第十章


 病院に着いたとき、真っ先にハワードが入り口で出迎えてくれた。
 エレナの具合いは落ち着いてもう心配はないと一番に告げたくて、ライアン達が到着するのを待ち侘びていた様子だった。
 ハワードに教えられて、カイル、ライアンそしてダニエルはすぐにエレナの病室に向かった。
 その間、ハワードはアレックスと話し込んでいた。
 病室の前に来れば、エレナの意識は回復していないために、面会は身内のみと限られ、父親であるダニエルと婚約者のカイルは認められたが、ここでライアンだけ入ることができなかった。
 ライアンは、潔く一歩下がり、カイルに笑みを見せていた。
 すでにライアンは諦め、カイルの方がエレナの相手に相応しいと認めている。
 救出すれば、素直に祝福してやりたいと思っていたから、退くのが当たり前の流れだった。
 ダニエルは何かを思いながら、ライアンのその姿を見ていたが、何も言えず仕舞いだった。
「また後でゆっくり会うさ。俺もまずこの肩を手当てしてもらわないとな。やっぱりちょっと痛い」
 寂しく笑うライアンは、側を通った看護師に声を掛け、どこへ行けばいいか訊いていた。
 そして、ライアンは肩の治療のために看護師に案内されて、廊下を歩いていった。
 カイルとダニエルはその姿を見届けていた。
 カイルはダニエルと二人きりになり、緊張していたとき、ダニエルが話しかけた。
「君がエレナの婚約者ということは、エレナも君の事を愛してるということだね」
 その言葉にカイルははっとしてしまった。
 カイルはどう答えるべきか迷いながら言葉を口にした。
「僕達は長い年月を一緒に過ごしてきました。エレナが施設で生活を始めてから、現在まで僕は彼女の一番近いところで見守ってきました。僕も彼女と同じ施設 で一時育ちましたが、その後は養子に貰われ、今後はそこの跡取り息子として会社経営を任されます。エレナを幸せにするだけの財力と地位を持ち合わせている と自負しています。そして何より、僕は彼女を愛しています」
 ダニエルはカイルを優しく見つめ、自分と良く似た部分を感じていた。
 エレナがカイルを好きなことは事実だろうが、その気持ちも自分がマリーと一緒に居た時の事を思い出せば、マリーもそうであったようにダニエルには好感を持っていた。
 だがそれはマリーにとって大切な気持ちでもあったが、ダニエルが望んだ恋愛感情以外のものであった。
 カイルを見ていると、どこか自分と重なる部分があり、そしてエレナは自分の本来の気持ちに気がついてないように思えてならなかった。
「エレナが君の事を愛しているのなら、私は何も言うまい。もちろん祝福しよう。私は昔、エレナの母親マリーを愛していた。エレナの父親が飛行機事故で死ん でしまったとき、私はもしかしたらマリーは自分に振り向いてくれるかもしれないと、非常識な事をあの時考えてしまった。お腹にエレナがすでに居たことも 知っていたので、自ら父親になりたいと何度もプロポーズした。しかしそれが却って、マリーを苦しめていた事に気が付かなかった。そして頑なに私の援助も受 けようとしないで、一人で育てようと、身篭った体で無理をした。そのせいで、出産の時に体調を崩したのが原因で死んでしまった。私は自分を愛してくれなく ても、マリーが側に居てくれるだけでよかったと思っていたが、それは間違いだったと後で気が付いたよ。自分の事ばかり考えてマリーの幸せを考えてやれな かった事を悔やんだ。だからエレナにはどうしても幸せになって貰いたいんだ。カイル、エレナを幸せにしてくれると約束してくれるかい」
「もちろん約束します」
 カイルは幸せにする自信はあった。
 だが、ダニエルの言葉はカイルに迷いを生じさせ、そこに自分がダニエルと同じ立場であることに気が付いてしまった。
