第三章


 引っかかれたあの痛みがすっかり抜けた頬の傷は、乾燥してかさぶたができ、むずむずとした痒みが現れていた。
 時々、傷口に触れて、凹凸のある表面を指先でなぞるのがライアンの癖になりつつあった。
 ハワードは相変わらず気難しい顔をしているが、謎の男から依頼された事件の事は一度も口に出さなかった。
 今は他の依頼の事で黙々と調べ物をしている。
 午前中に一度雑用を言いつけられたが、それが済むとライアンの出る幕はなく、午後はいつものように暇を持て余し、ソファーに寝転がって、気楽にしていた。
 時計を見れば、四時四十五分になろうとしていた。
 特に何もないので、五時になったら、切り上げようと考えていたところだった。
 暢気にあくびをしていたその時、自分の上着のポケットから携帯電話の音が鳴った。
 エレナの一件があってから、交流があった女性達とは全て連絡を絶ち、誰も電話を掛けてくる女はいないはずだと、怪訝にディスプレイを見つめた。
 それが自分のよく知る友達の番号だとわかると、すぐ笑みに変わっていた。
 そして、通話ボタンを押して、親しげに話し始めた。
「もしもーし」
「ライアン!」
「そんなに叫ばなくても聞こえてるぜ、カイル。久し振りに電話を掛けてきたかと思ったら、一体何の用だよ。お前が慌てて掛けてくるのは珍しいな。なんか大変な事でも起ったのか。もしかして事件か」
「ああ、僕にとったら事件さ。お前に頼みがあるんだ。依頼だと思ってくれていい。ちゃんと依頼料を払うよ。だから助けて欲しい」
「わかったよ。親友から金なんか取れるかよ。一体何があったんだ」
カイルは事情を早口で話した。
「おいおい、落ち着けよ。お前が取り乱すなんて珍しいじゃないか。よっぽどその女に惚れてるんだな。わかったよ。ちゃんと探して伝えるよ」
 カイルがいつになく慌てている態度をライアンは、面白そうに鼻で笑ってからかってやった。
「おい、こっちは大真面目なんだ。お前にしか頼めないから、恥もなく頭下げてるのに」
「だからわかったって。安心しろ。俺を信じろよ」
 カイルが取り乱すほどの女性にライアンの興味が湧いてくる。
 カイルの正気も狂わすほどのいい女。
 じっくり見てやろうという気分で、面白そうにしていた。
 これが後で厄介なことを引き起こすとは、この時、ライアンは想像もつかなかった。
 頼める者がライアンしか居なかったものの、カイルは内心心配でたまらない。
 カイルは少なからず懸念を持ちながらも、ライアンにやってもらうしか選択の余地がないために、複雑だった。
 事細やかに指示を出し、最後はライアンに委ねるしかなかった。
「はいはい、仰せに従い必ず丁重に扱うことを誓います」
「ライアン、言っておくが彼女に手を出すなよ。彼女は繊細でか弱い女性なんだ。変な事をしたら許さないからな」
「おいおい、それが親友に頼む態度かい。それに親友の女に手を出すほど馬鹿な男じゃないぜ。安心しな。ちゃんと家まで安全に送り届けてやるから。えっと名前はエレナで間違いないな」
 聞き耳を立てていたわけではないが、その名前が耳に入ったとき、ハワードの手元が止まった。
 ライアンは電話を切り、時間を確認すると、急いで事務所を出て行こうとした。
 それを咄嗟にハワードは呼び止めた。
「ライアン、ちょっと待て!」
 しかし、つい声に力が入ってしまい、その様子からライアンは誤解した。
「ハワード、これは依頼じゃないんだ。友達の頼みなんだ。すまないが金は取れない。それにもう五時も近い、おれはこれで帰らしてもらうぜ」
 ライアンはすばやく事務所を出て行ってしまった。
ハワードはどこか引っ掛かった顔をして考え込んでしまう。
「エレナという名前の女性は沢山いるだろうが、まさか」
 二階の窓から、通りを走っていくライアンを案じるかのように見ていた。

 時計の針が五時を過ぎた頃だった。
 沢山の人ごみに紛れて、エレナはそわそわしながら映画館の前でカイルを待っている。
 待ち合わせをしているのはエレナだけでなく、そこに一人で立っている人達は皆、誰かを待っているようだった。
 待ち人が現れると、笑みを浮かべて出会えた事を喜んでいる。
 それが大概カップルなので、見ていて微笑ましく、自分までドキドキとしてしまう。
 それを見ていると、子供達にデートとからかわれたことが引っかかり、カイルと顔を合わすのがなんだか照れくさくなってきた。
