第二章
6
あまりにも突拍子もないノゾミの行動に、俺は立ち止まりぽかーんと口を開けて突っ立っていた。
また置き去りにされてしまった。
俺の中では一応いい雰囲気でいたのに、ノゾミはそれをも放棄して、俺から去って行った。
一体そこに何があるんだ?──と、疑問が湧いた時、俺は正気に戻り、後を追いかけた。
正門の向こう側は、車が走る広い道路に面し、それに沿って住宅や雑居ビルが立ち並び、その建物と道路の境にちょっと広めの歩道が挟まれている。
ノゾミが駆けて行った方向を真っ直ぐ見れば、ノゾミはその先で誰かともめていた。
ノゾミが相手の腕を引っ張り、無理やり引きずっていたから驚いた。
──あいつは誰だ?
ノゾミとあまり背が変わらない中学生っぽい少年だった。
一体何が起こっているのか、俺が訝しげな目つきで近づけば、ノゾミは焦りだし、少年を急かした。
「約束したでしょ。早く帰って」
傍に居た少年を追い返そうと必死になっている。
その少年は俺が近づいて来たのを見ると、体を強張らせて俺を睨み始めた。
「セイ君、お願い」
ノゾミの声など耳に届いていないかのように、その『セイ君』と呼ばれた少年は、俺に敵意を持って鋭い目つきを投げかけた。
その傍でノゾミは顔を青ざめ、セイの片腕を強く掴んだ。
セイは何も言わず、双眸を固定させて挑むように俺を見つめていた。
「おい、どうした?」
俺が近寄れば、セイはノゾミに掴まれていた手を払い、ノゾミの前に立ちはだかった。
「セイ君」
ノゾミはおろおろとして、咄嗟に後ろからセイの着ていたシャツを鷲掴みにして引っ張る。
「何もしねぇよ。とりあえず、こいつと話をさせてくれ」
幾分か落ち着いた声だったので、ノゾミは仕方なく掴んでいたシャツから手を離した。
ノゾミが不安げに、様子を窺う中、セイは姿勢を正し、威厳を見せようと俺と張り合う格好になった。
それはまるで恋人を取られた事を憎んでいる様子にも見える。
まさかノゾミの元彼? それで三角関係に突入か?
ノゾミが俺に三ヶ月付き合ってほしいと条件を出したのも、こいつと別れる口実を作るためだったのか?
自分の中で筋道を立てて考えるも、それがどこか違和感だった。
あれ? ノゾミは男と付き合ったことなどないと言っていた。
それじゃ、こいつはもしかして一方的にノゾミを追いかけているストーカー的存在か?
俺はこの状況がわからず、ノゾミとセイを交互に見つめる。
「あの、この子は、その」
ノゾミが説明しようとしたとき、セイがヤケクソに声を張り上げた。
「俺は弟だ!」
それを聞いて、俺は腑に落ちた。なんだシスコンか。
「弟?」
「そうだ」
よく見れば、ノゾミと同じような雰囲気がする。あか抜けてない、普通の少年。
粋がろうとするも、少年のあどけない幼さが、どこか痛々しくも感じ、無理をしているのが伝わってくる。
勢いをつけて自分の正体を明かした後は、何かを言いたそうにしながら口をわなわなと震えさせるも、声が伴わず、ただ目だけをぎょろりと向けて、俺を見ていた。
俺を吟味して、姉のノゾミに相応しいかチェックしているのだろうか。
ここは少しでも紳士的な態度を見せる方がいいと判断した俺は、微笑ましい兄弟愛を称賛しようと口角を少し上げて落ち着きを見せた。
「俺は、天見嶺だ。よろしくな」
セイに向かって手を差し伸べれば、セイは肩を震わせ動揺し出した。
体の中にある力を封じ込めるようにぐっと奥歯を噛みしめ、俺の差出した手をじっと見つめていた。
そしてプイっと横を向いたかと思うと、踵を返して去ろうとした。
「セイ君!」
ノゾミが声を掛けると、背中を向けたまま立ち止まり、
「わかってる。今日はごめん」
素直にも謝り、そして再び歩いて行った。
