第三章
1
季節の変わり目の慌しい気温の変化のように、立て続けに飛び込んでくる気掛かり。
いつ安定してくれるのだろうか。
この日の天気は晴れ時々曇り。
青空にもくもくとした雲の塊が壮大にいくつも流れている。
青い空に白いシュークリームみたいな雲のコントラストは綺麗だが、時折、怪しげなどす黒い雲も混じって不安定さが漂っている。
それは雨を突然降らすように見えた。
それを見ていると、いつ何が起こるかわからない自分の置かれている境遇と重なってしまう。
今日は雨が降りませんように。
そう願いながら、エレナは窓から空を見つめていた。
周りでは子供達が走り回って、羽目をはずした賑やかな声がしていた。
学校は春休みが始まったばかりで、四六時中騒がしい。
「エレナ、最近ボーっとしてるけど、どうしたの? もしかして恋わずらい?」
女の子の中でも一番おませで口達者のジェニーが、いつの間にか側に寄ってきていた。
小さな女の子ながら、一人前に口を聞くから時々困りものだった。
「そんな事、大人の女性に聞いちゃだめ」
エレナは優しく微笑んで、ジェニーの頭を指で軽くこついた。
ジェニーもニタついた笑みを返していた。
子供達の笑顔はやはりかわいく、知らずと微笑んでしまう。
それを見ていると、しっかりしなくてはと思い知らされた。
「ねぇ、みんな、公園に行こうか」
大きな声で叫べば、子供達はとても喜び、元気に答えてくれた。
明るく楽しくしていれば、きっと運はいい方に向いてくれる。
立ち退きなんて絶対にさせない。
エレナは熱く心の中で奇跡が起こるのを信じていた。
車に気をつけながら、子供達を引率して公園に連れてくる。
公園には子供達が喜ぶ遊具が、形良く色とりどりに設置されていた。
二つのジャングルジムの間に橋がかかって行き来できたり、ハン
ドルやレバーがついて乗り物を動かしている気分になれたり、滑り台が螺旋状にからみあってたり、捕まり棒やブランコ、クライミングといったありとあらゆる
遊具が固まり、そこはまるで一つの遊びの国を形成しているようだった。
子供と親も一緒に入り混じり、無邪気な声が沢山集ってざわめいている。
時折、鳥の声も聞こえ、平和な時間が流れていた。
「私はここのベンチに座っているから、仲良くみんなで遊ぶのよ。この公園から離れて遠くに一人でいっちゃだめよ」
子供たちは元気に返事して駆けて行った。
エレナは木の下にあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりと公園の遊具と遊んでいる子供達を見ていた。
公園の一番外れに設置されたベンチの後ろは、木々が茂って小さな森になっている。
ここからだと公園全体が良く見渡せるが、遊具があるところから離れているので、他の親達はここには寄り付いてなかった。
まるで特等席の貸切状態。
ゆったりとした時間が流れ、同じように空でも雲がゆっくりと流れていく。
澄んだ空気も、時折頬をなで、冷たさを感じさせた。
一人で暫くじっとしていると、また余計な事を考えてしまい、エレナは無意識に深く溜息を吐いてしまった。
「ため息は吐かない方がいい」
突然後ろから低い男の声がし、反射的にドキッとしたとき、体が急激に冷える恐怖を感じた。
エレナは息を詰まらせ、恐る恐る後ろを振り向こうとしたその時、
「振り向くな、手荒な真似はしたくない。前を向いたまま俺の話を良く聞け」
脅すようにきつく怒鳴られた。
エレナの体は強張り、恐怖心から言うことを聞いた。
「あなたは、誰なの」
「いいから、良く聞け。何も心配することはない」
エレナは息を呑んだ。
先日受け取った手紙と全く同じ言葉 、『何も心配することはない』。
この男は一体……
エレナは驚きすぎて、声を失った。
「あ……」
「突然、怖がらせてすまない。俺は君に何も危害を企てない。とにかく聞いて欲しい。君は父親からある物を預かっているはずだ。それを俺によこせ」
