第一章
2
エレナはあの時、本当に後をつけられていた。
つけていた男が確かに存在していた──。
田舎の地方のダウンタウンは町の中心であっても、殺伐とした高層ビルが立ち並ぶような場所ではなく、まだここは緑豊かに自然と調和した落ち着きがあった。
雨は多いが一年を通して気候がよく、夏は涼しく、冬は暖かいといった過ごし易さがある。
繁華街は路面電車が通り、人通りも多い。
そこから少し離れた場所に、まだ近代化される前のビルがあり、古き時代の形を残したままこじんまりとしていた。
町の中心部からずれると、寂れた雰囲気がするが、却って風情があるというものだった。
この辺り一体は、知る人が知る隠れた場所のように、ビルや小さな店が並んでいた。
その一角に、二階建ての小さな建物があり、一階は流行ってるのかわからない古本屋が入り、その左隣にある階段をあがると、探偵事務所へと続いていた。
その建物の前で黒いスーツに身を纏い、また服とお揃いのように黒いサングラスをかけた男が一人立っては、首を上げ、大きな窓がある二階の様子を思いつめた厳しい表情で見ていた。
そして階段を上り、ドアに書かれているサイン『お気軽にお入り下さい』を見ては、躊躇うことなくノックもしないでドアを開き、はっきりとした声で言った。
「依頼をしたい」
それがエレナをつけていた男であった。
窓を背にした机の前で、黒い革張りの椅子に腰掛け、ダークグレーのスーツを身に纏ったこの事務所の主の手元が止まり、突然入ってきた男をじっと見た。
その瞳は一瞬で全てを読み取れるほど厳しく、お客が前に現れても愛想を見せることはなかった。
誰もが一度はその目に怯むが、入ってきた男は物怖じせず、それに負けないくらいの威厳で挑んでいた。
どちらも引けをとらず、お互いの力を誇示しながら対峙した。
「どんな依頼かね」
探偵のハワードが静かに言った。
泣く子も黙るそのきつい目つきのせいで変わり者と言われるが、それがどんな小さなものも見落とす事のない注意深さを現している。
男はハワードの机の前に来て、スーツの懐から一枚の写真を出し、それを目の前に差し出した。
そこにはエレナが写っていた。
男は簡素にやってほしいことだけを伝えた。
その依頼は奇妙なものだった。
ハワードはぎろりと視線を男に向けた。
「それでは確認するが、君の依頼は人探しではなく、この写真の人物を探そうとしている奴がいたら君に知らせると言うことで、間違いはないかね」
「ああ、それで間違いはない」
男は凛として背筋が伸びていた。
立ち方、身の振舞い方、声の抑揚、そこからハワードは読み取る。
この男は只者ではない──。
ハワードの直感が危険な匂いを本能的に感知する。
男もそれが読めたのか、先手を打った。
「私が何者か、またなぜそのような依頼をするのか、一切詮索をしないで欲しい。君はかなりの凄腕との噂を聞いた。少しの情報も見逃さない。また秘密厳守とも聞いている。金はそちらの要求だけ払う。私の言う通りにして欲しい」
ハワードのセンサーに全てが引っかかった。
──無駄な依頼だ。私に何を言う。
ハワードは少し口元を上げ、余裕の笑みを浮かべる。彼の発する言葉は決まっていた。
「断る!」
静かな事務所にシャープな声が響く。
依頼人の男は引き下がるそぶりも見せず、沈黙してじっとハワードを見つめていた。
今度はハワードが男に言い聞かす番だった。
「私は依頼者との信頼関係を重視している。依頼者が私に心を許さない限り一方的な要求はいくら金を貰おうが受けな い」
しかし男も引き下がれない。
「私には素性が明かせない理由がある。私はその写真の彼女を守りたい。彼女には今危険が迫っている。彼女を探している奴等は何をしでかすかわからない連中ばかりだ。いつか君の腕の噂を聞いてここにもいずれ現れるかもしれない。その前にどうしても阻止したい」
だがこの言い訳はハワードに通じる訳がなかった。
──そんなことだろうと思った。
ハワードには先が読めていた。
突然椅子から立ち上がり、男から視線を外すと窓際に寄って外を眺め、自分の余裕さを見せ付けた。
これからじりじりと迫り、もっと真相を聞きだしてやるつもりでいた。
「ということは、この写真の彼女はこの街に住んでいる。君は彼女の居場所を知っている。そうだね」
言い終わる直前に、鋭い目つきを男に投げかけた。
男は何も答えない。
感情を押し込めすぎる無表情さが却って不自然に思え、サングラスの裏で変化する瞳の様子が見えるようだった。
──自分の推理は間違っていない。
ハワードは調子付く。
「彼女は君の存在を知らない。そうじゃないかね。危険が迫っているなら直接君が知らせて避難をさせれば済むことだ。それができないとなると君も彼女を追っている連中となんらかの関係がある。さあ私の質問に答えたまえ」
男の口元が微かに動いた。
ハワードはもう少しだと鼻でくすっと笑った。
「その調子では私が何も言わなくても、いずれ私の依頼の真相がわかってしまうだろう。しかしそれを知ってしまうと君も巻き込まれる危険がある。命の保障はしない」
少しでも真相を知られないようにと危険を仄めかすが、全くそんな脅しにハワードは動じない。完璧主義のこの名探偵に敵うわけがなかった。
この男はハワードの協力を欲しがるがために、ギリギリの交渉を仕掛けている。
そこが男の弱みとなり、ハワードに有利に働いた。
少しのチャンスも見逃さない。
強気のハワードはさらに駒を進めようと、挑むように鋭く睨みつける。
「依頼は簡単そうだがその裏にはかなりの複雑な問題がありそうだ。中々面白そうだ」
「それじゃ引き受けてくれるのか」
「いや、そうではない。やはりある程度の事は知っておきたい。内容を把握してからでないといくら簡単な仕事でも受ける訳には行かない。私は君の言う通り秘密厳守の男だ。外部には絶対に漏らさない自信はある。もう一度言う。私を信用しない依頼人の仕事は受けない」
──この男は賽を投げる。
男から軽い溜息が漏れると、ハワードは勝利を確信した。
「わかった。君を信じよう。なぜ私がそのような依頼をするのか理由を話そう。しかしそれを聞いたとき君にも危険が迫ることを覚悟して貰いたい」
ここまで来るともう好奇心が止まらない。ハワードは活気付いていた。
しかしそれと引き換えにとてつもない大きな危険がやはり潜んでいた。
だが、それすらお構い無しなほど鼻から息が洩れるように興奮する。
全ての話を聞き終えた直後にハワードは静かに言った。
「その依頼を受けよう」
ハワードが味方になったのが嬉しかったのか、肩の力が抜け、男の表情が少し和らいだように見えた。
簡単な契約を交わした後、男はハワードが提示した金額以上の依頼金と連絡先のメモを机の上に置いた。
渡された金額の多さが危険の大きさを正されてるようで、ハワードが何か言おうとしたその時、いきなり事務所のドアが開いた。
騒がしくライアンが鼻歌交じりに部屋に入ってきた。
彼はハワードの助手と名のばかりの、雑用係だった。
男は入ってきたライアンの顔を見るや、敵意を持って睨みつけると、さっさと何も言わず事務所を出て行った。
その男の態度に何かひっかかるとでも言わんばかりに、ハワードは訝しげになっていた。