その先の角を曲がって姿が見えなくなったところで、ノゾミがもじもじとし出して、俺の様子を窺った。
俺は鼻を鳴らして、ノゾミの不安を一蹴してやった。
「アイツ、憎たらしそうだな。でもお前にとったらかわいい弟なんだろ。姉の事が心配で様子を見に来たってところか?」
「えっ、そ、その、そうかもしれない」
ノゾミは視線をあちこちに向け、戸惑っていたけど、突然考えが定まったように、また俺を見つめだした。
「あの子、ほんとはとてもいい子です。でも一番難しい年頃だから……」
「ああ、あの年頃は壮大なスケールを勝手に作り出して、何かと思いつめて自棄を起こす時だ。病的になりやすくて、こじらすとヤバイところはあるな。でもそ
ういうのは後で必ず後悔するくらい、恥ずかしくなるもんだ。そのうち本人もその事に気づくだろう。誰でも通る道だから、そのうち落ち着くさ。それに、真面
目そうで、しっかりしてたし」
「本当にそう思います?」
「ああ、中々芯の強い感じがした。でも、今は思春期の真っ盛りだからな。反抗したくなったり、気持ちが尖ったりして、不安定気味だな。ああいうのは俺も理解できるが、真面目故に思いつめるタイプだ」
「あの子、今、色々と悩んでるみたいなんです」
「あの調子だと、その悩みの一つが俺にも係わってるんだろうな」
シスコンを意味して、俺は冗談の一つとして笑ったが、ノゾミは下を向き、以外にも真剣にとらえていた。
軽々しく笑った事が罪悪感に繋がって、俺は気まずくなってしまった。
「別に馬鹿にした訳じゃない。お前にしかわからない部分を俺は知らないから、つい軽々しく言ってしまったけど、俺が力になれるならなってやってもいいぞ」
社交辞令の一つとして、そんなに深い意味はなかったが、感情を露わにするノゾミには充分それが効いたようだった。
「ほんとですか。それなら今度一緒に会ってもらえますか」
「ああ、いいけど」
成り行きでそうなったが、彼女の弟の問題も恋人としては放っておけない範囲になるのだろうか。
シスコンな弟。
か弱いノゾミだから、弟としても心配になってしまうのかもしれない。
俺はその時はそんなに重々しい事だと思わず、軽く承諾した。
ノゾミは幾分か溜飲が下がったようにホッと一息ついていた。
歩道の真ん中を占拠してたので、後ろから自転車のベルの音がなり、俺たちは端による。
自転車が過ぎ去ったところで、俺が駅へ向かおうと足を向けた時、ノゾミの家がこの近所だという事を思い出した。
「今日は俺がお前の家まで送ろうか」
「えっ、いえ、結構です」
「でもこの近くなんだろ」
「そうなんですけど、駅とは違う方向だからいいです。それじゃ私はこれで失礼します」
ぺこりと頭を下げ、セイが去って行った同じ道をさっさと行ってしまった。
ノゾミはウナギのようにすぐに手からすり抜けていくものがある。
俺の方が振り回されているのが少し癪に感じ、俺は浅い溜息を一つ吐き出した。
見えなくなるまでノゾミの背中を見送った後で、踵を返して歩き出した。
ぼんやりとノゾミとの付き合いの事を考える。
告白されたのが昨日──4月17日。それから期限の三ヶ月を足せば7月17日ちょうど祝日の海の日になる。
そして日数にすれば91日。すでに一日は過ぎ、残り90日。
今日という一日もすでに終わろうとしているから、また一日減って行く。
着々とその期限が縮まっていく。
俺は日数を計算しながら、ノゾミと過ごした学校の屋上を尻目に、ゆっくり歩いていた。
その時、突然先ほど強く睨まれたあの目が俺の頭によぎった。
セイ──。
今頃になって、何かが心の中にひっかかる。
すっきりしないものを感じながらも、この時は深く考えず、成り行きに任せにこの日は過ぎて行った。