 エレナが側に居てくれるだけでいいと自分もそう思っている。
 エレナが本当に好きなのはライアンだと感じているのに、カイルは仕事の失敗を盾にエレナに結婚を断れない状況を作ってしまった。
 エレナは一生懸命カイルに合わせようとしては、支えるためだけに自分を犠牲にしている。
 それがわかっていても、カイルはエレナを手放せなくて、そこを利用してしまう。
 それでいいと割り切っていたのに、ダニエルを目の前にして、彼の経験を聞いてしまった後ではカイルは苦しくなってしまった。
 しかし、すでに事は進んでしまい、カイルは今更エレナを手放す勇気がない。
 カイルは迷いながらその後は何も言えなくなってしまった。
 それでもダニエルはカイルを気遣い、優しく微笑んでいる。
 またそれが重く圧し掛かってしまい、カイルは悟られないように口先だけの笑いを返していた。
 そして、カイルとダニエルはエレナの病室へ入った。
 一命を取り留めたといえど、腕には点滴をされ、酸素マスクをつけて眠っているエレナの姿は見ていて痛々しくなる。
 カイルは長く見ていられなかった。
「コナー博士、エレナが無事だと言う事が確認できただけでも僕は満足です。僕はロビーの待合室で彼女が目を覚ますのを待ってます。あとは宜しくお願いします」
 カイルはダニエルが何か言おうとするのも無視して、すぐさま部屋を出て行った。
 ダニエルはカイルの事を気にしつつも、自分が口を挟めない事もわかっていた。
 エレナの側に寄り、マリーにそっくりなその様子を眺めながら、早く目が覚めるのを待っていた。

 一般病棟のためか、待合室は比較的落ち着いていて、夜も更けてくると人は居なかった。
 そこにはここに訪れるすべての者を落ち着かせるように、壁にはめ込んだ水槽が設けてある。
 その水槽はインテリアと化して、カラフルな動くイラストのように美しいものだった。
 コミカルに動く、色とりどりの魚は暫しの癒しを与えてくれた。
 その水槽の近くの椅子にカイルは座り、飽きることなく魚の動きを眺めていた。
 エレナが目を覚ますまで部屋に一緒に居るつもりで、面会したものの、ダニエルの言葉で心のどこかに罪悪感が芽生えてしまった。
 一時はそれを受け入れて、納得していた感情だったのに、再び迷いが心に表れ、あのままあそこでダニエルと一緒に過ごすことがカイルにはできなかった。
 ダニエルが自分の心の中を読み取るのではないかと思うと、居た堪れなくなって逃げてきてしまった。
 カイルは溜息をつき、魚同士の追いかけっこをうつろな目でいつまでも眺めていた。
「カイル、こんなところで何をしてるんだ?」
 傷の手当が終わったライアンが、待合室にやってきた。
 カイルは腕時計を見て、かなりの時間を過ごしていたことに気がついた。
「休んでただけだが、ライアンこそ、傷は大丈夫なのか?」
「ああ、肩を掠っただけで骨には異常はなかった。しかし、表面は抉れてるけどな。なんか悔しいけど、撃ち方が上手かったみたい」
「なんだよそれ。敵を褒めてどうすんだ」
「だけど、プロだけあって、考えて撃ってた。悔しいけど、お蔭で助かった。レイはどうなってるんだろう。撃たれる方だって考えて撃たれてる事も可能だよな」
 めちゃくちゃな理論だが、そこに助かって欲しいという気持ちがあるため、ライアンは必死に願っていた。
「もちろん助かって欲しい。だけど、レイの事は一体どうなってるんだ?」
「まだわからない。この病院のどこかにいるとは思うけど、親父がどこに居るのかわからなくて、訊きようがないんだ」
「そういえば、ハワードはどこに行ったんだ?」
「ああ、多分、俺達の代わりに、親父に連れられてるんじゃないか。一応、重要参考人だし、ハワードはその点、適してるからな」
「そっか。とにかく今は僕達も休んだ方がいいな。なんだか眠たくなってきたよ」
