過去のブルーローズ


 私はなんとか、マリーとデイビッドを引き離そうとそればかり考えるようになった。
 デイビッドは定職についておらず、夢を追いかけてアルバイト生活をしている。
 それよりも、私の方が将来を約束され、この先マリーに不自由させないくらいの生活を与えることができる。
 マリーも私と同じ分野を目指す科学者志願であり、これほど目的が同じなことも、長い目で見れば歓迎すべきことではないだろうか。
 一時の憧れで、ピアノという夢を追いかけるよりも、現実を見れば、堅実にお金が舞い込んでくる方を選ぶ方が正しい。
 マリーは一時的な気の迷いに過ぎない。
 私が目を覚まさせれば、私の価値に絶対気がついてくれる。
 そして何より、デイビッドが居なければ、またマリーと元の関係に戻れると浅はかに考えてしまっ た。
 今ならまだ間に合う。
 マリーを取り戻せると信じて止まなかった。
 私はすでにこの時正気を失い狂っていた。
 だから、馬鹿なことを計画し、先の事も考えず、感情のままにそれを実行しようとしていた。
 私はデイビッドを殺そうとまで思い詰めてしまったのだ。
 そんな事をすれば、自分の人生が狂うことすら気が付かず、善悪の境界線がなくなる程、自分でも見境がつかなく なってしまった。
 あの時は必ず上手くいくと思っていたが、今思うと必ず捕まるのは目に見える。
 人はこういう時に道を誤るものだと身をもって知らされた。
 感情に支配され、自分を見失う以上に、世間体や常識からも遠ざかってしまう。
 まさに悪魔に支配され、残酷に己の醜い欲望をむき出しにしていた。
 私はデイビッドをセイントローズ教会へ呼び出し、強盗を装ってナイフで刺そうと企んでいた。
 本当に馬鹿げた計画だった。
 しかしそれは、ある人のお陰で実行することを免れることになったが、それは本当に感謝すべきことだった。
 計画実行のある夜、私が薄暗い教会の中に潜んでデイビッドを待っている時だった。
 あの当時は、遅い時間でも誰もが自由に教会へ入ることができ、そして神に祈りを捧げることを許されていた時だった。
 時代と共にそれも制限されるようになったが、普段昼間に教会に来ることができない人のために、神と心を通わせる機会を解放していた。
 そんな場所で私は悪魔のように潜み、デイビッドの命を狙っていた。
 そこへ、一人の見知らぬ男性が入ってきた。
 余計な邪魔が入ったと、私はいらついたが、その男性は私の存在を知らずに、ひたすら祈りだした。
「神様お願いです。どうか妻が無事に子供を産みますように。妻と子供をどうか私から奪わないで下さい。私の命と引き替えて下さって結構です。どうか愛する妻とこれから生まれてくる子供をお守り下さい」
その男性は必死に祈っていた。
 自分の命を捧げても良いほどに愛する人を守りたいその気持ちは、私を我に返らさせた。
 愛する人のために命を捧げようとしている男、一方で愛する人のために命を奪おうととしている自分。
 私が人の命を奪って、愛する人が私を愛してくれるだろうか。
 それを自問自答したとき、私は力が抜けて、持っていたナイフを思わず落してしまった。
 その音が静かな教会で響いたと同時に、男性が私の存在に気が付いて、私の姿を探し、教会の隅で身を隠している私を見つけた。
「他にも人がいらっしゃるとは気が付きませんでした。あなたも神様に何か願いを捧げておられたのですか」
 その男性は、私から何かを感じ取り、義務のように私に質問してきた。
 教会は薄暗く、目を凝らせばかろうじて辺りが見えるくらいの照明がついていた。
 誰もが悩みを持ち、ここで神に祈るくらいだけあって、ここに来る者は誰しも思いつめている。
 そんな時に、何かを落として音を立てたことで、勘が働き異常を嗅ぎ取ったとしか思えなかった。
 私は、言葉につまり、喉の奥につかえた苦しみの喘ぎ声を、何度も咽喉に反射させていた。
 私が何も答えないでいると、さらに男性はその場を取り繕うように話し出した。
 それが独り言のようにも、聞いてほしいことのようにも思え、私は自然と耳を傾けていた。
「私には身篭った妻がいるのですが、体が弱くて出産が無事にできるかどうかわからないのです。そして万が一のときは子供の命も保証されておりません。でき るなら自分の命と引き替えにしても愛するものを守りたいと思って、それでいつもここへ来ては祈りを捧げています。仕事が忙しくこんな時間にしか来ることが できませんが、私の他にも来られている方がいるとは知りませんでした」
「自分の命と引き替えにしても守りたい……」 
 私はその言葉を繰り返した。そしてその男性の言葉はまだ続いた。
「はい、愛する人を私は守りたいのです。愛する人には幸せになって欲しいんです」
 私はその時やっと目が覚めた。
 『愛する人には幸せになって貰いたい』
 その言葉が胸に重くのしかかり、凍っていた私の心を溶かしていく。
 そして自分がしようとしていた恐ろしさに初めて気が付いた。
 私が呆然として震えていると、その男性は心配して私の元に近づいて来た。
 そして足下に転がっていたナイフに気が付き、少し驚いた様子であったが、何かを悟ったように私の肩に軽く触れた。
「あなたも何か思い詰める程の事があったんですね。でもきっと神のご加護がある事と思います。一緒に祈りを捧げましょう。私達の大切なもののために」
 再び手を合わせ、男性は静かに祈りだした。
 私はその様子を目を潤わせて見ていた。
