歩いているのかもしれない。
女の子らしいちょっとした心がけ。
即ち乙女心だが、おれはそれがいじらしいと思えた。
風を頬に受け、俺たちは並んで、和やかムードで暫く景色を見ていた。