第二章
1
全ては自分が悪かった──。
こんな事になったのもバスを降りる場所を間違えてしまった自分の責任だった。
乗り過ごしてしまったために、気が焦り、無茶をして、そしてぶつかって、更なる不運に変な男達に隙を突かれて、トラウマが発症してしまった。
そこに助けに来てくれた顔に傷があった男性。
それすらも、最悪の状態で受け答えしてしまい、怒らせてしまった。
これ以上の間の悪い、負の連鎖があっていいのだろうか。
街の中心のバス停では沢山の人がバスを待ち、その中に紛れることができず、そこに人々がいるだけで怖くなってしまった。
そのため、エレナは街の外れにあるバス停から乗車するつもりで、ストリートの歩道を歩いていた。
この上ない自分の不運を呪い、益々ついてないと思ってしまう。
このままでは更なる困難がやってくるんじゃないかとビクビクしていると、後ろからリズムを帯びたクラクションの音が聞こえてきた。
また、変な人が自分に向かって鳴らしているのではと思うと、後ろを振り向かずに完全無視を決め込んだ。
早足になり、一心不乱にひたすら歩く。
「おーい、そこのお嬢さん。何をそんなに慌てて歩いてるんだい。車に乗っていかないか?」
案の定やっぱり自分に向けられて鳴らされていたと知るや否や、エレナは突然走った。
「ちょっと、エレナ。逃げることないじゃないか。僕の声もわからなくなっちゃったの?」
「えっ?」
自分の名前を呼ばれたことで、後ろを振り返ると、そこに見慣れた顔があった。
「カイル!」
一気に緊張が解け、エレナの強張っていた顔が弛緩する。
カイルはエレナにとって、かけがえのない友人であり、またボランティアで施設の子供達の世話をしてくれる人でもあった。
「こんなところで何してるんだい。家まで送ってあげるよ。さあ乗りな」
カイルは、自分の車を道路の端に寄せて停車した。
シルバーカラーのSUV車は、その時、神からの救いの手というくらい光って見えた。
エレナは躊躇うことなく走りより、そして滑り込むように助手席に乗り込んだ。
「カイル…… ここで会えて嬉しい」
「僕もだよ。だけど珍しいね、エレナがこんな所にいるなんて。なんか用事でもあったのかい?」
「うん、そうなの。ポートさんの家へ行こうとしてたんだけど、でもぼんやりしていてバスを降りるところを間違ってしまったの。カイル、悪いんだけどポートさんの所へ連れてってくれる?」
頼むのが厚かましいとでもいうように、エレナはちょっと甘えた声になっていた。
「へぇー、君もポートさんのところへ行くのかい。実は僕もなんだよ。これは奇遇だね」
ポートは、昔カイルの家の庭師をやっていたこともあり、カイルもまたポートを良く知る一人である。
カイルは裕福な家の一人息子で、 彼の父親は大きな会社を持ち、カイルもまた父親の事業の手伝いをしながら、将来は後継者として、父親の会社で働いている。
しかし金持ちらしくない庶民的な性格で、ポートと同じように暇があれば、ボランティアで施設の子ども達の面倒を良くみている。
またシスターパメラを慕い、何かと施設の力になろうと していた。
顔は目立つ程ハンサムでもなく、そばかすが少しあるが、すらりとした長身、そして優しい落ち着いた性格で気品が溢れ出ていた。
常にまじめで堅実なところが一緒にいてて安心するし、エレナよりも数年年上でもあるので、とても頼れた。
助手席に座るエレナの横顔をチラチラ見ながら、カイルはエレナを意識する。
カイルにとってエレナは特別な存在だった。
この時、エレナは思いつめた表情で前を見据えていた。
いつになく無口で、落ち込んでいる様子に、カイルは気になっていた。
「エレナ、何かあったんじゃないのか。なんだか元気ないけど、大丈夫かい?」
何かあった──。
この言葉がエレナには重すぎる。
ありすぎて、何かあったと可愛く言える程のものではなくなっている。
すでに雪崩のようにどばっと落ちてきている状態だから、この時の何かあったはどう説明していいのかわからない。
誤魔化せるものなら、誤魔化してやり過ごしたい。