「そうだな、今になって疲れたって気分だぜ」
 ライアンは大きなあくびをしていた。
 カイルもそれに釣られて同じく口を開けていた。
 二人は椅子の背もたれに背を当て、目を閉じていた。
 水槽の中の魚たちは、その二人の前で、尾ひれを振って狭い空間をいつまでも泳いでいた。
 疲れていた二人はやがて、寝入ってしまい、そのまま朝を迎えた。
 カイルが目を覚ました時、側にハワードが居て同じように仮眠を取っていたことに気がついた。
 時計を見れば、まだ一般的に夜が明けたばかりの時間帯だった。
 水槽に視線を向ければ、魚達はいつ寝たのだろうというくらい、すでに動き回っている。
 まだはっきりしない寝ぼけた眼でカイルは水槽を見つめていた。
 そのうちハワードが目を覚まし、カイルに話しかけた。
「エレナには会ったのか?」
「ああ、少しだけ様子を見ただけだ。まだ意識は戻ってなかったけど、容態は落ち着いてるみたいだった」
「そうか」
「ハワードは一体何をしてたんだ?」
「ん? まあ、色々さ。アレックスに、レイから受けた依頼の事を話したり、自分が知ってる限りの情報を伝えた」
「それで、レイはどうなったんだ?」
 ハワードはすぐには話さなかった。
「……ライアンは起きてるのか?」
「ああ、俺も起きてるよ」
 気だるい声だった。
「そうか、だったらちゃんと聞いてくれ。レイは、最善をつくしたけど、ダメだった」
「えっ?」
「何だって!」
 疲れ切っていたカイルとライアンだったが、体に力が入って構えてしまった。
「嘘だろ、そんな事って……」
 ライアンの息が荒くなっていた。
「本当だ。こればかりは仕方がない。レイは腹を撃たれていたんだ。出血も酷く、ここに運ばれた時には虫の息だった」
「なんでだよ。なんであいつが死ぬんだよ! あんなにタフな奴なんだぜ。そんなのおかしいじゃないか!」
「ライアン、静かにしろ。ここは病棟だ。入院患者が多数いる。場所をわきまえろ」
 ライアンは、持って行きようのないやるせない思いに体を震わせていた。
「それで、レイのボディはどこに?」
 カイルが訊いた。
「それはすでにアレックスが引き取って、ここにはない。アレックスが責任持ってレイを手厚く葬ると約束してくれたよ」
「そんなに簡単に済ましていいことなのか。結局は後片付けみたいにレイは捨てられるみたいじゃないか」
「そんな事はない。アレックスだってできる限りの事をやってる。遺体を見ればライアンだって辛くなると思ってのことだ。このままレイを安らかに眠らせてやりたまえ。彼は最後までエレナを守り、そしてライアンをも守ったんだろ。最後は朽ち果てた姿を見せたくなかったはずだ」
 ハワードに言われ、ライアンは最後に見たレイの笑みを思い出した。
 瀕死の中でレイはライアンに向けて微笑んでいた。
 ライアンが銃を撃って、Jを傷つけてしまったことを怖がっているのを、気にするなとでもいうような笑みだった。
 あれを見たから、ライアンは立ち直れたところがあった。
「くそっ!」
「かっこよく、レイのイメージを壊さずに、逝かせてやれ。それがせめてもの供養だ」
 同じ男として、ハワードの言葉は一理あると思えるのが癪だったが、すでに全てが終わっている以上、ライアンは受け入れるしかなかった。
 カイルもまた、最後までエレナを守り抜いたレイの生き様に感銘を受けると共に、惚れた女に命を捧げてまで自分を犠牲にしてきたことが、重くのしかかる。
 自分の事は二の次にエレナの幸せだけを考えていたレイの事を考えると、カイルは益々混迷していた。
 カイルが視線を移した水槽の中の魚達は、暗く沈んだ男達の前でスイスイと自由に泳いでいた。
 そこが自分の住む場所として、受け入れなくてはならない魚達。
 見るものの目を楽しませてはくれるが、魚達にとっては果たして幸せなのだろうか。
