第二章


 高い場所で味わう空気は、酸素が濃いように思え、俺は伸びをしながら深呼吸をする。
 それは単調な学校生活を送る中で、突然感情が刺激されるくらい、心が解き放たれたようにも思えた。
 教師が屋上を隔離し過ぎていたせいで、閉塞感の抜け穴のように、屋上は学校から独立した場所として、ここへ来るものを自ら選んでいる錯覚に陥る。
 それだけ不思議な感覚だった。
 ノゾミはそれに導かれたから、何気に手を掛けたドアが簡単に開いた。
 大げさな表現だが、ノゾミが係わると物事が突拍子もない方向へ進んでいく。
 ノゾミと出会った衝撃が、すでに俺をそんな風に思わせているのだろうが、確実に俺は影響を受けているから、まんざら嘘でもない。
 そこにくすぶる、まだノゾミが話そうとしない、なんらかの秘密。
 これは一体どんなことなのだろう。
 三ヶ月後、それを訊くのが待ち遠しくなって、俺はゲームの駒を進めているような気分だ。
 さらに上がりには一億円が待っている。
 果たしてそれを手にするのか。
 人生ゲーム、リアルバージョン──
 なんだか、ふざけたキャッチコピーを作ってしまうくらいだから、俺はまだ現実に起こってることとして受け入れてない。
 ノゾミの横顔を見れば、彼女はどこまでもまっすぐに前を見ている。
 口元を固く結び、真剣な眼差しを虚空に向けて、深刻な事のように考え込んでいるようだった。
 どうせその理由を訊いたところで、彼女はきっと何も言わないだろう。
 だから俺は、黙って同じように彼女が見ている方向を見つめた。
 そのうち彼女がくしゃみをしてしまい、振り向けばまた彼女は顔を赤らめて恥ずかしそうにしていた。
「そろそろ、帰るか」
「はい」
 俺が歩き出せばノゾミも俺の後をついて来たが、後ろを振り返ってまだ名残惜しそうにしていた。
「ここが開いている事を誰にも言わなければ、また戻ってこれるさ」
「バレないといいですね」
「よほどここが気に入ったんだな」
「はい、いつもと違う新しい世界が広がってるのを感じられるんです。先輩と一緒にそれを見られたこともとても嬉しかったから、私には特別のように思えてしまいました……」
 語尾が尻すぼみになりながら、俯き加減にはにかんでいる。
 恥ずかしいのに、それでも俺に伝えたいと踏ん張ってたのかもしれない。
「そっか、俺といると世界が違って見えるってことだな」
 つい茶化したくなって粋がって言ってみた。
「その通りです」
 ノゾミは俺に合わせるために一生懸命笑おうとしていた。
 でも、瞳は涙を溜めこんだように潤い始めた。
 それを隠すように俯き、さりげなく目元に触れながら、涙をぬぐう。
 また感極まったのだろうか。
 ノゾミはとにかく俺が絡むと、感情が刺激されるようだった。
 それは微笑ましくもあり、不意に温かな感情を俺の心に植え付ける。
 自然と優しくなれて、顔が綻び、もっと確実にそれに触れたくなって、無意識に俺はそっと片手を差出していた。
 ノゾミはそれを見て、キョトンとしている。
 俺もハッとした時には、なんだかすでに引っ込めなくなっていた。
 少し照れ臭かったけど、腹に力が入って無理に喉を鳴らして声を出す。
「ほら、だから、お前も手を出せよ」
「えっ?」
 驚いているだけで実行に移さないノゾミがもどかしくて、俺は自らノゾミの手をギュッと握った。
 ノゾミはびっくりして、跳ね上がり、お決まりのように顔が真っ赤になっていく。
 恥かしがって下を向いてはいるが、大人しく俺に手を繋がれるままになり、そしてふとノゾミの握り返す力を感じた。
「天見先輩の手、温かい」
 屋上で吹く風に乗るように、小さな声が俺の耳に届いた。
「お前の手も温かいぞ」
 手を繋ぐ俺たちはこの瞬間、恋人たちに見えたと思う。
 例えそれが、訳ありであっても、俺は素直に自分の感情をノゾミにぶつけられる事が心地よかった。
 まるでかわいい子犬に触れるように、意地を張らずに感じるままに人と触れ合う事を味わってみたい感情だった。
 肩を張らずにそんなことができるのも、ノゾミの不思議な行動の勢いに乗れたからかもしれない。
 俺はこの状況が段々楽しくなるように思えた。
 プライドが高い俺の完璧なものを壊してくれる存在。
 平凡で、本来なら素通りしてしまうような──俺は益々その未知なるものに、何かを見出したくなる。
 それに加えて俺もノゾミに変化を与えてみたくなる。
 俺たちが付き合うこの3ヶ月の間、まるでプロジェクトのようだ。
 期間と条件が設けられたから、不思議に必要以上に俺は心を鷲掴みにされた。
 それが終わった後は一体どうなるのだろうか。
 俺はその時、ノゾミの事をどう思っているのだろう。
 その時はその時の俺が決めているだろう。
 もし、ノゾミを手放したくないくらい好きになっていたら──
 まだまだそこまで俺は実感がわかなくて、ただ鼻から息が漏れるように笑ってしまった。
「あの」
 ノゾミが話しかけた。
「なんだ」
「下駄箱があっちなので……」
 屋上からずっと手を繋いで、階段を下り廊下を歩いて来たが、考え事をしていたせいで、俺は手を繋いでいる事を忘れていた。
 まるでノゾミと俺が同化したような程、違和感なかった状態だった。
 昇降口の前で、ノゾミが繋いでいた手をそっと離した。
 恥ずかしそうにして、自分の靴が置いてある下駄箱へと向かっていく。
 その後姿を見ながら、またクスッと俺は笑いを漏らした。
 靴を履きかえた後も、ノゾミはもじもじとして俺を見つめ、俺の傍に来て良いものか逡巡していた。
「ほら、帰るぞ」
 俺が先に歩けば、ノゾミもつんのめりそうに後をついて来た。
 また手を繋ごうと俺が手を差し伸べようとしたその時、ノゾミはいきなりビューンと俺の横を横切って走っていってしまった。
 彼女が起こした風を少し遅れて俺は顔で受けていた。
「一体何なんだよ」
 前方を見ればスタスタスタとノゾミは正門を抜け、右に折れて姿が見えなくなった。
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