エレナは無理に笑おうと試みるが、カイルに通用する訳がなかった。
「エレナ、正直に言ってごらん。そんな作り笑いなんかされると、余計に心配してしまうよ」
自分の付け狙われてる問題は絶対に言えない。
施設の立ち退きの話はシスターパメラから誰にも言うなと釘をさされている。
言える事は、男達に絡まれた話だけだった。
だが、これも正直なところエレナは言いたくなかった。
しかし、ここまでカイルに心配されてしまうと、何か一つ自分の落ち込んでいる理由を言わないといけない気がしてしまう。
エレナは大きく息を吐いた。
「実は……」
男二人とぶつかってからの一部始終を話した。
「なんて酷い連中だ。人の弱みに付け込んで無理やりなことをしでかすなんて。だけど無事でよかったよ」
「そうなんだけど、でも、助けようとしてくれた人の事が……」
「その、顔に引っ掻き傷が無数にあった男だけど、それもなんか上手くできすぎてるというのか、古典的な展開過ぎるね。もしかしたら、その二人の男とぐる
だったんじゃないの。よくあるパターンじゃないか女の子にいちゃもんをつけて第三者が現れて救う。そして女の子は恋に落ちるとかいう作戦」
「えっ、まさか」
エレナはそんな事考えもしなかった。
あの去っていった時の黒い革ジャンの背中が、どうしても心に引っかかり、それを思い出すと必要以上に落ち込んでしまう。
あの時の彼の背中が何かと重なってやるせなく、自分がしでかしたことの後悔に深く繋がってしまう。
──あの人は本当に私を助けようとしてくれていた。
エレナは上手く説明ができないが、悪い人ではないと言い切れた。
今度会ったらきっちりと謝りたいが、二度と会う事はないだろうと思うと、余計に苦しくなっていった。
エレナは知らずと首をうな垂れて、益々暗くなっていた。
カイルは気にさせないように慰めているつもりだったが、エレナの憂鬱が絵に描いたように見える。
これはまずい──。
カイルは慌ててこの状況を取り繕うために、余計な事を言い出した。
「例えぐるじゃなかったとしても、助けた男はきっとかわいい女の子をみると、チャンスだと思って喜んで助けたんだよ。きっといつも同じことしてるって。自分がモテると思い込んでる奴さ。下心があったんだってば。気にすることはないよ。その男もきっと良い薬になったよ」
自分があの時、降りるバス停を間違えなかったら、こんな事にならなかったと悔やんでいるだけに、ライアンに下心があったとしても、自分の行動の方が失礼極まりなかった。
どうしてもいたたまれなくなり、エレナは大きな溜息を吐いて意気消沈してしまった。
それは益々カイルを焦らせた。
気の利いたことが言えない、自分の口下手を恨んでしまう。
しかし、カイルの言っている事は本当は間違ってなかった。
「エレナ、一期一会でいいじゃないか。くよくよしたって仕方ないよ。よーし、今度僕が気晴らしに楽しいところに連れて行ってやる。今日のことをすっかり忘れるくらいにね。だからそんなに落ち込まないでおくれ」
「カイル、本当にありがとう。あなたはいつも優しい。感謝してるわ。でも、私、大丈夫だから、心配かけてごめんね」
「ううん、謝ることなんてないよ。僕はエレナの力になれることなら何だってする。だって、僕はエレナが好……」
とカイルがここまで言いかけたとき、エレナはここで突然くしゃみをしてしまい、カイルの言葉が遮られた。
もう少しで『好き』 と自然に告白できたのに、タイミングが悪かった。
「ごめんなさい、あっ、あっ、はっくしゅん」
もう一度出てしまった。
すっかり、言い直す機会も奪われ、何かに邪魔されているようにしか思えなかった。
「Bless you、エレナ」
カイルがくしゃみをした後のお決まりの言葉を添え、優しく笑みを浮かべると、エレナはようやく自然に微笑んだ。
その顔を見て、カイルは安心する。
そしてその陰で、カイルの恋心をどんどん熱くした。
──僕が一番エレナの近くにいる。誰にも彼女は渡さない。
その思いを抱いた時のカイルの瞳には強い念が映し出されていた。
