過去のブルーローズ


 ショッピングモールで私が買い物をしているとき、マリーと偶然ばったり出会った。
 それだけで嬉しかったが、一緒にモールの隅にあるカフェでコーヒーを飲もうと彼女から誘われて、更に喜んで顔が自然と綻んだ。
 熱いコーヒーを片手に、小さなテーブルを囲んで、クラスの課題の事を討論して話に花を咲かせていたら、どこからともなく聞き覚えのあるピアノの曲が聞こえて来た。
 モールの建物の、中央辺りにグランドピアノが置いてあり、買い物客に演出するかのようにその演奏を披露していた。
 マリーも私もピアノの曲が聞こえると暫く聞いていた。
「素敵ね。私も少しならピアノが弾けるの。でもピアノを買うことができなくて、結局練習もできずに、それ以上上達しなかったわ。こんな風に弾けたら、なんて素敵なのかしら。この演奏してる人、かなり上手いわ」
 うっとりとするような目で彼女は聴いていた。
「私は演奏は得意ではないな。もっぱら聞くだけかな」
「ダニエルはどんな曲が好きなの」
「私は気持ちを盛り上げてくれるロックが好きだな。マリーは?」
「私はやっぱりクラッシックね。特にモーツアルトが好き。うまく弾けるようになりたくてそればっかり弾いていたわ」
 クラッシックが好きと言われ、自分も一応そうだと付け加えておけばと思ってしまった。
 演奏は馴染みのあるメロディが流れ、知ってるだけに耳に心地よく、落ち着いた気持ちにさせてくれた。
 何曲か、そういう有名な曲が続いて演奏され、それをBGMに聴きながらマリーと話をしている時だった。
 全く知らない曲が流れ、マリーがそれに過度に反応した。
 その曲は私の知らない曲だったが、マリーには違った。
「この曲だわ、この曲なの。私ずっと探していたの」 
 マリーは興奮しておもむろに立ち上がり、その曲を追いかけようとした刹那、足がテーブルに当たって、そこに置いてあった飲みかけのカップが倒れて、中身がこぼれてしまった。
「あっ!」
 お互い咄嗟に声が出たが、それは運悪く私のシャツにかかってしまい、バタバタと慌てては、その場所で注目を浴びてしまった。
「あーごめんなさいダニエル。どうしよう」
 側にあった紙ナプキンを何枚も取り、マリーはこぼれたコーヒーをふいていた。
 申し訳なさそうに、私のシャツも拭いていた。
 その指先は、すらっとしていて、それが私に触れていると思うと、私はコーヒーをこぼされてもそんなに嫌ではなかった。
「マリー、大丈夫だよ。ピアノ気になるんだろ。早く見てきなよ」
 そうしているうちに曲の演奏が終わってしまった。
 そして次の曲は始まらず、マリーは私の顔を見て躊躇いながらも、振りきるようにピアノの場所まで走って行った。
 余程あの曲に何か思い入れがあるに違いない。
 私は簡単にコーヒーの後片付けをして、後からマリーを追った。
 その時までは私はまだ幸せだったかもしれない。
 あの時、コーヒーがこぼれたこと、あれは私の運命を決める選択の分かれ道だったに違いない。
 もし、あの時もう少し時間がずれてこぼれていたなら、あれは私に味方した神様の計らいになったことだろう。
 それとも、マリーを試す出来事として起こったことなのだろうか。
 ピアノの曲を取るか、私を取るか。
 結局はピアノの曲を取った訳だったが、やはりあれも運命だったとしか思えない。
 最初からあの二人は出会う運命だった。
 もっと早くそう思えていたならば、また違ったのかもしれないが、私が選んだ道が全て裏目に出てしまうのが、なんとも皮肉だった。

  ピアノが置いている場所に来た時、マリーはがっかりした表情をしていた。
「遅かったわ。演奏者はすでに立ち去った後だったわ。でもちらりとだけ誰が弾いていたかは見られたわ。男の人だった」
「あの曲は有名な曲なのかい?」
「ううん。私も知らない曲。でも違うところで聞いたことがあるの。とても繊細な曲で一度聞いてすぐに気に入ったの。それで誰の曲か知りたくて探していたと言う訳」
 その時はその曲の題も『私を探して』なんて知らなかったし、その曲が私を苦しませる程のものになるとも思わなかった。
 そして再びその曲を聴いたときは悪夢の始まりだった──。
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