エピローグ

 俺は恥も外聞もなく、潤った赤い目をして家に帰ってきた。
 鼻水も垂れてズルズルとぐずっていた。
 ノゾミの事を考えると、罪悪感と行き場のない思いに胸が潰されそうになる。
 その度に、またカッと目頭が熱くなって、涙が見る見るうちに溜まって流れてしまう。
 大切なものを失ってしまったその悲しみは、後悔と自分の愚かさで悔しく、そしてとてつもないノゾミへの思いに心引き裂かれてどうしようもなかった。
 すれ違った人たちが時々振り返ったりしていたが、俺は人に何を思われてもどうでもよかった。
 酷い顔をして玄関のドアを開く。
 家はひっそりとして、静かだった。
 何もする気も起こらず、人形になったように魂が抜け、気怠くテーブルにつき、暫くボーっと座りこむ。
 考える事はノゾミの事ばかりだった。
 俺はノゾミに助けられて、新しい世界で生きている。
 ノゾミに与えられたこの命を無駄にはできない。
 でも俺が存在しても、ここにはノゾミがいない世界になってしまった。
 やるせなさに襲われ、俺はテーブルに突っ伏した。
 どうしようもない悲しさに押しつぶされそうになっている時、その目線の先に食器棚の引き出しがあった。
 それを見て突然目覚めたように起き上がり、引き出しを開けた。
「あった!」
 それはレスポワールのろうそくだった。
 もしかしたら、もしかしたら──
 なんだか急に希望が湧いて、ドキドキとして手が震えだした。
 ノゾミがもたらしたこの世界の発端はこのろうそくのせいに違いないと、一縷の望みが現れた。
 だが、ただ火をつけるだけではだめなような気がする。
 ノゾミが作り出した願いが叶うケーキ──これだ!
 思い立った俺は戸棚を開け、小麦粉を引っ張りだした。冷蔵庫からはバターと卵。
 だが生クリームがない。オーブンもなかった。
「材料を買って揃えてもどうやってケーキ作るんだよ」
 気持ちだけが先走り、事が上手く行かなくてもどかしくてたまらない。
 その時ハッと閃いた。
 フライパンで作ればどうだろうか。
 もしかしたら、なんとかなるんじゃないだろうか。
 ノゾミに教えてもらった事を思い出し、俺は卵を割ってボールに入れた。
 それを泡だて器でかき回すが、手首が痛くてだるい。
 しかし、そんな事言ってられない。
 一心不乱で泡だて器でかき回していた。
 次第に手ごたえが出てきて、もったりしてくる。ノゾミに教えられたあの時と同じように生地を作っていった。
 見掛けは結構それらしきものができた。これならいける。
 ドキドキとしながら、フライパンをガスコンロに置いて火にかけた。
 しかし生地を流し込めば、ただのホットケーキになってしまった。
 でも、めげずに数枚焼いて、焼きあがったものを重ねていく。そうするうちに形だけでもケーキになってくれた。
 生クリームも飾りも何もない、積み重なったホットケーキだが、俺にとっては願いが叶うケーキだと、ぐっと力を込めて言い聞かせた。
 そこにろうそくを飾り、さらにぐっと腹に力を込めた。
 俺が願う事──それは過去に戻ってノゾミを助ける事。
 ノゾミを救いたい。
 白血病でも、治療が早ければ助かる事がある。
 俺は絶対にノゾミを死なせはしたくない。ノゾミが俺を死なせたくないと願ったように──
 ろうそくに火を点け、俺は暫くその炎を見て、精神を集中し、そして願いを心に強く浮かべて、息で吹き消した。
 きっと何かが起こる。そう信じていたが、時計の針は進むばかりで、何も起こる気配がなかった。
「なんでだよ」
 がっかりしてしまうも、ずっと堪えて奇跡を信じてケーキを睨んでじっと座って待っていた。
 しかし、何も起こらない事に段々虚しくなってきた。
 その内八つ当たりするように、目の前のホットケーキにフォークをグサッと差し込み、一枚を持ち上げて大胆にかじってやった。
 口の中がパサパサして、飲み込むときむせてしまう。
「こんなケーキじゃだめなのか……」
 意気消沈して、テーブルに突っ伏しいじけてしまう。
 暫くそのままの格好でじっとしていると、ドアベルが鳴り響いた。
「こんな時に、一体誰がきたんだろう」
 夏なのに、急に寒気を感じ震えながら、ドアを開ければ、いきなり「お、お誕生日おめでとうございます!」と女の子の声が聞こえてきた。
 その子は無理をした様子で、おどおどして、おれにケーキの箱を差出している。
「えっ、誕生日? 俺の?」
「はい。ケーキをお届けに参りました」
 ケーキの箱から視線を移して、目の前の女の子の顔を見れば、真っ赤になっていた。
 その時俺は目を見開いた。
「ノゾミ!」
 名前を呼ばれ、ノゾミはびっくりしている。
「もしかして、今日は12月25日?」
「はい、そうですが……」
 俺は後ろを振り返り、家の様子を見てみた。
 ストーブがあり、壁に掛かっていたカレンダーは去年の12月になっている。
 俺はハッとした。過去に戻ってる。
 もしかして、これはホントに……
 そう思った瞬間、俺はノゾミの腕を引っ張った。
「ノゾミ、とにかく上がれ」
「あの、下で姉が車で待ってて」
「それじゃユメさんもここに連れてきて」
 親しげに自分と姉の名前を呼ばれたから、ノゾミは益々困惑している。
「でも、あの」
「俺の誕生日を一緒に祝って欲しいんだ。頼む」
 俺が顔を近づけてお願いすると、ノゾミは真っ赤のまま断りきれずに承知した。
「わ、わかりました。ちょっと待ってて下さい」
 ノゾミはケーキを俺に渡して、慌てて下に居る姉を呼びに行った。
 俺はその後姿をずっと見ていた。またノゾミに会えた喜びで嬉しくてニヤニヤが止まらない。
 ノゾミがエレベーターのボタンを押して振り返る。俺がじっと見てたことに恥らって、そわそわしていた。
 エレベーターに慌てて乗り込み、視線をあちこちに漂わせて、ドアが閉まりだすと軽く頭を下げた。
 俺をまだよく知らないノゾミに会うのは新鮮だった。
 しかし、戻れたことは嬉しいが、これからどうすればいいのだろう。
 俺はノゾミを助けられるんだろうか。いや、助けなくてはならない。だから戻れたんだ。
 ついでにユメもセイも助けなくてはならない。
 みんなが幸せに生きる、新たな世界にしなければならない。
 そして俺は絶対に医者になってやる。
 ノゾミが抱えてる病気を治せるように。
 人の役に立って、沢山の人を幸せにできるように。
 迷ってる暇はなかった。後悔のないように突き進むだけだった。
 与えられたこの瞬間を俺は大切に過ごさなければならない。
 俺が今できる事、しなければならない事。
 前のままの俺じゃダメなんだ。
 必ず俺は変えてやる。俺にはそれができる! できるんだ!
 そして俺はノゾミとこの先を一緒に歩む。

