第三章


「待てよ、エレナ、もうすっかり暗いじゃないか。この時間バスに乗って、若い女の子一人、家まで帰るのは危ないから送っていくよ。カイルにも俺が怒られちまう」
 カイルに怒られる──。
 カイルの名が出てくると気持ちが揺れ動いた。
 この男がカイルと友達で、カイルが直接連絡を入れたという事は、それだけ親しい関係なのは間違いない。 
 ライアンの澄んだ瞳からは一生懸命さが伝わってくる。
 その瞳を迷いながらエレナは見つめていた。
 初めて会ったときよりも、それは飾り気のない無邪気な笑顔。
 そしてエレナのいい返事が欲しいと、不安さも漂わせて懇願している。
 子犬のようなあどけない瞳が、エレナを放って置けなくさせた。
 エレナが肩の力を抜いて微笑むと、ライアンの目は一層細まった。
 素直に感情を表すライアンの表情に、エレナはライアンの人柄を見ていた。
 ライアンのこの笑顔はどこか胸をキュンとさせ、不意に何か懐かしい思いに駆られてしまった。
「わかったわ。それじゃお言葉に甘えて、送ってもらえますか。えっと、あなたの名前まだ聞いてなかったわ」
「そうだったな。俺はライアン。宜しくな」
 そう言って右手を差し出した。
 エレナも躊躇わずに、すっと右手を出して握手した。
 お互い抱いていたわだかまりが完全にとけた瞬間だった。
「エレナ、俺んちこの近くなんだけど、ちょっと歩くけど一緒に来てくれないか。そこにバイクがあるからそれで送ってあげるよ。車じゃなくて申し訳ないんだけどさ」
「そんなことないわ。乗り物が馬だって平気よ」
 そんな発想が返ってくるとは思わず、ライアンは受けていた。
 その雰囲気を壊さないようにライアンも調子を合わせる。
「馬の方がもっとカッコ良かったかもしんないな」
すでに心が打ち解けたやり取りが、お互い心地よかった。
 エレナもすっかり安心し、前を歩くライアンの背中を見つめ、以前に感じた罪悪感が薄れて、今はなんだかほっとしていた。
 もうすぐライアンのアパートに着くというとき、またポツポツと雨が降り出してきた。
「ちぇ、ついてないぜ。雨だ」
 バイクには屋根がついてない。
 ライアンはどうしようかと思った。
「これぐらいの雨なら濡れても平気。だって私、雨が降ってもあまり傘ささないから慣れっこよ」
エレナは先に気遣った。
 雨は次第に激しさを増しても、エレナはさらに笑顔を見せた。
「これくらいの雨に傘を差したら、観光客って言われちゃう。負けられないわ」
「なんで勝ち負けになるんだよ」
 ライアンはおかしくて笑っていた。
 元々雨が多い地域なので、地元の者は慣れっこになって、ちょっとやそっとの雨では傘を持たないのが習慣だった。
 それがあったとしても、自分に気遣ってくれているのがライアンには伝わってくる。
 今まで付き合ってきた女の子達は、自分中心的で、事が上手くいかない時は咎められることの方が多かった。
 これだけの雨が降ってくると、きっと機嫌を損ねてなんとかしろと言われたことだろう。
 エレナはそんな女の子達とは全く違っていた。
 初めて出会った時のあの殺気立った雰囲気が嘘のように、ライアンはエレナという人物が一体どういう人なのか、益々気になってしまう。
 自分を打ちのめした時のあのエレナと、今ここにいるエレナは別人のように思えてならなかった。
 だがどっちにしろ、エレナはライアンの目にはとても魅力溢れる女性に映っていた。

