第十章


 居間の窓辺で海を見つめるエレナは、儚げな妖精のようでいて、ダニエルは声を掛けるのを躊躇っていた。
 エレナの容態がよくなり、この時、家で自宅静養していた。
 年月が経ってから久しぶりにエレナと自宅で過ごすが、ダニエルにとって真実を知ってしまったエレナと向き合うのは容易いものではなかった。
 自分のせいで苦労をかけてしまい、不自由な生活をさせてしまったことに罪悪感を持っている中で、子供からすでに大人になってしまい、そこにマリーとそっくりな容姿のエレナと向き合えなくて、ダニエルは困惑している。
 話をしなければならないのはわかっているのに、エレナの体の回復を優先するあまり、どうしてもそれを避けてしまっていた。
 伸ばしに伸ばしている間、時間はすぐに過ぎていき、そしてエレナはまたここを離れていく。
 その前に話し合わなければならない切羽詰った思いに、ダニエルは煮え切らない気持ちを抱いていた。
 エレナもダニエルの心情は理解していたが、上手く自分の気持ちを伝える自信がなく、ダニエルが気遣う度にどこか遠慮してしまう見えない壁を感じていた。
 十年という月日は、エレナには多感な年頃でもあった時でもあり、その時間を経てから真実を知った今、複雑な思いが生じている。
 お互いギクシャクしているのはどうしようもなかった。
「エレナ、起きてていいのかい」
「体の痛みは多少あるけど、気分はとてもいいわ。お父さんこそ、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫さ」
「お父さん、この海の景色、きれいよね。ここは全然変わってないわ」
「そうだね」
「でも、私は変わってしまったわ。同じ景色を見ているのに、見ている私が変わってしまった」
「エレナはとても美しく変わったよ。こんなに美人になってるなんて思いもよらなかった」
「それって、マリーにそっくりになってるって思わなかったってこと?」
「えっ?」
「お父さんは、私を通してマリーを見ているわ。でも私はマリーじゃない、エレナよ。お父さんが育ててくれた娘よ。ほら、良く見て、マリーに似てるけど、良 く見ればお父さんなら違いがわかるわ。私も自分が大きくなってから母の写真を見た時は、正直びっくりしたけど、ずっと見てたら、違いがあることに気がつい た」
「エレナ……」
「もう目を逸らさないで。この十年間、確かにお父さんも私も苦しんだわ。そこにお父さんが私の本当のお父さんじゃないって知って、私は信じられなかった。 でも、それはもう私にはどうでもいいことのように思えるの。お父さんはやっぱりお父さんだし、それはもうこの景色と同じで変わらないものなの。私達、沢山 の事を犠牲にしたかもしれない。でも犠牲にしたのは私達だけじゃない。レイだって命を張ってまで守ってくれた。それを忘れちゃいけないと思う。だから、だ から……」
 ダニエルは我慢できなくなってエレナを抱きしめた。
 エレナは全てを受け入れた上で、乗り越えようとしている。
 腫れ物に触るように、気を遣うのではなく、敢えてその傷口に触れて痛さを実感してから治したいという恐れない気持ち。
 取りとめもない言葉の中に、エレナの言いたいことが直接ダニエルに伝わる。
「すまなかったエレナ。私は父親の資格なんてないと思った。エレナがかつて私が愛した人にそっくりな事も、正直戸惑っていたよ。十年間苦労掛けてしまった 事も、申し訳なかった。謝っても謝りきれない。でもエレナが望んでいるのはこの先また父娘としてやり直すことだよね。エレナを赤ん坊の時から育てたのは、 この私だ。やっぱり私はエレナの父親でありたい」
「そうよ。お父さんはお父さんなの。そして、私には二人のお父さんがいるってこと。それが事実ってことなだけ」
「エレナ、ありがとう」
 二人は気持ちをぶつけ合うことで、打開していく。
 エレナは目に涙を溜めながらも、一生懸命笑おうとしていた。
 ダニエルはさらに強く抱きしめた。
 まだこれは第一歩に過ぎなかったが、乗り越えるためにステップを踏んだだけでも進歩だった。
 ここからまた更なる努力が必要かもしれないが、それは恐れずに直視してこそ解決するものに思えていた。