 やがて、ノゾミが嫌がるユメを無理やり引っ張って連れてきた。
 俺は丁寧にお礼をいい、二人に家に上がってもらった。
 テーブルの席に座ってもらい、俺はケーキを自分の前に置いた。
 ノゾミが、一緒に持ってきたレスポワールのろうそくをケーキに立ててくれた。
 俺はマッチを台所の引き出しから取り出す。
「なんか無理やり誘われて訳がわかんないけど、めでたい席だし、私がやってあげる」
 ユメがマッチを奪って火をともす。
 そして二人が顔を見合わせ合図をすると、バースデーソングを歌い始めた。
 ノゾミは一生懸命に、ユメは面白半分に歌い、俺は少し照れながらそれを聴いていた。
 歌が終わり、ノゾミが恥ずかしそうに俺に言う。
「願いをしっかり思い浮かべて吹き消して下さい」
 俺は頷き、思いっきり吹き消した。火が消えると、二人は祝福の拍手をしてくれた。
「それで何を願ったの?」
 ユメが訊くと、ノゾミは諌めた。
「お姉ちゃん、願いは叶うまで言っちゃいけないんだよ」
「そっか、だったら、願いが叶った時、なんだったか教えてよ」
「はい」
 俺の願い。
 それはノゾミを助け、俺の大切な人たちが幸せになること。
 俺がこれから変えてやる。
 きっと俺にはできる──
 ノゾミが俺のために、ケーキを切ってお皿に入れてくれた。
 俺はノゾミの笑顔に見守られながらフォークを差し込み、大きな口を開けて、そのイチゴがたっぷりのったケーキを幸せ一杯に頬張った──
 

The End


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最後までお読み頂きありがとうございました。


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