第十章
6
「カイルどうしたの? 何かあったの?」
裏庭に二人はやってきて、向かい合った。
夜が始まる辺りが暮れかけた時。
それと同じようにカイルの顔も陰りが出ていて、それが辛そうに見えた。
静かな闇と冷たい空気が、どこか体を緊張させてしまう。
エレナは不安げにカイルを見つめた。
カイルは話したいことがあるのに、言葉が出て来ずに口元を震わしていた。
そしてふーっと息を吐いて、その勢いでやっと話し始めた。
「エレナ、僕はあの時、卑怯な手をつかったよ。仕事の失敗を持ち出して、君が側にずっと居て応援してくれるように仕向けてしまった。結婚の話を持ち出して
もエレナが断わらない事を、僕はわかっていたと思う。僕は自分の事しか考えてなかったんだ。君が側に居ればそれでいいなんて、君の幸せの事は何も考えてな
かった」
エレナは黙って聞いていた。
「エレナ、君は本当はライアンが好きなんだろう」
エレナは言葉を失い、喉の奥から喘いだ声が漏れた。
「いいんだよ、もう無理をしなくても。事件も解決し、君はやっと自由になれたんだ。そんな君を僕が束縛してしまったら、また逆戻りだ。君はもっと自分の思うように生きなくっちゃ」
カイルの言葉の意味をエレナは考えていた。
「でも、カイル、私はカイルが大事だし、仕事の事だって応援したいし……」
「エレナ、僕は君の助けはもう要らないって言ってるんだ。仕事はまた元通りになって、軌道に乗った。君が側に居なくても、僕はやっていけるよ。もちろん、
君を好きな気持ちは変わってないよ。だけど、僕はもうエレナに無理をして欲しくない。僕もまた君の幸せを第一に考えたいんだ」
言葉を搾り出すように、カイルの声は震えていた。
そして一番言いにくい事をはっきりと口にした。
「エレナ、婚約は解消だ」
「えっ? カイル……」
「ごめん、勝手なことばかり言って。でもこれが僕が一番いいと思って出した結論なんだ。エレナの事を一番に考えた僕の気持ちさ」
エレナは言葉が出てこない代わりに、カイルを抱きしめた。
いつだってカイルは側に居てくれて、ずっと力になってくれた大切な人。
その気持ちが溢れてくる。
「エレナが幸せになれば僕も幸せになれる。それを忘れずに必ず幸せになるんだぞ」
「カイル、ありがとう。本当にありがとう」
声を殺して泣いているのか、カイルはエレナを抱きしめ震えていた。
そして潔くエレナから体を離して、先に家の中に入って行った。
その後、カイルは一度もエレナに振り向かず、そしてパーティが終わった後はそのまま黙って帰って行った。
カイルが無理をしてまで、エレナを自由にした気持ちが伝わってくる。
エレナも心苦しくてたまらなかった。
施設が再び静かになって、子供達が寝静まった後、エレナはシスターパメラと向かい合った。
ここに来てからのことを振り返り、取りとめもなく自分の思いを話していた。
そしてカイルとの事も含め、全てを話した後、エレナはその場で決断した。
「私、ここに居る理由がなくなりました」
「エレナ、何もそんなに急いで決めなくても」
「いえ、こういう事はすぐに行動しないと、いつまでも迷ってたらきっとずるずるしてしまうわ。ここにいるとまた皆を頼ってしまう。私一人でやっていきたいんです」
「でも、エレナはどこへ行くつもりなの?」
「行ってみたいところ、これからリストアップしてみます」
「そう…… それも楽しいかもね」
巣立っていこうとしているエレナをシスターパメラは止めることなどできなかった。
寧ろ温かく見送ろうとしている。
「シスターパメラ、今までありがとうございました」
「それは私の言葉よ。エレナ、私はいつでもあなたの母親ですからね。それだけは忘れないで」
「はい」
その言葉の裏には、いつでも戻ってきていいという気持ちが込められていた。
帰る場所があるというのは心強いものだった。
そして次の日からエレナは出て行く準備に取り掛かった。
すでに場所を決め、チケットの手配を終えると、その日が来るまでエレナはやるべき事をする。
ポートのところでは、料理を振る舞い、掃除をしたりと、自分のできることで感謝の気持ちを表した。
「どういう風の吹き回しじゃ」とポートは驚いていたが、施設を出る事は言えなかった。