 そして、エレナと過ごせる残りの時間は、過去を確認するように、小さかった頃のエレナの写真を引っ張り出し、ダニエルはその頃を懐かしがっては、その歩みを振り返っていた。
 少しずつ思い出を語り合う事で、十年間の時を埋めようと過ごしていた。
「エレナは、すっかり大人になってしまった。なんだか寂しい気もする。小さかった頃、いつも飛び跳ねてはお転婆だった。時々、ふらっと出かけては居なくな る事もあって、何をしでかすかわからなかった。一度足を怪我して、レイと一緒に帰ってきた時は驚いたもんだった。あの時、足の怪我だけじゃなく、エレナの 様子がおかしかったから頭を打ったのかと思って大変だった。レイもあの時は責任を感じてしまって、うろたえていたのを覚えてるよ」
「そんな事もあったね。あの時、確か、海辺の岩場でこけたんだった」
「あの怪我はかなり血が出てたし、派手に足を切ってた。それなのに、エレナは上の空で足を引きずって帰ってきた。レイが何度もおんぶしようとしたけど、それを拒んで歩いて帰ってきたって、すごく申し訳なさそうに報告してくれた」
「レイは心配症だったから」
「エレナのために、兄となってよく面倒見てくれた」
「そうね、本当にレイには感謝しきれないわ。もっと色々と話したかった。レイが死んだなんて私には信じられない」
 それはダニエルにとっても同じ気持ちだった。
 捉われていたときにレイが自分の下にやってきた時は心強かった。
 レイのお蔭でエレナが無事であることを確認でき、だからこそくじけずに踏ん張ってこられた。
「レイはエレナの幸せを願ってくれたんだ。その気持ち忘れちゃだめだぞ」
「わかってるわ」
「なあ、エレナ、本当にカイルと結婚するのかい?」
「えっ?」
「あっ、私がとやかくいう筋合いはないのはわかってる。だけど、それがエレナの本当の気持ちか、父親として、確かめたくなった。こんなときにすぐに父親面するのもアレだけど」
「カイルは私には勿体無いくらいいい人よ。いつだって助けてくれたし、私の事とても大切にしてくれる。それに性格も穏やかで、頭もいいし、仕事だって一生懸命で、将来は社長さんよ。こんなパーフェクトな結婚相手、他に居ると思う?」
「もちろん、彼に会ったとき、私もいい人だと思った。結婚相手には申し分ない人だとも思う。だけどそこにエレナの気持ちが入ってないように思えるんだ。もしエレナが結婚したいと強く願うのなら、一番最初に、愛しているという言葉が出てくるんじゃないのかい?」
「あっ、も、もちろん愛してるわ。だってずっと一緒に過ごしてきたんですもの。かけがえのない人よ」
 エレナはどこかムキになり、後には戻れないと突進んでいる節があった。
「エレナ、ライアンとはどうなっているんだい?」
「えっ、ライアン? ライアンは、その、色々と助けてくれて、その……」
 名前を呟くだけで、エレナの心拍数が急に上がって、動きがぎこちなく動揺が走っていた。
 ダニエルにはエレナの本当の気持ちがわかっていた。
 しかし、エレナにも色々と事情があり、口を出せば余計にムキになってしまうのも見えていた。
「いや、なんでもないよ。とにかく、エレナが幸せになって欲しいだけさ」
「うん、わかってる」
 ダニエルはソファーに深く座りなおし、静かにアルバムに視線を落として、ゆっくりと見ていた。
 エレナは暫く黙り込んでいたが、ダニエルの隣に移動して腰を下ろした。
 小さいときも、不安があればエレナは同じように側に座ってきた。
 そのところは昔と変わってないと思いつつ、少しでもエレナの心配事がなくなるように、ダニエルは優しくエレナの肩を抱擁していた。

 やっとお互い向き合えてこれからという頃に、エレナは再びダニエルの下を去っていく。
 混雑した空港の中、二人は別れの挨拶をかわしていた。
「たまには帰ってきなさい」
「お父さんも体には気をつけてね」
 お互い抱きしめあった後、エレナはチケットを手にして、セキュリティを通っていく。
 エレナは最後に振り返り手を振り、そしてダニエルから見えなくなっていた。
 急激に寂しいものがこみ上げ、エレナの姿が見えなくなっても、ダニエルはすぐに動くことができず、虚しさが胸に溜まっていくのを感じていた。
 しかし、ダニエルはその気持ちを追い出すように大きく息を吐く。
 そして、父と娘という絆を胸に残し、エレナの幸せだけを願う。
 それが父親としてダニエルができることだった。