 今か今かと、カイルの笑顔を思い浮かべながらエレナはそわそわしているが、時間が経つにつれカイルが一向に現れない事に段々心細くなっていった。
 夕方のたそがれ時、ビルとビルの合間から見える空の様子が、あまり思わしくないのも不安にさせる要因だった。
 遠くでゴロゴロという燻った雷の音も微かに聞こえ、どす黒い雲が一雨降らせそうな様子だった。
 もしかして待合わせ場所を間違えたのかと心配になってしまい、エレナは辺りを見回した。
 その時、片っ端からここで待っている人に声をかけてる男の姿が視界に入った。
 しかも手当たり次第に、女性だけに声をかけている。
 声を掛けられた女性は手をヒラヒラさせて首を横に振っていることから、ナンパして断られている様子に見えた。
 それがこっちに近づいてくる。
 なんだか見覚えがあると感じたその時、頬の引っ掻き傷を見てエレナははっとした。
 あの時の男──。
 次に会えばきっちりと謝ろうと思っていたのに、エレナの腰は引けて、逃げることしか考えられなかった。
 今は他の女性に声をかけて、まだエレナの存在に気がついてない。
 それをいいことに、そっとその場を動こうとしたその時、男の声が聞こえた。
「すみません。もしかして君エレナ?」
 「違うわ」と聞かれた方は言った。
 エレナは突然自分の名前を呼ばれたのでびっくりして、思わず派手に振り返ってしまった。
 その行動がライアンの視界に入り、その時エレナと目が合って思わず大きな声で叫ばずにはいられなかった。
「あっ! あんときの女ーーー」
エレナはライアンに見つめられると、蛇に睨まれたカエルのように固まって動けない。
 そこにライアンがじりじりと追い詰めるように近づいてきた。
 エレナはタジタジとして、体がのけぞっていく。
 今更走って逃げる事もできず、覚悟を決め、大きく息を吸った後、勢いつけて叫んだ。
「あの時は助けて頂いてありがとうございました! お礼も言わずに失礼な態度をしてしまってごめんなさい!」
顔も見ることなしに言うだけ言ったその後は、興奮からぜいぜいと息切れしてしていた。
「取って付けたようなお礼だな。無理しなくていいよ。本当はそう思ってないんだから」
その言い方にエレナもむっとしてしまい、自棄になってまた言い返した。
「本当はとっても反省していたけど、今あなたがいろんな人に声かけてる姿をみて、やっぱりナンパ目的の遊び人だと思ってしまったの」
──しまった、また言っちゃった。
「ちぇ、またひどいこと言ってくれるぜ。オレは友達に頼まれて人探ししてるんだよ。ナンパなんてしてねぇよ。こうしちゃいられない。早く探さなくては」
 辺りを見回す態度を大げさに見せつけ、エレナが誤解していることを暗黙に責めていた。
 ライアンはエレナが気になりつつも、カイルとの約束があるために、これ以上構ってられない。
 歯切れ悪く去ろうとしたとき、エレナの方から呼び止められた。
「あ、あの」
「な、なんだよ」
 エレナも気まずかったが、ライアンも複雑な思いでエレナの顔を見つめ、瞳が揺れていた。
「エレナって名前が聞こえたんだけど、探している人ってその人?」
「はん? ああ、そうだけど、だからなんだよ……」
「友達に頼まれたって、まさかその人の名前はカイルじゃないよね」
「えっ!! ま、まさか」
 大きく見開いた目に、あんぐりとあけた口。
 ライアンの驚き振りがそれを物語っていた。
「嘘、やっぱり私?」
「あんたが、エレ……ナ??」
「そ、そうよ」
 どうしていいのかわからない、乾いた笑い声が頼りなくエレナの口から漏れ、顔が引き攣る。
 とんでもない自体になり、お互いそれぞれの複雑な思いを抱いて暫く二人は無言で見合わせていた。
 衝撃が大きすぎてライアンは、完全に声を失っていた。
 エレナは居心地悪く、苦笑いしていたが、この男がカイルに頼まれてここに来た理由が知りたかった。
「あのー、驚きのところ申し訳ございませんが、カイルに何かあったんですか?」
「あっ、そ、そうだ、カイルだけどさ」
 我に返り、カイルからの伝言をエレナに伝え、エレナの反応をライアンは注意深く見ていた。
 エレナは沈み気味に話を聞いて少し俯いた。
「そうだったの。カイルいつも忙しいもんね。やっぱり今日も無理をしてくれてたんだ」
「残念だったな。まあそうがっかりするなよ。どうかカイルの事、怒らないでやってくれよ……」