 水槽の設備はお金を掛け、世話も完璧にされている。
 だがそれは見る側にとってのためで、魚の事を考えているのだろうか。
 本来部屋では見ることができない、水の中の世界。
 カイルは自分もそういったものを、人工的に作り出そうとしているのではと思えてきてならない。
 ライアンに視線を向ければ、レイの事を考え、暗く落ち込んでいる。
 レイはライアンを嫌ってると口では言っていたが、ライアンは唯一レイが認めた男であることは間違いがないだろう。
 レイが死んでしまった後、カイルは取りとめもなく自分の立場が明確に現れてくるような気がしてならない。
 それを振り払い、カイルは精一杯自分を保っていた。
 その時、ダニエルが現れ、カイルはなぜか心にちくりとしたものを感じた。
「皆さん、こちらにいらっしゃいましたか。エレナの意識が戻りました。皆さんの事をとても気にかけてます。是非会ってやって下さい」
 意識が戻ったことでほっとするも束の間、カイルは複雑な心境に自分が陥っていることを感じていた。

 神妙な面持ちでエレナの病室に三人が入ると、エレナは弱々しいながらも、笑顔を向けた。
「皆、助けてくれて本当にありがとう。皆が無事でよかった」
「それは僕達の言葉さ。エレナが無事でよかったよ」
 カイルはこの時、エレナの一番側に積極的に身を置いた。
「ライアン、その肩、まさか撃たれたの?」
 黒い革ジャンに穴が開き、血の染みで変色が見られていた。
 エレナは目を潤わせてそれを見ていた。
「いや、大したことないんだ。かすり傷程度なんだ。心配するな。それよりもレイが……」
「レイはどうしたの?」
 ライアンは歯を食いしばり、その後を言えなくなってしまった。
 ハワードがその後を義務のように伝えた。
「レイは、致命傷を負ってしまって、帰らぬ人となってしまった……」
「えっ、そんな」
 エレナは息を詰まらせ、眼球が揺れ動いては、取り乱していた。 
 ダニエルも後でそれを聞いていて、動揺していた。
 エレナは黙祷を捧げるように目を閉じ、黙り込む。
 目じりからは涙がこぼれていた。
 暫し皆、レイの事を思っては何も言えなくなっていた。
「レイはやっと自由になったのね。やっと……」
 エレナは、感情がこみ上げて震えていた。
「エレナ、まだ安静にしなければ。あまり体に負担を掛けてはいけない。自分の事だけを今は考えるんだ。早く体を治してまた元気なエレナに戻って欲しい。僕達は先に帰るけど、君が一日も早く戻ってくるように願ってるから。向こうでその日を楽しみに待ってる」
 カイルはエレナの流した涙を軽く指で拭ってやった。
 そして、ライアンとハワードに目で指図し、病室から出ることを示唆した。
 三人は静かに病室を後にした。
 ダニエルは引き止めるようにその後を着いていった。
「皆さん、そんなに急がなくても」
「いえ、僕もまだ自分の遣り残した問題が残っています。それにハワードも仕事があるし、ライアンも怪我をしてますからゆっくり休みたいだろうし、博士も休養が必要です。とにかく今は親子水入らずで暫くエレナとゆっくり過ごして下さい」
 カイルが全てを仕切っていた。
 一番ここから去りたかったのはカイル自身だった。
 血は繋がってなくても、ダニエルはエレナの父親には変わりない。
 その側に居れば自分の気持ちが揺れ動き、とても苦しく感じる。
 カイルも冷静になるための時間が欲しかった。
「わかりました。皆さん、本当にありがとうございました。また後日、ゆっくりとお会いしましょう」
 ダニエルは一人一人に握手を求め、強く握ることで感謝の気持ちを表していた。
 いつまでも三人の後姿を見えなくなるまで見送っていた。
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