「えっ、私何も預かってません。人違いです」
「いや、預かってるはずだ。まだ気が付いてないのならそれを探せ。時間がない」
「私には何のことかわからない。一体何を探せというの。教えて!」
空は晴れているが、突然パラパラと大粒の雨が降り出してきた。
前方から数人の子供が駆け寄ってくる姿が目に入る。
「エレナ、雨が降ってきちゃった」
「こっちにきちゃダメ!変な人がいる」
エレナが叫んだ。
子供たちは驚いて立ち止まったが、首を傾げて不思議な顔をしていた。
「エレナ、どうしたの。エレナ以外誰もいないけど?」
後ろを振り向くと、大きな木だけがそこに立っていた。
──でもさっきまでここに居た。
エレナはすくっと立って辺りを見回すが、静かな森があるだけで、人の姿は見えなかった。
「エレナ、寝ぼけてるの? もう、しっかりしてよ」
「最近ほんとに変だよ」
子供たちに文句を言われてしまった。
エレナは再び、ベンチに腰掛けた。
体が前屈みになり、その姿は力を使い果たしたように疲れ切っていた。
突然の事に緊張感が極度に体を締め付け、その反動で生気が抜けてしまっているようだった。
雨がパラパラと降ってはいるが、空は晴れ間が顔を覗かしている。
「エレナ、大丈夫?」
子供達に心配され、適当に返事するも、暫くは放心状態だった。
次第に雨は弱まり、太陽はそのまま春の暖かい日差しを向けていた。
「この雨はすぐに止むわ。まだ遊んできていいわよ」
子供達は、また元気良く元の場所へと戻って行った。
晴れてるのに雨が降る。
天気も困惑しているかのように、エレナも不可解な男がとうとう姿を現したことで、一体何が起こっているのかわからなくなっていた。
男が言っていた、父親から預かっているものとはなんのことだろうか。
しかし、その質問をされたのはこれが初めてじゃなかったと、エレナは思い出した。
事件が起こったあの当時も、保護されたときに同じ質問を警察からされた。
一体皆、何を探しているというのだろうか。
もしかしてあのオルゴールを意味しているのだとしたら──。
それしか思い当たるものはなかった。
しかし、子供のとき、そのオルゴールを警察に見せたが、警察はそれを念入りに調べた上で、これではないとはっきり言った。
警察とあの男は共通のものを探しているのだろうか。
そうだとしたら、それは一体何なのだろう。
そして、あの男は何者なのだろうか。
エレナの居場所を知っているのに、エレナを連れて行かない。
父親の事もどうやら知っている様子だった。
得体は知れないが、危険を感じる要素が薄く、自分を追っている者達ではないように思われた。
ただ、確実に動き出している何かを感じ、落ち着かなかった。
変な男に遭遇してからというもの、エレナは一層言葉数が少なくなり考え込んでいる。
子供達はその事を話しては、気遣って変わりばんこに様子を聞きに行った。
その度に、エレナはいつもなんでもないと、一時的に笑顔を見せるが、暫くするとまた気難しい顔になるので、子供達もお手上げだった。
「エレナ、一体どうしたんだろう」
男の子の中でも一番リーダー的なサムが言った。
「だから恋わずらいだって」
ジェニーが自信を持って皆に語っていた。
「それって、カイルが関係してるの?」
「そこまではわからないけど、女が考え事をするのって好きな人のことしかないじゃない。まあ、男のあんた達には乙女心なんてわからないだろうけどね」
ジェニーは鼻持ちならない態度で言った。
「なんだよ、えらっそうに。それぐらいわかるよ。なあ、みんな」
サムも意地になって、知ったかぶりをしてしまった。
またそこをジェニーが「わかってないくせに無理をして」と揶揄するから、いつしか男の子と女の子に分かれて、対立の構図が出来上がってしまった。
実際、誰も深く意味がわかってないのに、意地だけを張り合い、やがてそれは追いかけっこへと発展する。