エレナは誰にも言わずにひっそりと出て行きたかった。
だから、その日が来た時、子供達にも言わず仕舞いだった。
いつものように学校へ子供達を送り出し、いつもと変わらない日のままだった。
シスターパメラだけが、エレナの旅立ちを見送り、エレナは静かに施設を去っていった。
施設は常に誰かがやってきて、そして巣立っていく。
エレナもその中の一人だった。
エレナと別れてからのカイルは、全てを忘れようとさらに仕事に励んでいた。
しかし、心の中の空洞は簡単には埋まってくれない。
好きなのに別れを告げなければならないこの思いは、カイルには耐えられず、エレナがその後、ライアンとどう接触したのかも気になり、どうしようもなくイライラする日が多くなった。
そしてライアンに会いに、ふらりとハワードの事務所に寄った。
ライアンは相変わらず、ソファーに寝転がり怠けている様子で、自分が苦しんでいるのにこの状態は腹が立ってくる。
「おい、ライアン、仕事ちゃんとしてるのか!」
「なんでカイルに指図されないといけないんだよ。お前、なんか機嫌悪いぞ。何を怒ってるんだ?」
ライアンの様子を見る限り、いつもと変わらない姿にカイルは疑問を持ち出した。
「お前、何も知らないのか?」
「何をだよ?」
二人のやり取りを、ハワードは何気に見ていた。
口を出すつもりはないが、カイルが事務所に入って来た時の落ち込んだ表情、そしてライアンに八つ当たってることも含め、大雑把に見てもエレナと何かあったように感じていた。
カイルはライアンに視線を向けたまま、遠い目をして暫く黙り込んだ。
「カイル、なんか変だぞ。言いたいことがあるならさっさと言えよ。まさか、エレナと喧嘩したとか言うんじゃないだろうな」
ライアンは茶化したつもりだった。
何も知らないライアンではあっても、ライアンの口からエレナの名前が出ると、感情が高ぶって穏やかではなくなった。
つい声を荒げてしまった。
「エレナとは別れたよ!」
「えっ?」
ライアンも驚いたが、ハワードまで動きが止まるほど、気を取られていた。
「カイル、お前何を言ってるんだ? 別れたって、冗談でも言う言葉じゃないぞ」
「誰が、こんなこと冗談で言うか。エレナとの婚約は解消したんだよ。僕が彼女を振ったのさ!」
カイルらしからぬ、不遜な態度だった。
「おいっ、振ったってどういうことだ。一体何があったんだ?」
「何を殊勝ぶってんだよ。本当は嬉しいくせにさ!」
「いい加減にしろよ、カイル!」
ライアンは突然立ち上がり、カイルを殴った。
ライアンの気持ちが高まり、息が激しくなっていた。
カイルはその様子をうつろな目で見て、殴られた頬を軽く手の甲で拭った。
「これでおあいこだな」
鼻で笑いながらも、カイルの瞳は潤んでいた。
そのやり取りをハワードは見てたが、何も言わずに再び自分の仕事にとりかかった。
ハワードにはカイルの気持ちが読めていた。
「何がおあいこだ。俺を馬鹿にするな」
「馬鹿になんかしてないよ。ライアンだってエレナの事が好きじゃないか。僕がエレナと別れて一番喜ぶのはライアンだろ」
「お前、まだ殴られたいのか」
「だって仕方がないだろう。本当の事なんだから。それぐらい言ったっていいじゃないか。僕だって辛いんだ。それぐらいの嫌味言わせてくれ」
カイルは歯を食いしばり顔を歪ませていた。
それを見ているとライアンの怒りが疾うに失せていた。
「カイル、一体エレナと何があったのか説明してくれ」
「説明も何もいらないんだ。エレナはライアンの事が好きなんだよ。お前にエレナを幸せにして欲しいだけさ」
「何が幸せにしろだ。自分が振ったから俺にやるだと? エレナは物じゃないんだぞ。そんな簡単に済ませられる問題かよ」
「ああ、二人が両思いなんだから、それでいいんだよ。エレナと婚約したのも僕がエレナに断れない状況を作ってそう仕向けたんだ。卑怯な手を使ったんだ。でも、レイが死んで、コナー博士と出会って、僕は目が覚めたんだ。僕は間違ってたよ」
辛い思いに身を震わせながらも、泣くまいとカイルは必死に耐えていた。
そんな無様な姿をライアンの前でさらけ出していた。
「カイル、もういいよ。だけどこればかりはエレナの気持ち次第さ」