 何に対して、涙がこみ上げてきたのかわからないが、私の間違った考えが浄化して、悪いものを追い出していたのかもしれない。
 祈りが終わると、男性は静かに笑みを向けた。
「一緒に祈って下さってありがとうございました。とても心強くなりました」
 男性は私に右手を差し出した。
 私は恐る恐るそれに触れると、力強く握られた。
「温かい手をされている」
 そういうと、男性は一礼し、そして私の前から去っていった。
 静かに足音がコツコツと暫く響いたが、ドアが開いて、再びしまった後、また静寂さに包まれた。
 それは恐ろしいほどに、音の無い世界に思えた。
 男性が言った言葉が頭の中で何度も繰り返される。
 その男性こそが、アレックス・スタークであり、ライアンの父親だった。
 後にアレックスから、おとり調査の協力を頼まれる事になるが、私が断らなかった理由は、この時の借りを返すためであった。
 あのときアレックスに会わなければ取り返しのつかない事をしていたかもしれないと思うと、アレックスはまさに私の救いの恩人だった。
 そうして、暫く経った後、デイビッドが教会に現れた。
 私が呆然として立っている真っ黒い影の姿を見つけ、ゆっくりと近づいてくる。
 緊張している息遣いがかすかに聞こえ、デイビッドが私と向き合った時、息を飲んでいた。
「ダニエル、こんな時間に僕を呼び出してどうしたんだい」
「デイビッド、一つ聞きたいんだ。マリーの事をどう思っているんだ」
 私の質問にデイビッドは少し戸惑ったが、それは予期していた質問でもあったのだろう。
 少し間を置いて覚悟を決めて、力強く答えた。
「愛している。ダニエル、君も彼女の事を愛しているんだろう」
 今度は私が一瞬言葉に詰まってしまったが、私も正直に告げた。
「ああ、愛しているよ。悔しいけどマリーは僕よりも君に気があるみたいだけどね」
 デイビッドは私とずっと話したかったのか、この時とばかりに思いを伝えてきた。
「僕はマリーにはふさわしい男だと思わない。職も不安定で君のようにしっかりとした将来も保証されていない。君の方が数倍もマリーにふさわしい男だと思っている。マリーが幸せになるのなら僕はこのままマリーの前から姿を消して、彼女の事を忘れようと思っているんだ」
 私はそれを聞いて驚いた。
 デイビッドと言う男は私が思っているような男ではなかった。
 私は今までデイビッドに抱いていた感情が恥ずかしくてたまらなくなった。
 しかもさっきまではこの男を殺そうとまで考えていた。
「デイビッド、君がマリーを思うのは自由だし、私が思うのも自由だ。マリーが誰を選ぶかも自由だ。一番の彼女の幸せはマリーがどうしたいかじゃないのじゃないかい」
 私はもうデイビッドになんの感情も抱かなかった。
 マリーがどうしたいのか、それはマリーが自分で選ぶのが一番だと自分でも言い聞かせるためにあのような事を自分のために言った。
 暫くデイビッドと私は見つめ合っていた。
 そしてデイビッドは教会の祭壇のステンドグラスに目をやり話し出した。
「そうだな。なあ、ダニエル、なぜこの教会のステンドグラスに青いバラがデザインされているか知っているかい?」
 私は首を横に振った。
「やはり誰も知る訳がないよな。だってこれは僕がトールマン神父に提案したんだ。ブルーローズには不可能という意味があるけど、ここで愛を誓いあえば、その愛が壊れること は不可能という意味をここでは表しているんだ。すなわち永遠の愛。僕はマリーと出会ってそんな愛を誓える女性にやっと出会ったと思ったよ。でも僕には自信 がなかった。それにいつも君の存在が大きかった」
「私の存在が大きかった?」
「ああ、君は素晴らしい人だよ。頭も良くてしっかりとしていて、僕なんか足下にも及ばないくらい程かなわない」
 私は自己嫌悪に陥った。
「私は君が思っている程大した男ではない。こんな男が君に敵わないだって。そんなことがあるものか。私の方が君の足下にも及ばない」
 私は怒った口調で答えてしまった。
 それは情けなさとやるせない思いが自分の中で爆発した。
 デイビッドはなぜ私が怒ったのかわからなかっただろうが、私は自分が許せなくなった。
 自分よりもデイビッドの方が比べ物にならないくらい立派な男だった。
 自分の醜い部分をさらけ出し、もう少しで犯罪を犯そうとしていた自分が非常に腹立だしくて、もうそれだけで勝負の勝敗はついていた。
 私はそれ以上デイビッドと話をする気がなくなった。
「デイビッド、後悔のないように君の好きにするがいい」
 私がそう言うと、デイビッドは祭壇のステンドグラスをじっと見つめていた。
 そして私はその場を去った。
 それからは、何事もなかったように過ぎ去っていく。
 卑劣な男に成り下がろうとしてたことすら、すでに振り払い、マリーの事も考えないように私は勉強にだけ励んでいた。
 そして後にマリーから知らせを聞くことになった。
「ダニエル、聞いて。 私、デイビッドと結婚する。彼がプロポーズしてくれたの」
 もう私の入る余地は全くなかった。
 複雑な心境だったがマリーがそう決めたのなら、何も言うことはできなかった。
 素直に祝福はできなかったが、私なりに一生懸命、彼女の幸せを願おうと必死だった。
 マリーの表情は今のエレナと同じように幸せそうで、何よりもデイビッドを愛していたのがよくわかった。
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