 その数時間後、今度はカイルが別の空港でエレナを待っていた。
 エレナに早く会いたいのに、会うのがどことなく恐れる気もしていた。
 しかし、エレナが元気な姿で目の前に現れた時は、自分の本能の方が勝っていた。
 カイルは迷わずにエレナを抱きしめた。
「エレナ、お帰り」
「忙しいのに迎えに来てくれてありがとう」
「元気な君の姿を早く見たかった。体の具合はどうだい?」
「うん、まだ少々の痛みはあるけど、苦にならないくらいになった」
「それじゃあまり強く抱きしめちゃいけないね」
「大丈夫よ、それくらい」
「ほんとかい?」
 カイルはもう一度エレナを抱きしめ、その後は軽く唇を重ねたキスをした。
 エレナは沢山の人が行き交う中で、少し恥かしかったのか、伏目がちになって戸惑っていた。
 エレナはカイルのキスは拒まない。
 しかし、慣れてない事もあるのかもしれないが、どこか目を合わせようとしない部分を感じていた。
 公衆の面前でも気にせずに、堂々とキスしているカップルは多い。
 それはお互いが好きだから、回りが見えないだけになっている。
 どちらも求め合う気持ちがそこにあった。
 だから、エレナにキスをした後、カイルは余計に違和感を感じ、それはどこか心の繋がりがないよう思えて虚しさがこみ上げる。
 それはキスに始まったことじゃなかった。
 その先に進もうとしても、エレナは覚悟した目を見せる。
 それもまた、カイルの事を拒まないけども、自分自身を提供してるだけで、心はそこにあらずに思えた。
 だからカイルはその先へ進めない。
 無理やり進んでもやはり虚しさが邪魔をする。
 ──エレナは僕を心から愛して、そして僕の全てを望んでくれるのだろうか。
 そう思うことが、自分の事ばかり優先し、ライアンやレイのようにエレナを第一に思う気持ちに欠けていると再び感じてしまった。
「エレナ……」
「ん? どうしたの、カイル?」
「えっ、あっ、いや、なんでもないんだ」
 カイルは無意識に自分の思いをエレナに伝えそうになっていた。
 ──本当に僕と結婚して後悔しないかい?
 そんな事を聞いて何になるというのだろうか。
 どうせエレナの答えはわかりきっている。
 何を聞いても、エレナはカイルと結婚すると言い切っている以上、それは変える事はない。
 カイルが取り消すまでは──。
 カイルの葛藤する思いはすでに許容範囲を超えてしまったように思われた。
 それをぐっと押さえ込む自信がカイルにはなくなってきていた。
「とにかく、施設に帰ろう。みんな待ってるよ」
 カイルは口元だけ微笑み、瞳は寂しくエレナを見ていた。
 それを悟られないように、先に歩き出した。

 施設のドアを開ければ、中から「サプライズ!」と沢山の声が重なって聞こえ、エレナはびっくりして体を硬直させていた。
 子供達は、エレナに次々抱きついてきた。
「エレナ、お帰り、心配したよ」
 子供達の無邪気な声で言われると、エレナは面映かった。
「ありがとう、皆」
「エレナ、お帰りなさい」
 シスターパメラが優しく抱きしめた。
「エレナ、大変だったのう。また無事に戻ってきてわしは嬉しいよ」
 ポートは目を潤わせていた。
「よぉ! 体の具合いはもういいのか?」
 そこにはライアンもハワードも来ており、エレナはライアンを見て一瞬何も言えなくなってしまった。
「なんだい、まだ具合い悪いのか?」
「えっ、そ、そんなことないわ。元気になったわ。ラ、ライアンこそ肩の傷はどうなの?」
 エレナは取り繕うとして却ってぎこちなくなっていた。
「俺も、すっかり治ったよ」 
 ライアンがそう言うと、ハワードは後ろでライアンの肩をポンと叩いた。
「あっ、痛っ! 何すんだよ、ハワード」
「なんだまだ完治してないのか」
「いつも、いつも、俺の嫌がることを平気でしてくれるよ」
 そのやり取りに皆笑っていた。
 しかしカイルだけは、どこか寂しげに見ていた。
「ハワード、ライアン、あの時私を救ってくれて本当にありがとうござました」
「何言ってんだよ、そんなの気にすんな。なあ、ハワード」
「ああ」
 ライアンはそこに居るだけで周りを明るくしている。
 そしてこの時、ハワードの眼差しはいつもの厳しさがなく、優しく見えた。
 エレナは感謝の気持ちを表したくて、まずハワードに抱きついた。
 いつもは冷静なハワードだが、エレナの行動に驚き、ハワードらしからず照れていた。
 そして次、ライアンにゆっくり近づき、エレナはこの時とばかりにライアンを抱きしめた。
 ライアンもしっかり抱きしめる。
 お礼のためにエレナがライアンを抱きしめていても、カイルにはなぜかそうは見えないでいた。
 それは一瞬のことであったが、カイルの心にいつまでも消えずに残っていた。