「ここがオレの住んでるアパートさ」
 賑やかな通りから外れて、寂れたビルが建ち並び、古いビルの窓ガラスは所々割れている。
 辺り一体のビルが、倉庫にしか見えず、どこに住む場所があるのか分からない。
 ライアンの指差す場所も、アパートには全く見えなかった。
 五階建てのコンクリートが固まったような四角い箱。
 その一番下はオープンスペースが広がり駐車場になっていた。
「ここ人が住めるの。まるで倉庫街みたい」
「ああ、その通り、ここは元倉庫なんだよ。一番上の階だけ今人が住めるようになってるんだ。というよりも今この辺りは倉庫街から人が住めるように少しづつ改造されているところなんだ。この辺りはもうすぐ、もっとオシャレになるぜ」
 まだ建設中なのか、言われてみればこのあたりは工事現場だらけだった。
 そのうちここは綺麗になるのだろうかと、エレナは周りをキョロキョロしてみていた。
雨脚も強くなり、この時、力強く降り注いできた。
「うわ、いけね。よかったらオレん家で少し雨宿りしていかないかい。きっとこの雨はすぐに小降りになると思うんだ。そのままじゃ寒いだろう」
 確かに少し寒かった。
 普段穿かないスカートのせいで、足元がスースーといつも以上に風通しがいい。
「でも」
 しかし、いきなりアパートを訪ねるのには抵抗があり、エレナはもじもじしてしまう。
「安心してくれ、おれは君が思ってるような男じゃないから。それにカイルの大親友だと言うことを忘れないでくれ」
ライアンはまた誤解されては困ると、慌てて弁解するように言った。
「もちろん、ライアンはそんな事ないわ!」
 また自分が何かを誤解していると思われるのが嫌で、エレナも強く否定した。
「嬉しいな、そんなに力んで信用されると」
「えっ、いえ、あのその」
 エレナも訳がわからなくなってしまった。
 だけど、ライアンが楽しそうに笑ってるその姿を見ていると、なんだか気がおおらかになってくる。
「それじゃ昔のカイルの話聞かせてくれる?」
 エレナの目は好奇心でキラキラ輝いていた。
「も、もちろんさ」
 ライアンはドキドキして、いつもの調子が狂っていた。
 自分がこんなになるなんて初めてだったが、それと同時にカイルが夢中になってる女性だと思うと、ライアンはもっとエレナの事が知りたくなる。
 気が強い、気遣いがある、優しい、面白い、そしてかわいい。
 それ以外にどんな言葉が似合うのか、ライアンはもっとエレナと向き合ってみたいと欲がでていた。

 エレベーターが五階について扉が開くと、ライアンの部屋のドアは目の前にあった。
「散らかってるけど、気にしないでくれ」
 部屋の電気をつければ、広い空間が目に飛び込んだ。
 元々倉庫だったので天井も高く、殆ど窓になっている壁は、外の範囲が大きく見えて開放感を感じる。
 リビングとベッドルームが一緒になっているワンルーム。
 素朴ながら、ソファーや家具を置くとおしゃれに見えた。
 キッチン、バスルーム、暮らしていくための設備はしっかり整い、一人暮らしするには楽しい空間に思えた。
「素敵なところね。外から見るのと全然雰囲気が違う」
「だろ。ここもそのうちきっちりとしたアパートにリフォームするんだろうけど、それまでは安く貸してもらってるんだ。いつ出て行けって言われるかわからないけどね」
 ソファーにおいていた脱ぎっぱなしのシャツをライアンは慌てて掴み、エレナにどうぞと座るように施した。
 エレナは物珍しそうに見回しながら、腰を掛けた。
「なんか飲むかい?」
「ううん、それよりも、お話が聞きたいわ。ライアンはどうやってカイルと知り合ったの?」
 ライアンはキッチンから椅子を持ち出して、エレナの前に座った。
 ワクワクしながら話が聞けるのを待っているエレナの目が、自分を見ていることに少しドキドキしてしまう。
 かしこまって一度咳払いをしてから、話を始めた。

「カイルと知り合ったのは中学生の頃だった。奴は優等生タイプで、一学年、年上。オレは落ちこぼれで悪だったな。よく喧嘩して皆から恐れられていたよ。あ まり俺に近づくものも居なかったけど、カイルだけは違っていた。そんなこと関係ないかのように奴は普通に俺に接してくれたよ」
 ライアンはすっかり過去に戻ってしまい、まるでその時の状況を今目の前で見ているかのような目をしていた。
 エレナもその時の情景を想像する。
 少年だった時のライアンとカイルを思い浮かべながら、エレナはその話に耳を傾けていた。
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