 俺のときのように…… とつけたしたかったが、ぐっとそこは堪えた。
「怒ることなんてないわ。それよりもカイルが事故にあったとかじゃなくてよかったわ。仕事が入っただけなら私も安心した。きっとカイルの方が私よりもっと気にしていると思うの。カイル大丈夫かな」
 カイルの気遣いを忘れないエレナの態度にライアンは感心していた。
 ライアンが昔付き合ってきた女性達は、ドタキャンなんかされたら、すぐに怒るような輩ばかりだった。
 エレナはそういう女達とは違う──。
 それを強く感じながらも、あの時見せた異常な行動が噛み合わず、ライアンは訝しげにエレナを見ていた。
「あっ、わざわざ知らせてくれてどうもありがとうございました。色々と大変ご迷惑を掛けましてすみませんでした。それじゃ私はこれで……」
 さりげなく去ろうとしたが、今度はライアンが慌ててエレナを引き留めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。カイルから君を無事に家まで送って行くことも頼まれてるんだよ」
「えっ! そ、それは大丈夫です。気になさらないで下さい。一人で帰れますので」
 謝る事もできた。
 用事も済んだ。
 これ以上の係わりは勘弁して欲しい。
 今できる事は一刻も早くライアンから逃げることだった。
 再び踵を返そうとした時、突然閃光が光って雷鳴が轟いた。
 エレナは軽い悲鳴をあげて体を竦ませた。
「うわぁ、今のすごかったな。これはすぐ近くに落ちたぞ」
 ライアンがそういった直後、再びピカッと光って空が割れるような音がすると、エレナは完全に怯えてしまった。
 周りににいた人達も、慌ててどこかに避難しようとして、辺りは人の動きが急に目立った。
「とにかく俺達も避難した方がいいかもな。人の頭に落ちることもあるし」
 ライアンが冗談ぽく言った。
 雷の音にすっかり怖がっているエレナの姿はライアンには意外だった。
 ──こいつなら雷を落とす方だぜ。
「ほら、こっちこいよ」
 ライアンに誘導されて、エレナはついていった。
 二人は近くにあったドラッグストアの軒下に入り、空の様子をみている。
 まだ雷はなっているものの、徐々に光と音の間隔が開いているのがわかった。
 二人は横並びに無言だったが、エレナはライアンの頬の引っ掻き傷を、まじかでみていた。
 細かい引っ掻き傷は、よく見れば猫が引っ掻いた痕に見えた。
 傷口の様子から全然手入れをしていない感じがして、これでは傷が残ってしまうとお節介にも心配してしまった。
 ライアンがエレナの視線に気がつき振り返ると、エレナは慌てて目をそらし、ぎこちなくなった。
「あの、ちょっと待ってて貰える?」
そう言うと店の中へと慌てて駆け込んで行った。
 その様子をライアンは唖然として目で後を追った。
「女ってどんなときでもショッピングしないと、気がすまないもんだぜ」
 暫くしてエレナが、手に何かを持って帰ってくると、持ってたものをさっとライアンの前に差し出した。
「はい、これ」
「へっ? これを俺に?」
 なんだろうと手にすれば、それは傷口のための塗り薬だった。
「その引っ掻き傷、ちゃんと薬塗らないと痕が残っちゃうよ。それにその傷があると私いつまでもあなたに酷いこと言ったことが、忘れられないじゃない。本当 にあの後反省してたのよ。タイミングが悪くてちゃんと謝れなかったからもう一度言うね。あの時、助けてくれて本当にありがとう。酷いことを言ってあなたを 怒らせてしまってごめんなさい」
 エレナは許して貰おうと思わなかったが、ちゃんと謝る事ができてそれだけでちょっと肩の荷がおりた。
 表情が少し緩み、自然な笑みをライアンに向けていた。
 その笑顔とエレナの行動にライアンは面食らい、ドキドキとしてしまった。
 普段どんなときでも、カッコをつけて自信溢れているライアンが、エレナの前では子供のように、はにかんで照れている。
 気の利いた言葉もすぐに出てこない代わりに、心の中が温められて、無邪気に笑みがこぼれた。
「ああ、ありがとう」
 礼を言うだけで精一杯だった。
 雷雲もすっかり遠くに流れ、この時、全てが落ち着いたように思えた。
「それじゃあ、私これで……」
 さりげなく再び去ろうとしていたエレナの腕をライアンは咄嗟に掴んだ。
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