第三章
3
俺はノゾミの腕を引っ張りながら、廊下を速足で歩いている。
ノゾミが無理して俺に歩調を合わせようとしてたどたどしくしてても、おかまいなしだった。
俺は前を見据えるだけで、ノゾミに振り返らなかった──いや、振り返れなかった。
ノゾミも何も言ってこないところをみると、非常に気まずい思いをしているのだろう。
俺のために作ったと言っていたあのタルトやケーキは、有名な店で購入していたのを恥じているのか。
俺が与えてしまったプレッシャーが、見栄を張らせる原因になってしまったと考える事もできる。
全ては俺のためだった。
だから俺は気にしていないと装い、敢えて何も言わずにいた訳だが、それってやっぱり気にしているから、ノゾミに面と向かって問い質せずにいたということだろうか。
正直、自分でももやっとした気持ちに包まれしっくりこなかった。
気が付けば昇降口に来ていた。
俺は足を止め、掴んでいたノゾミの腕を離した。
ゆっくり振り返れば、ノゾミの息が少し乱れ、俺をおどおどして見ていた。
「あ、あの」
何かを伝えようと無理をして、喉の奥から声を絞りだしたが、その後は口をパクパクとして声が伴ってない。
「落ち着け」
俺の一言で、ノゾミは視線を落として俯いた。
俺はノゾミからの言葉を待っている間、じっとしていると、ノゾミは益々気持ちが小さくなって縮こまっていった。
「ご、ごめんなさい」
か細い声で泣きそうになりながら、ノゾミは謝りだした。
「何がごめんなさいなんだ」
「その、け、ケーキですけど……」
「別にいいよ。つい見栄も張りたくなるだろうし」
「先輩!」
突然ノゾミが顔をあげ、また必死に俺に訴えてきた。
「なんだよ」
「これから、私にちょっと付き合ってもらえますか。全てをお話しします」
ノゾミは勢いつけて自分の下駄箱に向かい、靴を履きかえようとしていた。
俺も突っ立ってるままではいけないと、自分の下駄箱に向かった。
そして靴を履きかえて出入り口に出れば、ノゾミはぐっと力を込めて俺を待っていた。
俺の姿を見ると、ノゾミはついて来いと示唆するように、先を歩き出す。
「おい、どこへ行くつもりだ?」
「とにかく来て下さい」
一度振り返った後、また前を向いて、ノゾミはスタスタと先を急ぐ。
俺は、小走りに追いかけ、そしてノゾミの隣に立って歩調を合わせた。
ノゾミは前だけを見つめ静かに問いかける。
「先輩、私が持ってきたケーキは美味しかったですか?」
「ああ、美味しいだけじゃなく、見かけも良かった。だけどあれは」
俺がそこまで言うと、ノゾミは畳み掛けた。
「私はそれを聞けるだけで満足です。後は先輩が何を思おうと自由です」
「おい、どうしたんだ?」
「レスポワール」
「はっ?」
「先輩は『レスポワール』の意味を知ってますか?」
「多分、フランス語だと思うけど、意味までは」
「英語だと『ホープ』になります」
「ホープ? 望み? あっ」
俺がその意味に反応すると、ノゾミは何も言わなくなり、ただひたすら歩いていた。
学校の正門を出てから、街の中を通り、歩くこと20分。
行き先を告げられてないと、いつまで歩くのかわからないだけに、それは非常に長く感じた。
「あそこです」
ノゾミが指を差した場所。
住宅街に紛れて、目立たずそれでいてお洒落な風合いの建物があった。
ヨーロッパ風の落ち着いた家を想起させる造り。
車を数台止められるスペースを設けているため、店は奥に引っ込んでいる。
そのため店は遠くからだと視界に入りにくく、近くに来て初めてその存在が分かるようになっていた。
外見も地域の景観を損なわない地味な色のため派手さはない。
だが、ディスプレイの大きなガラス窓から中を覗けば、メルヘンチックにお菓子が並んでいる店の様子が窺える。
控えめに『l’espoir』と文字をかたどったロゴの飾りが壁に貼り付けられ、それもおしゃれなフォントでバランスよく店の風格を表していた。