結局は子供らしく、みな大はしゃぎしては部屋を駆け回っていた。
その時椅子が倒れ込んで、大きな音が部屋中に響き、エレナははっとなって、我に返った。
「ちょっと、あんたたち。少しはしゃぎすぎよ。シスターパメラが居ないからって、好き放題はやめてよね」
「エレナが暗くなってぼーっとしてるのが悪いんだろ。くやしかったら捕まえてみな」
サムに言われて、エレナはそこで初めて目覚めた気分だった。
このままではいけないと、子供達の調子に合わせた。
「よぉーし、捕まえて、お尻叩いちゃうぞ」
子供達はキャッキャと一層声を高くして騒ぎまくり、そして逃げ出した。
「あっ、待て!」
ストレスの発散。
子供たちと羽目を外して騒ぐのも悪くはなかった。
エレナも負けずと追い掛け回していた。
そんなときに、突然『ピンポーン』とベルが鳴り響き、誰もが動きを止めた。
エレナがドアに向かうと、子供達も同じようにドアの周りに群がった。
そしてドアを開けたとき、そこには見た事もない美しい女性が、清楚に立っている姿に、皆唖然としてしまった。
それはリサだった。
「初めまして。突然の訪問をお許し下さい。実はお伺いしたいことがありまして」
──なんてきれいな人なんだろう。
エレナは見とれ、しどろもどろしながら奥へと案内した。
子ども達は目の前の客人が珍しく、じろじろ穴があく勢いで見ている。
ここにポートとカイル以外の訪問客は滅多に現れないだけに、この美しい訪問客がお姫様に見えていた。
誰もがリサの訪問に気を取られて、ぞろぞろと後をついていく。
子供に慣れてないリサにとって、それは鬱陶しく、また薄汚れた施設の子供達に親しみなど全くわかない。
居心地悪く、不快感一杯になっていた。
できるだけ顔に気持ちが表れないように澄ましているが、子供達を見る目は冷ややかだった。
この施設には客間などなく、エレナは広間にリサを連れてきた。
皆が一同に集まれる、大きな木のテーブルと長いすがある質素な場所。
それだけで貧困な様子が充分に伝わってくる。
自分とは住む世界が違うその場所は、リサにとって蔑んだものとして目に映っていた。
「こちらでどうぞお待ち下さい。今お茶をお持ちします」
「結構です。すぐ御暇しますから。ちょっとお伺いしたいことがあるだけなんです。こちらの責任者の方はいらっしゃいますか」
さっさとここから去ってしまいたい。
嫌悪感一杯の気持ちのせいか、取り繕った笑顔で顔が引きつってくる。
そして目の前にいるエレナにもあまりいい印象をこの時点でもてなくなっていた。
「あいにくシスターパメラは出かけておりますが、私でよろしければお伺いします」
おしゃれ気もなく、垢抜けしない田舎娘。
そんな目でリサはエレナを見ている。
リサはそれとは対照的に、洗練されたブランド物の服を着こなし、エレガントに美貌が引き立っていた。
自分の方が比べ物にならないくらい美しい。
レベルの低い女を前に、一時的に優越感に浸れても、エレナが見せた柔らかい笑顔がリサを焦らせた。
自分が見につけている宝石よりも遥かに惹き付ける何かが感じ取れた。
自分の方が優れているのに、どこか負けたような女性の嫉妬が突然入り込む。
エレナに敵意を抱いた瞬間だった。
──私この子が嫌い。
もうそれは動物の勘とでも言うべき女の本能だった。
リサは少し咳払いをして、回りにいる子供達に視線を移した。
エレナはその意図を汲み取り、子供達を部屋から追い出した。
子供達は不承不承になりながら、未練がましく部屋から去っていくが、入り口付近からこっそりと顔が覗いていた。
エレナがきつく睨み返すと、子供達は慌てて去っていった。
辺りの騒がしかった空気が沈殿したようにやっと落ち着いた。
それを見計らってリサは話し出した。
「突然、お邪魔してどうもすみませんでした。実はこちらにカイルがよく来ていると聞きまして、そのことについてお伺いしたいんです」
「えっ? カイルがどうかしたんですか」
