第六章


 まともに見た父の顔は、患者と向き合う医者の顔つきに見えた。
 色々な病気に携わり、数えきれない患者を診てきたのだろうという、しっかり見据える眼差しが俺にも向けられている。
 医者としては立派なものを感じながらも、そこに家庭的ではない男のだらしなさも浮かび上がって、俺はやっぱり嫌悪感を抱き、顔が強張った。
「嶺は将来をどのように考えているんだ」
「具体的には特に何も。ただ、母を助けて今よりも楽な暮らしになればとは思ってます」
「そっか」
 父は小鉢に箸をつけ、それを口に運んで咀嚼してからまた話し出す。
「未那子──は、苦労してるのか」
「女が働きながら一人で子供を育てる事がどういうものか…… 普通、想像つくかと思いますが」
「そうだな。すまなかった。私はどうも想像力を働かせられないらしい」
 馬鹿な質問をしたと思ったのだろう。
 箸をおいて、俯き加減になっていた。
「母はそういうのを感じないように、仕事にやりがいを持って前向きに働いてますけど」
「未那子はしっかりもので、完璧になんでも一人でこなそうとする努力家だった。そこに惚れたものだったが、一緒に暮らせばそれが息苦しくもあった」
 最初はよく見えても、後になると全く正反対に思ってしまう。男女間ではよくあることだ。
 だがそれを息子の俺が聞かされるのは、耳障りなものがある。それでも父はやめなかった。
「すでにわかってることだから隠す必要もないけど、離婚の原因は私の浮気だ。言い訳するつもりもないが、あの時は家庭に戻っても息苦しくて、逃げ道を求め てしまった。そこに子供がすぐにできなかったことも一因して、上手く行かない事に未那子もイライラが募っていたと思う。何もかも完璧にこなさないと気が済 まない性分だから、頑固なところもあった。仕事で疲れて帰ってきてほっとできなくなると、私は逃げてしまった」
「よくある展開ですね」
 他人事のように俺が口を挟むと、父ははっとして顔を上げた。
「すまない。今更言ったところで仕方がなかった。だが、嶺がお腹にいた事がわかっていたら、私は離婚などしなかった」
「でも浮気相手の方が先に妊娠したんじゃなかったんですか?」
「あれは私も母に焚き付けられて、そっちを選ぶように説得された。私もあの時は血迷って、跡取りを優先させてしまった。でもそれも流産という結果になって、罰が当たった。その間に嶺がすくすくと育っていった」
「そしてその結果、その浮気相手とも上手くいかず別れた」
「そこまで知られてたら面目ないな。その通りだ。なんとかまた未那子と復縁をしようとしたけど、そこは一度決めたら貫き通す頑固な性格のため、拒否された」
「そこで、生まれた俺だけでも引き取りたかった、跡取りのために」
「そうだ」
 父は開き直っていた。
「母は断り続けているうちに、あなたはまた新しい伴侶を見つけ、そしてすぐに息子を授かった。それでその後は母と俺の事はどうでもよくなった」
「すまない。本当に悪いと思っている」
 謝り倒すしかないのだろうが、当事者の俺はやっぱり許せないと思った。
 そういうところは母親の血が色濃くでて頑固という事だろうか。
 料理はその後も次々と運ばれ、他にすることがないだけに黙々と食べていた。
 どんなに高級な素材で作られた料理であっても、気持ちが苛立って美味しく味わえない。
「今すぐに返事をしてくれとは言わない。よく考えてほしい。この先、医者を選ばなくても、大学へ行く費用は私が払う。だから安心して進学をしてほしい。それは父親としての義務だと思っている」
「義務…… あなたはそれで許されたいとでも」
「いや、許されなくてもいい。それは私が望むからだ」
 俺を見る父の眼差しが、俺を案じて物寂しげに潤んでいる。
 過去の事は清算できないとわかってる上で、俺に少しでも何かを与えようとしていた。
 俺は困惑していた。
 もし母が離婚などせず、父と一緒に生活をしていたら、俺はこの人の事をどう思っていたのだろう。
 人間的には弱い所はあるかもしれない。だが、医者としての仕事はきっちりとしてきたものは見える。
 きっと何人もの病の直らない人や死を見てきたことだろう。そこには直せない医者の限界に絶望し、困難にもぶち当たり、辛い思いもしてきたのだと思う。
 だからこそ自分の家では安らぎを求めた。
 夫婦間の事はわからない。母にもきっと母の立場があり、それは当事者同士にしか見えないものがある。
 またここでも何が正しくて何が間違っているのか、俺はわからなくなった。
 ただ、父が揃った家庭に暮らしたかった。
 その時、無性に虚しくなり、俺の思考が遮断した。
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