 パーティはまず食事から始まり、テーブルの上の豪勢な料理を前にして、子供達は大いに喜んだ。
 そのうち、カイルとライアンはエレナの救出劇の話をしだし、子供達は夢中になって聞いていた。
 しかし二人の話はどこか大げさになってしまって嘘も入っている。
「そこで三つ目のエイリアンが現れて、俺達は絶対絶命になった」
 ライアンがそういうとカイルも負けじと話を作った。
「そこで僕がエイリアンの乗ってきた、宇宙船を乗っ取って操縦したんだ」
 子供達は興奮しきっていた。
 エレナは聞いていて呆れてしまうが、子供にとってはそれは最高の話となり、大いに賑わっている。
 自分がどうやって助けられたのか、ある程度の事はダニエルから聞いてはいたが、レイが撃たれ、命を落とした以上、正直に話せるはずがない。
 真実を話すよりはこっちの作り話の方が楽しいことには変わりなかった。
 子供達が二人の話で盛り上がっているときに、シスターパメラがエレナに耳打ちした。
「エレナ、いいニュースよ。立ち退きの話がなくなったの」
「それは本当ですか」
「ええ、市長は、無理なことを言ったって謝ってきたわ。そしてこれからもこの施設の運営を助けて下さるとまで保障してくれたのよ」
 エレナは感極まって涙ぐみ、そしてシスターパメラに抱きついた。
 上手く事が運んだその裏で、ライアンとカイルのお蔭であるとは誰も知る由がなかった。
 また二人も、その事は誰にも言うことはなかった。
 一つ一つ問題が片付いていくことに、エレナは満足していた。
 これで何も問題がなくなったと思った時、エレナの下にジェニーがやってきた。
「ねえエレナ、カイルとライアンとどっちが好きなの?」
「えっ、どっちって、それは…… でもどうしてそんな事訊くの?」
 子供の何気ない質問とわかっていても、エレナは動揺してしまう。
「だって、二人ともなんだかエレナの事が好きみたいだから、エレナはどっちを選ぶんだろうって思ったの」
 おませなジェニーの事だけあって、鋭い質問をしてくる。
 エレナははぐらかすしかなかった。
「それなら、ジェニーだったらどっちを選ぶの?」
「えっ? 私? うーんとね、私だったらどっちも選ぶかな。だってどっちもかっこいいんだもん」
 これもまた子供らしい答え方にエレナは微笑んだ。
 だが、自分の本当の気持ちはといえば、エレナはこの質問から目を逸らしたくなるほどに、答えたくない。
 ジェニーにこれ以上変な質問をされても困るので、無理に遊んでこいと背中を押して追い払ってしまった。
 そんな時にシスターパメラが尋ねた。
「ねぇ、エレナ、カイルと婚約したっていう話は本当なの?」
「えっ、どうしてそれを知ってるんですか」
「あら、やっぱり本当だったの。あなたがさらわれた日、実名入りでとんでもない記事が地元の噂を集めた新聞に載ったの。あなたはその記事のせいで、居場所が知られてしまったから、あんなことになってしまったわ」
「一体、何が書かれてたんですか?」
「それが、あなたとカイルが婚約したのはお金のためだって書かれてたわ。この施設が立ち退きを命じられたせいで、お金目的で金持ちに近づいたって酷いこと書いてたの」
「それで、その後どうなったのですか?」
「カイルが弁護士を通じて、名誉毀損で訴えているはずよ。この件については何も心配いらないわ。だけど、婚約の話は本当だったのね。どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
「ごめんなさい。カイルの仕事が落ち着いてからということで、全てはカイルに任してたから…… その、あの」
「だったら、カイルを問い詰めないと」
 シスターパメラは、突然カイルを呼び出した。
 カイルは子供達と遊んでいたところを切り上げて、やってきた。
「どうしたんですか?」
「ちょっとカイル、エレナと婚約したんでしょ。なんで隠しているの。ここで今発表しなさい。皆も喜ぶわ」
「えっ、あっ、それはまだ準備が整ってなくて……」
「何を言ってるの。こんなおめでたい話は準備なんて後でもいいのよ。あなた達が言わないのなら私が言うわよ」
「シスターパメラ、待って下さい!」
 カイルは突然真剣な面持ちでシスターパメラを止めた。
 カイル自身なぜそんな行動に出てしまったのか、はっとしてしまった。
「その前に僕はエレナと話があるんです。どうかこの事は僕がいいと言うまで話さないで頂けますか」
 本気で嫌がっているカイルの態度にシスターパメラは戸惑っていた。
「ご、ごめんなさい。出すぎた真似だったわ」
「いえ、いいんです。僕もなんだか、どうすればいいか目が覚めました。エレナ、ちょっといいかい」
 エレナを連れて外へ出て行くカイルの姿にシスターパメラは何かを感じ取っていた。

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