第三章


 着いた先はオフィスビルが集まる街の中心部だった。
 タクシーは道路の端に寄り、歩道に降りればすぐそばで人がひっきりなしに行き交った。 
 ざわめく雑踏。油断のならない緊張感。
 ぼやぼやしてると後ろから邪魔だと言われそうに、俺はそこでオタオタとしてしまう。
 ノゾミの姉──そういえばまだ名前を聞いてなかった。
 声を掛けようにも、なんと呼んでいいのかわからず、俺は躊躇してしまった。
 その間に物事はどんどん先へ進もうとする。
「さあ、行くわよ」
「行くってどこへ」
「彼の会社よ」
 聞いた事のある社名が入った前方のビルを指差していた。
「そこに行って何をするんですか」
「確かめるのよ、本当に既婚者なのか」
「なぜそこで、部外者の俺が行かないといけないんですか」
「一人だったら怖いじゃない」
「えっ」
 積極的に見えて、内心はかなり恐れている。信じたくない気持ちもあることだろう。
 一人だと心細くて、とにかく傍に居た俺を連れてきてしまった。
 成り行きながらここまで来てしまうと、協力せざるを得ない。
「それで、どうするんですか」
「わかんない。天見君、訊いて来てよ」
「どうやって訊けばいいんですか。見ず知らずの者がいきなり会社に行って、掛けあってもらえるとも思わないけど」
「そんなの自分で考えてよ」
 なんと全てを俺に丸投げしている。
 目の前でオロオロとして親指を噛んだり、目がきょろきょろとして挙動不審にうろたえていた。
 この調子では、相手に見透かされて、また嘘を上乗せされ丸め込まれる事もあるだろう。
 仕方がない。
 俺はその彼の名前を始め、色々と情報を訊き出した。
 下北日出男、35歳、第一営業課長。
 明るくて頼りがいのあるハンサムな男だそうだが、そういう奴ほど女慣れしているというものだ。
 今はまだ仕事中だが、さっき受け取ったメールでは本日の夜に会おうと連絡してきたらしい。
 彼の仕事場は知っていたが、特に訪れた事もなく、連絡はいつもメールのやり取りをして、基本的に下北日出男の方から電話があるとのことだった。
 出会ったのも、しゃれたバーで、向こうから積極的に声を掛けられた事をきっかけに連絡を取り合い、いつしか自分にベタ惚れとなり、まるでお姫様を扱うように大切にされてきたと言っている。
 まだこの時は信じたい気持ちと、出会った時のなれ初めに心ときめくのか、のろけを聞いているようだった。
「それで自ら独身と言ったんですね」
「左手の薬指には指輪はなかったし、はっきりとそういってたから、それで私もつきあってもいいかなって思った」
「付き合って4ヶ月、まだまだ知り合って間もないですね。嘘をつかれてても、隠し通せる時期ですね」
「本当に既婚者なの?」
「だからそれを今から訊いてきます」
 俺は彼女のスマホを借り、ヤケクソも入っていたが、体に力を入れて、目の前のビルへと向かった。
 自動ドアを潜れば、スーツを着た男たちがせわしく歩き、その正面には受付の女性が二人座っていた。
 俺は背筋を伸ばし、そこに向かい、堂々とした態度で対応した。
「第一営業課長の下北日出男に会いたいんですが」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「叶谷といいます。そういって頂けるとわかります。ここに来るように言われたので」
 学校の制服を着ている俺を親戚のものと思ったのか、下北からの指示だと言うと変に疑いはしなかった。
 すぐさま電話を手にし『叶谷様がいらっしゃってます』と口にすると、問題なく電話は切れ、呼び出してもらえたようだ。
「すぐ参りますので、アチラの方で座ってお待ち下さい」
 俺は頭をさげ、手を差し伸べられた方へ向かう。
 そこには応接セットのソファーが添えられて、外から来る客をもてなす空間があった。
 そのソファに腰を掛け待つ事5分。
 グレーのスーツを着た浅黒の男が、受付に現れた後、俺の方へと歩いて来た。
 周りを見渡し、知ってる顔を探しているが、俺以外そこに居ないので困惑した表情をしていた。