しかし、エレナはそんなカイルの思いに気づいていなかった。
それよりも、他に気掛かりな事があるように、ぼんやりと前を見つめて、静かにしていた。
もっと楽しい話でもできたら気が紛れさせられるのに、カイルは気持ちが前に出すぎるだけで、言葉がついてこなかった。
「ラジオでもつけようか」
何か話すきっかけが欲しい。
スイッチを入れれば、一時期流行った曲のさびのフレーズが流れてくる。
『もっと君の事が知りたい。何を考えてるの』
まさに自分の言いたい事を言い当ててくれていた。
思わずメロディに乗せて自分も口ずさんでエレナを見つめてみたが、エレナにはただの歌の歌詞でしかなかった。
些細な事でも、関連して気がついて欲しかったが、はっきりと自分の気持ちをぶつけなければエレナには通じない。
カイルにも告白する勇気が必要だった。
そうするには、それなりの準備を整えなければならない。
カイルは決心した。
エレナをその気にさせるデートをお膳立てして、そしてロマンティックに告白をする。
必ず成功させてやる意気込みを抱くと、カイルはハンドルを握る手に力が知らずと入っていた。
エレナがカイルと車に乗っていた時、ライアンはついてないと舌打ちをしながら、事務所に帰ってきていた。
ドアノブに手を掛けた瞬間、自分の顔の傷の事でハワードに何を言われるのか気が重く、一瞬開けるのを躊躇ったが、できるだけ平常心を装い、部屋に入っていった。
「今戻ったぜ」
ハワードは忙しくデスクワークをして、戻ってきたライアンに見向きしなかったが、労いの言葉だけは掛けた。
「ああ、ご苦労だったね。事件は解決したかい」
「解決も何も、つまんないことだったよ。でも依頼金はしっかりと貰ってきたさ。ほら」
ハワードの目の前にお金を投げた。
ハワードは顔を上げライアンをみる。
さあ何かいわれるぞと、覚悟を決めていたのに、ハワードは何も言わなかった。
それが却って自分が納得行かないようになり、自ら墓穴を掘ってしまった。
「オレの顔を見て何も思わないのかい」
「君は私が何も言わないので驚いているようだが、私にはなぜそうなったのか推測できるよ。大方、今回の事件はミセスデンバーの猫が他の動物に遭遇して引き起こした事だろう。ミセスデンバーの電話を取ったとき、大まかな説明ですぐにわかったよ」
「えっ、だったらなんで最初から説明してくれないんだよ。オレはこんな痛い思いをして、しかも嫌な目にもあったんだぞ。ひどいじゃねぇーか」
「ライアン、まだ君は仕事を始めて間もない。何事も経験だよ」
──ハワードはサドだ!
いつものことだが、ライアンはこれ程ハワードに苛立ったことがない。
結果がわかっているのに、知らされずに行かされて、挙句の果てに自慢の顔を傷つけられた。
この傷がなければ、また違う結果があったかもしれないと思うと無性に腹が立ってきた。
つい、手がでてハワードに殴りかかろうとした。
だが、その手をあっさりと摑まれ、厳しい目つきを突きつけられた。
「お前は、まだガキだな。こんなことで私を殴ろうとするなんて。甘いぞ。今日は顔の傷の手当てでもして早く寝ろ」
ハワードの前では何をやっても敵わないのはわかっていたが、自分の中に突然芽生えた劣等感が、自信過剰な自分を惨めにさせて、その気持ちを吐き出さずにはいられなかった。
ハワードに捉まれた手を腹立ち紛れに振り払い、踵を返す。
そして事務所の壁にかけてある鏡が目に入った。
そこに自然に足が向き、鏡を覗き込んだその時、自分でもギョッとしてしまった。
「くそっ、派手に引っかかれてるじゃないか。これじゃ折角のハンサムも台無しだ。本当に女に引っ掻かれたようにも見えるぜ。あの子が誤解してもおかしくない訳だ」
ライアンは傷口にそっと触れ、エレナの事を思い出す。
「ちぇっ、あの女、今頃どこで何してるんだろう」
エレナがくしゃみをしたのはこのときだった。
自分がいやな目にあったというのに、不思議とエレナを憎めなかった。
何度も傷口に触れ、その度に痛さで体がピクッと反応する。
痛いはずなのに、ライアンは傷口に触れることを暫くやめなかった。