この住宅街周辺も落ち着いて、そこそこの裕福層が住み着いているように見えた。
この地域に密着し、その様子から上品な質のいいケーキ屋の雰囲気が漂っている。
女性が見つければ、思わず入らずにはいられないくらい、隠れた知る人ぞ知るような秘密の場所にも見えた。
「あそこで、買ったのか?」
俺が訊けばノゾミは葛藤しながらも、首を横に振るが、その後は困惑した顔になっていた。
「私、やっぱりずるをしたのかもしれません」
「どういうことだ」
「私が作ったお菓子は、一人ではできなかったってことです」
「誰か手伝ったってことか? それがここの店の人?」
「はい。やっぱりお菓子を作るには、それなりの道具と、それなりの素材と、それなりの条件が必要なんです。それで──」
「それでなんだ?」
「それで、全てプロの物を使いました。そして、傍にはコツを教えてくれる人も居たんです」
ノゾミが言いたかったことは、この店でお菓子を作り、この店のパティシエに教えてもらったということに違いない。
「お前まさかここでアルバイトでもしてるのか?」
「いいえ、そうじゃないんです。ここは……」
その時、店のドアが開いて女性が一人出てきた。
「あっ、ノゾミじゃないの」
近寄ってきたその女性は、すらっとしていて、目を見張る美人だった。
俺がいる事に気が付き、途中から俺をじろじろと見つめてきた。
「この男の子誰?」
「えっと、この人は、天見先輩」
「アマミ? 名前からして甘党って感じ。もしかして、ケーキのご予約かなんかで、店の紹介でもしてるの?」
「ち、違う」
「じゃあ、だったらなんで、こんなカッコいい先輩とノゾミが一緒にいるの?」
「そ、それはその」
ノゾミがはっきり言わないので、俺はイライラして口を挟んだ。
「俺たち付き合ってます」
「えっ! ノゾミの彼氏なの? 嘘!?」
その女性は顎が外れるかというくらい大きな口を開けて驚いていた。
「えっ、なんでなんで、こんなカッコいい人がノゾミの彼氏なのよ。信じられない。もしかして甘党で、ケーキに目が眩んでノゾミを利用してるの?」
「お姉ちゃん、そんなんじゃないの」
お姉ちゃん?
この女性はノゾミの姉。
だが、ノゾミとは全然似てない。というより、均整のとれた派手な顔、スタイルの良さ、そこにメリハリもあって、女性らしくとても様になっている。
そしてはきはきとした積極さが、消極的なノゾミとは全く正反対だった。
「まさか、ノゾミにこんなカッコいい彼氏がいるなんて、思わないじゃん。なんか悔しい。ねえ、君、ノゾミのどこがいいの? 私の方が魅力的だと思わない?」
色っぽさを強調して、ノゾミの姉が近づいて来た。
俺は思わずのけぞってしまう。
「お姉ちゃん、止めて……」
ノゾミが姉の服を引っ張って懇願すると、姉は露骨に嫌な顔をした。
「生意気になっちゃって。まあ、いいけどね。ノゾミも成長したってことね。アマミ君っていったっけ? ノゾミをよろしくね。この子、ちょっと気弱で頼りないし、一緒に居るとイライラするでしょ」
「でも、俺には面白くて、興味が湧きます」
「ふーん、蓼食う虫も好き好きね」
「お姉ちゃん、先輩に失礼な事言わないで」
ノゾミが必死に抵抗するも、姉は鼻で笑っていた。
それにしても、年齢がかなり離れているような気がした。
「ノゾミはいいわね。優しいお父さんとお母さんに愛されて、そしてこんなカッコいい彼氏までできて。私なんかと違ってあー羨ましい」
厭味ったらしい言葉だが、俺には違和感だった。
ノゾミはぐっとこらえるように、潤った目を姉に向けている。
「お姉ちゃん、一体ここで何してるの?」
「ちょっと嫌な事があって、急に甘いもの食べたくなったの。それじゃ私帰るね。アマミ君、お会いできて光栄だったわ」
姉はヒールを地面にカツカツとぶつけ、厳つく歩いて行った。
その時ノゾミは姉の後姿を見つめ、何か言いたげにもじもじと落ち着かなさそうにしていた。