「いえ、カイルがこの場所を大切な所のように言ってるのを、偶然聞きまして、どういうところか見たくなったんです。カイルはここで何をしているんですか」
「カイルはボランティアでここの施設の手助けをしてくれてますが……」
「それじゃあなたもここでボランティアを?」
「いいえ、私はここに住んでいるものです。私もこの施設で育ちました。ずっとカイルを知っているから言えるんですが、彼は本当に優しい思いやりのある人です。子供達の面倒もよく見てくれるんですよ」
──カイルを良く知っている、この女が。益々気に入らない。しかもこんな汚い施設で、お金持ちで地位もあるような人が、ボランティアをしたくなるなんて。 自分なら絶対嫌だわ。
内心はそう思ってもリサは笑顔で「そうでしたの」と感心しているフリをした。
顔は笑っていても目は笑わずに、孤児院育ちのエレナを蔑んだ。
──カイルの母親がいいように思わないはずだわ。
リサは真実も知らず、パーティで耳にしたカイルの母親の話を勝手に解釈していた。
「あの、失礼ですけどなぜカイルの事を?」
と言いかけたエレナだったが、突然電話のベルが鳴り響いた。
一度鳴った後、すぐに聞こえなくなったので、子供達の誰かが取ったみたいだった。
割り込んできた電話の音で話の腰を折られて、エレナはまた同じ質問をするのを躊躇してしまう。
その時、子供の声が奥から聞こえて来た。
「エレナ、カイルから電話だよ。今日の夕方空いてるか、聞いてって言われちゃった」
これを聞いて驚いたのはリサだった。
──カイルがこの女を誘った。自分じゃなくこの女を。
リサの自尊心は簡単に傷つけられ、悔しさが心に現れた。
そんな気持ちが芽生えること自体許せず、強い憎悪が膨らむ。
こんな女に敗北するなどありえなかった。
それが嫉妬であるのに、その言葉を飲み込み体が震え、リサは必死で自分と戦っていた。
「今お客様だから後でかけ直すって伝えといて」
「いえ、私に構わないで下さい。私もそろそろ失礼します。カイルが素晴らしい人だとわかりました。忙しいところお邪魔してごめんなさいね。それから私がここへ訪ねて来たことを、どうか本人には内緒にして下さいお願いします、ね、エレナ」
まだお互いの自己紹介はしていないが、子供がそう呼んでいたので、同じように言った。
それは自分の心に焼き付けられたように、エレナという名前が憎いものとして刻まれた。
リサは立ち上がり、エレナが声を掛ける暇もなく、無視するように去っていった。
その後姿からは近寄れないものを感じ、エレナは動けなかった。
リサが去った後、サムが受話器をエレナに渡し、そしてニヤニヤとして笑いながら他の子供達が居るところへと走っていった。
電話はまだ繋がっていた。
エレナはカイルと話をしだした。
その頃、リサは玄関のドアに手を掛け、出て行く寸前だった。
周りには子供達が見送ろうとして集まっている。
「お姉ちゃんもう帰っちゃうの。また来てね」
子供達はリサの帰りを残念がっていたが、リサには鬱陶しい何者でもなかった。
さっさと出て行こうとしたその時、電話を取ったサムが走ってきた。
「今ね、エレナとカイルが話してるよ。カイルったら今日エレナを映画と食事に誘いたいみたいだぜ」
「それ、本当なの?」
他の子ども達もキャーキャーと騒いでいた。
「ああ、僕ちょっとカイルと話して、エレナになんの用か聞いたら、確かにそういってたよ」
リサはその話に一瞬反応したが、そのまま振り返らずにドアを静かに閉めた。
──エレナ…… あの女のどこがいいのだろう。自分の方が数倍も美しくまた身分もいい。それなのにカイルはあの女を誘った。
このままでは気がすまない。
怒りに任せて表に停めていた車に乗り込み、ドアを強く閉めた。
そして、何かを思いつくや否や、急いで車を運転しだした。
「これからショータイムの始まりよ。覚悟してね、エレナ」
車を走らせるリサの顔は意地悪く笑っていた。