第二章


 カイルを見送った後、エレナは暮れかかってる空を見つめ、夜に包み込まれていくのを物悲しく見ていた。
 闇はいつも心に入り込んで、不安を増長させる。
 そしてこの日も最悪な日だったと、溜息をつかずにはいられなかった。
 感情の起伏が激しいのも、情緒不安定に生活してきたことが大きいのかもしれない。
 普段はおっとりとしてるくせに、心配事や懸念が降りかかった時は、押さえつけられないほどに感情に支配され易い。
 幼い時に出くわしてしまった事件はトラウマとなり、心に深い傷を残したままでいる。
 父親の安否もわからず、危険と背中合わせの自分自身。
 穏やかに暮らせと言われる方が間違いだった。
 そして、この日の終わりにもう一つだけ不安にさせる要因がやってくる。

 エレナがキッチンで子供達と一緒にリンゴを見ていた時、シスターパメラが郵便物を手渡してくれた。
「これはエレナ宛の手紙だったわ。他の郵便物と混じっていて気がつかなくて、すぐに渡せなくてごめんなさい」
 市長からの手紙のせいで心乱され、シスターパメラも他の事に気が回らないでいたらしい。
 その原因がわかるだけに、エレナは手紙を受け取るときにシスターパメラを気遣った。
 子供達が沢山のリンゴを箱から一つずつ出して、楽しく数えている。
 その声を聞きながら、立ち退きの問題を心に秘め、お互い顔を見合わせて暗黙の了解を確認しあっていた。
 そんな深刻な問題を抱えた二人の様子も知る由もなく、無邪気に誰かが質問した。
「シスターパメラ、この沢山のリンゴをどうするんですか? 僕達一度にこんなに食べられないよ」
「そうね、どうしたらいいかしらね」
 シスターパメラは子供の質問に優しく応答する。
「皆で売ったらいいじゃないの」
「そんなの誰も買ってくれないよ。それよりアップルパイを作ろうよ」
「僕、ベイクドアップルがいい。アイスクリーム乗せて食べるの」
「私、キャラメルアップルがいい!」
 子供達が好き好きに意見を言い合っている。
 その光景は微笑ましかった。
 エレナは子供達に気を取られて、受け取った手紙は後で見ようと、エプロンのポケットに入れ暫く放っておいた。
 自分に届く手紙は大体がダイレクトメールや何かのお知らせくらいのものでしかない。
 手紙をやり取りするような友達などいなかった。
 結局夜寝る頃になるまで、その手紙の事は忘れてしまっていた。
 改めて、その封筒を手にして、差出人を見ようと裏を向けたが、何も記されてない。
 白いよくある市販のやや横長の安っぽい封筒。
 印刷された宛名書き。
 ジャンクメールだと思って、開封すれば、便箋が一枚折られて入っていた。
 それを開いて中を見たとたん、エレナは眉根を顰めた。
 『何も心配することはない』
 ただそれしか書かれてなかった。
 一体誰が、これを何の目的で送ってきたのだろうか。
 まるで、自分に起こった事を全て知っているかのような言葉だった。
 エレナはその短い文章を何度も何度も読んでいた。
 自分をつけていた誰かがいたせいで、これがいたずらではないとはっきり思えた。
 その時、エレナははっとする。
 この瞬間も誰かがこの近くにいて、自分を見ているかもしれない。
 窓際に立ち、外を眺めるも、暗闇の中では何も見ることができなかった。
 ただ闇が不気味にそこにあるだけだった。
 再び、手紙を見つめ、何を一体心配しなくてもいいのか考える。
 自分を捜している者達
 立ち退きの話。
 男達に絡まれたこと。
 そして顔に傷がある男に酷いことをしてしまったこと。
 心配事が多すぎる。
 仕舞いには、そんな自分に『何も心配することはない』なんて、容易く言われても、馬鹿にされているみたいで急に腹が立ってきた。
 怒りと共に手紙をくしゃくしゃと握りつぶし、丸めてゴミ箱に投げた。
 上手く入らないで部屋の隅にそれは転がってしまう。
 拾い直して捨てるのもしゃくで、そのままにしておいた。
 イライラとした感情にまた支配されたら、今夜も寝られなくなりそうだった。
 気晴らしに、癒しを求めてオルゴールの蓋を開け、落ち着こうと試みる。
 相変わらずメロディはゆっくりと流れ、それを聴くたびに、過去の記憶とこのオルゴールの音色が交差して、切なくため息がでてくる。
「だけどこの曲は誰が作ったんだろう。『私を探して』というくらいだから、その存在を見つけて欲しいのだろうか。まるでこのオルゴールに何かのメッセージがあると言いたげに」
 父と離れ離れになってもうすぐ10年が経つ。
 何かが確実に動いている気配だけはエレナには感じ取れた。
「私はこれからどうなるの」
 いっそ誰かに何もかも話してすっきりしたい。
 しかし、自分が全てを話してしまったとき、その情報が何のきっかけでもれるかもしれないし、聞いた人も危険に巻き込まれてしまうかもしれない不安があった。
 だから誰にも言えない。
 夜の深い闇と共に、益々気分はどんどん落ち込んでいった。