「ライアン、もう遠慮するな。今、ライアンが動かなければ、エレナは何も言わないと思う。頼む、エレナと会ってくれ」
「でもさ、そんなこと急に言われて、はいそうですかって、それもないだろう。お前、俺の気持ちも考えろよ」
「充分考えてるよ。とにかく、今からエレナに会いに行こう。僕もその方がすっきりする」
「おい、カイル、やめろよ。お前血迷ってるぞ。落ち着け」
カイルはライアンを無理やり引っ張っていった。
二人が事務所を出た後は、再び静寂さに包まれた。
ハワードはふーっと息を洩らし呟く。
「若いっていいことだ」
そして、自分の仕事に再び精を出した。
エレナが去った事も知らず、カイルはライアンを連れて施設に向かった。
ライアンは、カイルに圧倒されるままついて来ているが、正直どうしていいのかわからなかった。
だが、施設について、エレナがすでに出て行ってしまったことをシスターパメラから聞いた時は、二人とも気が動転するくらい驚いてしまった。
カイルは納得ができないのか、シスターパメラに詰め寄って質問攻めにしていた。
シスターパメラもカイルに詳しく話せるほど詳細を知らないために、困惑していた。
それを見かねたライアンは、カイルを押さえ込んだ。
そしてカイルを引っ張って外に出た。
「カイル、落ち着くんだ。シスターパメラも、エレナが出て行って悲しいんだぞ。お前がそんなに突っかかったら困るだけだろうが」
「だけど、なんで黙って出て行くんだよ。誰にも行き先も告げずに」
「それはそれでエレナらしいじゃないか。エレナが自由になったってことだよ。誰にも邪魔されずにしたいことだっていっぱいあるだろうし」
「お前、薄情な奴だな。なんでそんなに落ち着いてられんだよ。悲しくないのか」
「そりゃ、俺だって悲しいさ。でも、エレナが選んだ事だろ。仕方がないじゃないか。俺達がどうのこうのなんて言えない。エレナの自由にさせてやればいいんだよ。自由に羽ばたきたいって言ってたことあったじゃないか」
カイルは、我に返りはっとした。
その言葉には常に反応してしまう。
そして大きく息を吐き、やっと気持ちを落ち着かせた。
「エレナは自由になったんだった。僕もそれを望んでたのに、またコロって忘れてたよ」
「仕方ねぇよ、カイルはエレナに対しては過保護だからな」
「だけど、お前、本当にそれでいいのか。エレナの事好きじゃなかったのか」
全てを受け入れ、他人事のように済ますライアンの態度にも解せない。
「俺は、カイルと違って一度は諦めた節があるからな。少しは冷静になれるんだと思う。でも、エレナの事は今でも大好きさ。きっとこれからも大好きだと思う。俺は運命を信じてみる。いつか必ずブルーローズが導いてくれるさ」
「ブルーローズ?」
「俺の心の中に咲いてるんだ。きっとエレナの心にも咲いてるはずさ」
「はっ? 何訳のわからない事言って、酔ってるんだよ」
「例えに決まってるだろ。それもわからないのか」
ライアンにとってブルーローズが何を意味しているかくらい、カイルにはしっかりとわかっていた。
あっさりと気障にいうライアンに少しだけ妬けてしまった。
ライアンはいつも自由で自分に正直だった。
カイルはライアンの負傷した肩に、態と力強くポンと手を置いた。
「残念でした。もう痛みはないんだよ」
「もう治ったのか。よかったな」
「まあな。傷はいつか癒えるもんさ…… 時間はかかってもな」
「そうだな」
時には時間も必要だという意味に捉えられ、ライアンの言葉はカイルには慰みのように聞こえた。
「さてと、俺はこれからカイルに負けないくらいのいい男になるぞ!」
「だから、すでになってるだろうが」
「いやいや、見掛けで勝っても、中身で負けてる」
「おまえ、それも露骨だな」
この先、時間が経てばまた何かが変わろうとしている。
ライアン自身が、その時間を欲しがっているようだった。
またエレナに会うために、ライアンはエレナに相応しい男になりたいと準備にとりかかった。
エレナが出て行ってしまった後、二人はその意味を深く捉え、また自分達の元居た生活へ戻っていく。
それは二人に影響を与え、少しずつの変化を伴いながら、そして月日が経っていった──。