第五章 知らないからこそ・・・


 『俺に勉強を教えてくれ』──とセイから言われたあの時、勢いに飲み込まれて、俺は曖昧にも「ああ」と答えてしまった。
 もっとよく考えて発言すべきだった。
 俺も人に教えている余裕なんてないし、中間テストだってそんなに遠くない。
 今の成績をキープするためには気がぬけないし、それなりのプレッシャーもあるから、納得がいくまでやらなければ俺も油断はできない立場だ。
 それなのに俺は人に教える暇があるのだろうか。
 あの雰囲気の流れでは俺は断れなかったし、あの後セイの表情が緩んでいた。俺を見つめる目に希望の光が宿って煌めいていたようにも見えた。
 それが俺に心を許した瞬間にも思えて、俺もまんざら嫌ではなかった。
 しかし後になって、何をどうすればいいのか悩んでしまう。
 そんな俺を助けるように、その次の週の月曜の放課後、ノゾミが俺の前に現れ具体的な提案をしてきたのだった。
 奇しくもその日はノゾミが俺に告白してきてから一週間経った日でもある。
 まだ一週間しか経ってないということが信じられなくなるくらい、ノゾミと知り合ってからは振り回されてばかりの日々だった。
 出会った感傷に浸れるほどロマンスなど何も発生していない。
 なりそうにはなったが、ノゾミの鼻血でそれは邪魔された。
 ちょうどそれが起こった場所──俺たちは例の屋上にやってきていた。
 まだそこへ行くドアが開くのか、それを確かめたい気持ちも片隅にあり、静かに二人だけで話し合う場所を求めていたら、自然とそこに足が向いていた。
 誰にも気づかれないように、周りを気にして階段を上ってきたのだが、一度に4階まで上がってくると、ノゾミには堪えたようで少し息切れしていた。
 俺が率先して屋上に続くドアを開ければ、それは簡単に開いて、冷たい風がすぐさま俺たちに向かってきた。
 吸い込まれるように俺たちは外に出た。
 街が見下ろせる場所まで来ると、ノゾミは肩に掛けていたバッグを足元に下ろす。バックについていた緑色のマカロンが小さく揺れた。
 俺のバッグにもピンク色のものがついている。
 教室に入るなり、目ざとい江藤はすぐにその変化に気が付いてからかってきたけども、何が悪いとムキになって俺は却って抵抗した。
 俺の中でもすでに何かの意味を成してそれは根付いているということだ。
 俺が言葉にできない気持ちを抱え、マスコットを見て微笑んでいる時、ノゾミは何度も深呼吸し、息を整えていた。
 眩しそうに目を細め、太陽に体を向ければ、光に当たった肌の白さが透き通るようで、また壊れそうに儚く、必死に光合成するひょろっとした植物を連想させた。
 いや、可憐に咲こうとするスイスの山にしか生息しない幻の花──エーデルワイスと、この場合例えた方がノゾミも喜ぶかもしれない。
「大丈夫か」
 なんだか倒れそうにも思え、俺はついそんな言葉が口をついた。
「はい、大丈夫です」
 にこっと微笑むノゾミは、俺の前では常に無理をしているように思える。
 それでも、最初に会った頃よりは少し余裕が出てきたようだ。
 息が整うとノゾミは俺に向き合った。
「セイ君、天見先輩に会ってよかったって言ってました」
「そうか、それにしても、かなり難しそうな奴だったが」
「自分でもまだどう思っていいかわからなかっただけだと思います。バスケットの試合に負けた事はとても悔しがってました」
「まだ根にもってるのかよ」
「セイ君はどうしても先輩に勝ちたかったから」
「それじゃ俺は負けてやるべきだったかもな」
「ううん、それは悔しさを通り越して、侮辱になってたかもしれません。ああやって手加減なしに戦えたから、素直に悔しがれたんだと思います。手を抜かれて勝ってたら、憎悪が強くなって、嬉しい事はないと思います」
「ああいう年頃はややこしいからな。でも奴は上手かったと思う。俺が勝てたのはまぐれだろう」
「まぐれであったとしても、あの勝敗はセイ君にはとても意味のあるものでした。先輩がセイ君を認めた。それが彼には伝わりました。もし、セイ君が勝ってたとしたら、こんな展開にはならなかったと思います」
「それって、あいつが負けてよかったってことか?」
「そういう勝ち負けの意味じゃなく、セイ君が天見先輩と真剣に向き合えるきっかけに繋がってよかったって思うんです」
「セイにしかわからない感覚なんだろうけど、セイも多感で俺がノゾミと係わった事で余計な気持ちが入り込んだんだろう。輪を乱されたくないというのか、男心というのか」
「それは……。セイ君は確かに複雑な思いを秘めてます。いつか直接セイ君から訳を訊いて下さい」
 ノゾミはいいにくそうにしている。
「わかった、わかった。それは別にどうってことないんだ。とにかく勉強を教えるって事になって、俺は今頃になって戸惑ってるんだ」
「それなんですけど、セイ君も勢いでああいってしまったけど、天見先輩の負担になる事は避けたいみたいです。ずっと教えて欲しいって訳じゃなく、今度の中間のテストの点をとにかく上げたいそうです」
「中間テストか。そんなに時間もないな」
「もうすぐゴールデンウィークですよね。よかったらその時に集中して勉強の仕方のコツだけでも教えて欲しいそうです」
「ゴールデンウィーク?」
「はい、場所はセイ君の家で、天見先輩が時給を提示すればその通り払うとも言ってました」
「金なんて別にいいよ」
「それはセイ君と話合って下さい。ついでに私も一緒に行きます。私もお手伝いします。先輩もご自身の勉強道具持ってきて勉強して下さっていいそうです」
「ということは皆で勉強するってことか。別にいいけど」
「昼食も出すって言ってました。食べたい物、好きなものがあれば事前にリクエストしてほしいそうです」
「見かけによらず結構気を遣う奴だな」
「セイ君は本当はとてもいい子なんです。今一生懸命前を向いて頑張ろうって思っていて」
「俺もそれはわかるよ。俺に似た部分もあるし、親近感湧いて、あいつ憎めないよな」
「はい、そうです」
 ノゾミの顔がパッと晴れたように喜んでいた。
 集中講座のように、セイとの勉強は4月29日の昭和の日から始まる事になった。
 カレンダー通りの休みの日を中心に朝から夕方まで、それは5月7日の日曜日まで続くこととなった。
 受け入れた以上最後までやるつもりでいるが、ノゾミと一緒にセイの家に行けば、それはそれで、また俺は複雑な感情が湧き起こった。
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