 この日が最悪だったのはライアンも同じだった。
 傷はヒリヒリとまだ痛んでいる。
 忘れられないショッキングな事は、引っ掻いたアライグマでも、結果のわかってる依頼を与えたハワードでもなく、自分を馬鹿にしたエレナのことだけだった。
「頭に石を落とされたような、あんな衝撃は初めてだ…… でもあの顔、確かにどこかで見たような気になった。一体あの女は何者なんだろう」
 ライアンは記憶力がよく、頭の回転も速い。
 ハワードがパートナーに選んだのもその能力があったからかもしれない。
 ただ女癖が悪く、どこか悪びれているのが欠点だが、根はとても素直な優しい男には変わりなかった。
 自分の借りてるアパートの部屋で、一人悶々として歩き回り、うずく傷口に時折触れて、その度に自ら痛みを大きくさせて、体をびくっとさせていた。
 痛いのに触らないと気がすまない傷口。
 打ちのめされて酷い女だと思っているのに、気になって仕方がないエレナの存在。
 この二つの関係はとても良く似ていた。
 心にもやもやを抱え込んでいたその時、ライアンの携帯が邪魔をするように鳴り響いた。
 画面を確かめれば、それはいつかバーで会った女からだった。
 全然嬉しくもなく、逆に鬱陶しい。
 その女への興味はすでになくなっていた。
 チェッと舌打ちしてから通信ボタンを押した。
「あ、君か」
 ぶっきら棒な態度は本音が出てしまい、嘘も方便のいつもの気が利いた話し方ができない。
 電話を掛けてきた女は、今から会えないかと言ってきたが、ライアンはそんな気持ちになれるはずがなかった。
 いつもなら『今すぐにでも会いに行きたいんだが、仕事中で忙しいんだ。また電話するよ』と嘘をついてでも丁重に断るだろうが、今日は違った。
「疲れてるから今会いたくないんだ。他の男をあたってくれ」
 電話の女性はその言葉にすぐさま切れた。
「あんたがいつでも電話してくれって言ったじゃない。そしたらすぐにでも飛んでいくよなんて言っておきながら会いたくないですって。わかったわ。もう二度と電話かけないから」
 またフラれたかと今日の最悪の日の終りにふさわし過ぎると、変に感心してしまうほどだった。
 しかし、こんな女のことなんかどうでもよかった。
 今のライアンにはどうしてもエレナのことが気になって仕方がない。
「あの女、また会うことがあるだろうか」
 あんなに酷いことされておいて、どこかまた会いたいと願っている自分が信じられない。
 そしてまた傷口に触れては痛さを味わっていた。
「俺どうかしちまったのだろうか。もしかしてハワードに調教されて知らないうちにマゾになったのか。うへぇ、こんなこと考えちまうなんてやっぱり最悪の日だ」
 ライアンはベッドにどしっと横たわり、虚空を仰いだ。
 暫くエレナの事を考えていたが、そのうち知らずと寝てしまった。
 その晩のライアンの見た夢は奇妙だった。
 自分は体中縛られ、仮面をつけたハワードが鞭をもって自分を痛めつけている。
 それを側で見て喜んでるエレナもいた。
 ライアンは夢の中でも最悪だと叫んでいた。
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