グッバイ、ブルーローズ

 夢を見ていた。
 激しく命を揺さぶられながら、永遠に走り続ける夢。
 足を踏み込めば、地面は脆く崩れ、後ろが常に崖となる。
 踵のすぐ後ろ、足をついた瞬間を狙って切り崩し、地獄の入り口が迫る。
 いつ落ちてもおかしくない危うい瞬間。かろうじてそれを避け、必死につんのめって、前に駆け出す。
 深い地面の底から熱い炎が噴出し、それが手となり掴もうと瞬時に迫ってくる。
 灼熱の赤い空の下、乾ききったひび割れた不安定な大地の上を、全力を出し切って、我武者羅に逃げ切る。
 何度も危うく足をとられ奈落の底に落とされそうになりながらも、また揺らぎる炎で焼き焦がされそうになりながらも、打ち克とうと決して諦めなかった。
 まだくたばれない、生に拘る意地が、ボロボロの濡れ雑巾のような体の中に残っている。
 決して汚れが落ちない、悪臭を放つ汚さでも、擦り切れて穴が開いていようとも、まだ使い道があると思いこんでいる哀れな体。
 生きたいと願う以上、魂はそんな体にすがりつき、太陽の色に似た命の炎を放つ。
 気の遠くなるような時間を走り続け、それが永遠に続いてもいいと思っていた。
 走り続ける限り、死から逃げられるからだ。
 それが長い時間走り続ければ続けるほど、罪を償っているかのようにも思えた。
 このままずっと走り続けていられるのだろうか。それとも地獄へと落ちてしまうのか。それは一体誰が最終的に判決を下すのだろう。
 神か、悪魔か、それともこの俺自身か。
 先行きが全く無い荒廃しきったこの世界でも、沸き立つ血がドクドクと流れ、情熱となって希望へと繋げようとする。
 バカの一つ覚えのように俺は必死に走る、そんな夢だった。

 やがて目が覚めた時、無機質な白い天井の白さが俺の目に飛び込む。真っ白な漂白剤だと思った。
 俺は動かずにそれをずっと眺めていた。
 次第に走り切った達成感が俺の目をジンジンと押し上げる。
 勝利の瞬間、俺は何に感謝していいのかわからないまま、溢れ出る心の底からの思いを必死に沈めようとしていた。
 俺が目覚めた意味を知ろうと冷静になろうとしてたのだ。
 そして忘れられないあの人を思い浮かべ、俺はひたすら彼女の幸せを願った。また生きて彼女の幸せを願える事も嬉しく思えた。
 その瞬間、微かに口許が無意識に上向き、同時に、そんな自分がおかしかった。
 張り詰めていた緊張が解けたことも、我慢せずに笑えた事も、窓から差し込む光が優しく注いでると気にかけた事も、滑稽に思えた。
 まだ体は相変わらずボロボロで、ほんの少し動かすだけで焼け付く痛みを腹に感じるが、血が巡り、心臓を動かし、空気を吸っていることが有難かった。
 安息を与えられるまま、こんなに安らいでいいものなのだろうか。
 心に罪悪感が現われるも、甘んじたい欲望が強く、俺は素直になることにした。
 窓の外に目をやり、綿のような雲が徐々に形を変えて流れていく空を、自分の心の中と照らし合わせ、ゆったりとした気持ちで眺めた。

 後にあの男が、俺の寝ているベッドの側にやってきた時、俺は知る限りの全てを話した。
 そうすることで、俺が守られる事も、相手の利益になる事もわかっていた。
 約束は固く結ばれ、すでにお互い信頼を抱きあっている。かつて敵となる場所でそれぞれの役割を果たしていたというのに。
 俺の体に染み付いた罪はそのままに、それが明らかに目に見えていても、目の前の男は組織を上げて目を瞑った。
 どんなに自白しようとも、証拠が無い限り誰も俺を罪に問わない。その証拠が残っていたとしても、あの男なら見てみぬフリをするのだろう。
 『忘れろ』
 それは男の命令だった。
 俺が犯した罪、俺ががかつて行ってきた全ての事、そして俺の本当の名前。
 俺は未来と引き換えに全てを捨て、新しい名前を与えられた。
 それはどこにでもあるような安っぽい響きがした。だが悪くない。かつて愛した人が犬を呼ぶ時に、そんな名前を口にしていた。
 俺は「ありがとう」と一応礼をいい、自分でその名前を呼んでみた。耳の奥にすんなり届き、こだましながら頭の中に入り込んでいった。
 新しい名前で俺は新しいものに上書きされた。
 あまり愛着があったわけではないが、捨てられてしまった過去の名前に少し寂しさを覚えたのも事実だった。
 それと同時に俺はあの人への思いを手放した。
 報われることの無い愛とわかっていても、一緒に過ごした過去を思い出せば相好を崩すほどに心が満たされ、それだけで溢れんばかりに気持ちが奮い起こされた。
 言葉にならない思いを、こんなにも抱いたことがないことこそ、幸せな一時を味あわせてもらった。
 哀れな愛だといわれようが、眩く、まっすぐに思いを乗せて輝いた後悔のない愛だった。
 どんなに体が汚れていても、精神が擦り切れていても、常にそれだけは自分の中でもっとも美しいものだったはずだ。
 かつて笑うことを忘れ、心を閉ざしていた俺が、そんな風に人を心から愛せたことに感謝したいくらいだった。
 
 怪我の傷が疼いている。
 顔を顰めた俺に対して、こんな怪我で生きていることが信じられないと思ったのか、男は心配するより感心して笑っていた。
 俺は地獄の入り口でずっと走っていた事を話し、すがり付いて死から逃げ切ったと説明してやった。
 男は「そうか」と感慨深く頷き、やはりまた感心するように、鼻から息を出して笑っていた。
 暫く見ていた男の顔は、微かに俺の嫌いな奴に似てると思った。あいつの顔が目の前の男を通じて浮かび上がってくる。
 生意気で、格好つけて、女たらしの、あの気障やろう。
 だが、俺はどうしても憎み切れなかった。嫌いだと口で言い切っても、本心は屈託の無いあの素直さをどこかで気に入っていた。
 矛盾してるが、俺の中にも嫉妬という感情があったということだった。だが、それも今ではどうでもいい。
 子供のように大人気ない感情が胸奥で湧き上がっていたことが今では愉快だ。
 割り切った感情の裏に充分あいつを殴り、手加減せずに蹴り入れたことで借りを返せたことも大きいのかもしれない。
 これもまた、えらく子供っぽい考え方だと、笑いたくなってくる。

 帰る間際、男が俺の新しい名前を呼んだ。俺は犬になったような気持ちで、それに返事する。
 俺がしっかりと新しい名前を受け入れたのを確認すると、男は満足して病室から出て行った。
 再び静寂さが広がった病室で、俺は窓から空を覗く。
 安らぎに身を任せ全てが終わったと思った瞬間、突然、はっとしてしまった。
 もやもやとして、穏やかだった心が急に乱され、顔を顰める。
 名前を変えて、生まれ変わったこの時、新しい名前でまた一から免許を取り直さなければならないのだろうか。
 運転免許は問題ないが、パイロット免許の取り直しは面倒くさい。
 今の新しい俺にはそれが一番の懸念だった。

 The End
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