第一章


 後をつけられ、暫くは用心していたが、時間が経つにつれ何も変化がない様子に、エレナの警戒心が次第に薄れていった。
 心配の種には変わりはないが、すぐに行動を起こしてこないという事は、自分を捜している輩ではないと判断するには充分だった。
 もし自分を捜している奴らであれば、無理やりに連れて行かれてここには居ないことだろう。
 しかしそうすると、一体誰が何の目的で自分をつけていたのか。
 それがわからないだけ不気味さは残っていた。
 気は休まらないが、それは今に始まったことではない。
 油断した時が一番危ない事もわかっているので、今回の事は却って再確認するいい機会になったと割り切って済ますことにした。
 ストレスを発散するつもりで体を動かす掃除に励み、エレナは一生懸命家事をこなす。
 自分が磨き上げて綺麗になった大広間の床を見て、エレナは満足に微笑んだ。
 汗ばんだ額を軽く拭き、ふーっと息を吐くと同時に、一応の蹴りがついた気分になった。
 ところが、皮肉なことにその直後、再び懸念が舞い込んだ。
 一難さってまた一難。
 今度は一通の手紙が災いをもたらした。
 この施設は、シスターパメラが責任者となり管理を任されている。
 シスターとつくくらいなので、とても信仰心が厚く、神に仕える身分だった。
 この施設で暮らす子供達やエレナにとってはそれ以上の存在で、まさに母親そのものでもある。
 物静かで、落ち着きを払っていはいるが、見掛けの細さからは想像ができないほど芯は強く、また誰にでも愛情を注いで慈悲深い。
 常に優しさの塊のようなシスターパメラであるが、この時ばかりは珍しく顔を青くしてうろたえていた。
 幸い周りに子供達は居ず、エレナだけが手紙を持って震えているその姿を見てしまった。
「シスターパメラ、何があったんですか」
 エレナが声をかけると、シスターパメラはさらに狼狽し、心配させないように振舞おうとするが、却って言葉を失ってしどろもどろになってしまった。
 そんな姿を見れば、エレナも動揺してしまう。
 自分の誕生日が、母親の命日という不運な出で立ち、母を知らず育ったエレナにとって、シスターパメラの存在は母そのものだった。
 その女性が我を忘れてうろたえている。
 彼女の尋常じゃない態度は、エレナを不安にさせた。
 エレナは落ち着かせようと優しくシスターパメラを抱擁する。
 一人で抱え込んで欲しくないと体で示していた。
 シスターパメラはその気遣いに少し落ち着きを取り戻し、そしてエレナと向き合った。
「市長が…… この施設から出ていって欲しいと言っているの」
 それはとてつもないショックの何者でもなかった。
 エレナの感情が一瞬のうちに噴出して、怒りで震えだした。
 その態度を気にしながらも、シスターパメラは手紙の内容を説明する。
「元々ここは市が無償で提供してくれているわ。市や人々の寄付のお陰で運営が成り立っているの。その市がここを取り壊したいと言っている。この建物は古いし、壊してこの辺りを近代化にしたいみたいなの」
「そんな…… ここを追い出されたら、子供達はどこへ行けばいいんですか。新しい場所は用意されてるんですか」
「いいえ、それについての具体的な内容はないわ。それは自分達で勝手に探せということなのかもしれない」
「なんて無責任な」
 エレナは憤るが、そこに自分にも危険が迫る不安も加算されて、もうこの時点でエレナは我を忘れていた。
「私、市長に話に行きます。この施設がとても大切な事を市長にわかって貰います」
 もう我慢できない。力ずくでも説得してやる──。
 飛び出そうとしたときエレナの腕が強く引っ張られた。
「待ってエレナ、今市長に話しても何も変わらないわ。何も明日立ち退けとは言っていないの。今年中にと言ってるの。まだ時間がある分、その前にここを守る対策を考えましょう。きっと何か手だてがあるはずよ」
 何も考えずに感情任せに出かけてもなんの解決にもならない。
 熱くなったら猪突猛進になるエレナの悪い癖だった。
 今は落ち着かなくてはとエレナは反省した。
 エレナが感情をむき出しにしたことで、シスターパメラは我に返り、自分がしっかりすべきだと息を整えた。
「エレナ、今は辛いかもしれないけど、きっと神のご加護があって、解決策が見つかるわ。だから神にお祈りをしましょう。私達が落ち着いてしっかりしなければ、神も応えてくれないわ」
 二人は再度抱き合い、お互いの気持ちを共有する。
 エレナの感情も冷却されるように、静まっていった。
「エレナがそのような思いを抱くくらいよ、今は子供達には黙っておくべきだわ。暫くは様子を見ましょう。それから、具体的な案が模索できるまで、このことはまだ誰にも言わないで欲しいの。とにかくこの問題は私に任せて」
 この施設に深く関わりがあるものに言えば、誰もが感情的になりやすく負担をかけてしまう。
 シスターパメラも、そのことを考慮して言った言葉に違いない。
 暫くはシスターパメラの言う通りにするしかなかった。
 エレナは言葉では理解できても、感情が納得行かず、つい塞ぎこんでしまった。
 シスターパメラも先の見えないことに内心不安でたまらない。
 どちらも複雑な思いを抱き、暫く黙り込んでいる。
 ここでじっとして考え込んでいても仕方がないと、シスターパメラは残っていた仕事に取り掛かろうと部屋を出て行こうとしたとき、エレナへの言付けを思い出した。
「あっ、そうだわ。ポートさんから連絡があったの。エレナに手伝って欲しいことがあるらしいわ。とにかく、今はポートさんの所へ行ってもらえるかしら」
「ポートさんが? 一体なんの用事だろう」
 心配事が重なるこんな日に、外へ出向くのは抵抗があった。
 しかし、ポートの頼みは無視することができない。
 ポートは、陽気な面倒見のよいおじさんで、この施設にボランティアでよく来ては子供達の世話をしてくれていた。
 男親がいないこの施設では、ポートが父親代わりとなってくれて、子供達にも良い影響を与えてくれる。
 少し太り気味ではあるが、またそこが愛嬌があり、その体の大きさと同じくらい懐の大きい人である。
 年はそろそろ孫がいてもおかしくないくらいだが、訳があって独り身だった。
 エレナの事を自分の娘のように可愛がり、何かあると気遣ってくれる人だった。
 ここは暗い顔をしないように気をつけながら、エレナはポートの所へと向かうことにした。
 しかし、立て続けに二度も嫌なことが起こってしまうと、三度目も何か起こりそうに思えてくる。
 空を見上げれば灰色の雲しか見えず、天気ですら暗く、希望の光もない。
 それだけでも悪い方向に繋がって、嫌な予感を感じさせた。
 深く考え込みながらバス停に立ち、一人寂しくバスを待つ。
 やがてダウンタウン行きのバスが現れ、エレナは乗り込んだ。
 そしてそれがこれから向かう運命へ導くとはこの時思いもよらなかった。
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