「下北日出男さんですね」
 俺が声を掛けると、太い眉毛が露骨に動いて眉間に皺を寄せていた。
 訝しげに俺を見つめる顔つきが、とても邪悪にテカッている。
 ギトギトとした油ギッシュな見かけが、勢力溢れ、女性には男らしさとして映りそうだった。
「誰だ君は?」
「いえ、名乗る者でもないんですが、ちょっとお伺いしたい事がありまして」
 俺がソファーから立ち上がると、身長は俺の方が少しだけ高く、下北は少し怯んでいた。
「一体俺に何の用だ」
「あの、下北さんはご結婚されてますよね」
「はっ? 一体何が目的だ。見たところ高校生のようだが」
 あっさりと「はい」と言ってくれればいいものを、警戒していて、はぐらかされた。このままではだめだ。
「俺は高校生探偵なんです。そういうの聞いた事あるでしょ。有名なところで薬を飲まされて小さくなった奴とか」
「はっ? 探偵?」
「はい、実は今妊娠している奥さんから、浮気調査を頼まれまして」
「えっ、彩也子が?」
 引っかかった──
「はい、サヤコさんも、半信半疑みたいで、正式に頼むよりも趣味で探偵やってるような俺に軽く頼んでみたということです。それで調べましたら、叶谷さんという方が浮上しまして、とても美人な女性ですよね」
 全くの作り話だが、切羽詰まった発想の転換だった。
 しかし、上手く乗ってくれた。
「おい、彩也子になんて報告するつもりだ」
「見たままを、”奥さんの彩也子さん”にいうつもりなんですが、その前に下北さんにご報告した方がいいかなと、なんとなく思いまして、事によっては黙ったままの方がいいかなって、奥さん大事な時期ですし、話が話ですしね」
 交渉の余地を見せれば、すぐさま食いついてくれた。
「彩也子が払う額よりも多く払うから、このことは黙ってくれないか」
「そうすると、下北さんは”このご結婚”を壊したくないってことですね。彩也子さんが大切な奥さんだと認めていらっしゃるんですね」
「もちろんそうだ。だから彩也子には黙っててほしい。頼む」
「わかりました。俺も、人の幸せを壊したくないです。だけど、叶谷さんはどうするんですか? 見たところ相手は下北さんが既婚というのを知らないみたいですよ」
「それは、ただの遊びで、ゲームみたいなものだったんだ。まさか向こうが俺を好きになるとは思わなくて、それで結婚してるって言いそびれただけだ」
「酷い人ですね」
 俺は殴りたくなる気持ちを必死で押さえていた。
 浮気する男は自分の父親を想起させることでもある。
 自分の感情に流されないように、深く息をした。
 少しでもこの男をやり込めたいと、スマホをポケットから取り出し、下北に見せた。
「今の証言を録音させて頂きました」
「何っ、俺を脅して、もっと金をとるつもりか?」
「いえ、お金など一切いりません。その代り、今すぐに叶谷さんと別れて下さい」
 俺は下北の腕を掴んで、ビルの外へと連れ出した。
「ちょっと、何するんだ」
 立腹して抗っていたが、ビルの外で待っていたノゾミの姉の姿を見ると、一瞬のうちに大人しくなっていた。
 そのまま彼女の前に突き出してやると、気まずそうに顔を歪めている。
 周りは相変わらず人が通り、車が通る騒音で慌ただしい。
 しかしこの二人にはそれが一切聞こえず、見えずで、狭い場所に閉じ込められたように身動きできずに立っていた。
 彼女は不安げになりながらも、瞳の奥では最後まで信じたいという気持ちが下北を強く見ていた。
 下北はそれに耐えられず目を逸らし、俯き加減で意気消沈している。
 それが何を意味していたのか、彼女は敏感に感じ取り、鋭い目つきに変わった。
「ユメ…… すまん」
 下北が小さく呟いたその言葉。それがノゾミの姉の名前だった。
 ノゾミの姉らしいその名前を初めて聞いて、こっちまでなんだか泣きたくなってくる。
 この男のせいで夢がぶち破られたようで、俺はユメという名の響きに悲しくなった。
 俺はその傍でやるせなく、息を堪えるように立ち竦んでいた。
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