第三章


 ライアンに借りたダッフルコートは、暖かさを逃がさず、しっかりとエレナを包み込んでいた。
 それがライアンがかつて着ていたものなだけに、ライアンの温もりにも思えてしまう。
 再びエレベーターに乗って駐車場に向かうが、お互い至近距離では妙に意識してしまい、息をするのさえリズムが狂う。
 急に静かになってしまった二人は、非常に気恥ずかしく、お互い目が合えばヘラヘラ笑って場を持たしていた。
 薄暗い駐車場の隅にバイクらしきシルエットが目に入ったとき、ヘルメットを抱えていたエレナの手に力が入った。
 それは緊張でもあり、覚悟でもあった。
 日本の名前が入った赤いバイクはレースに出てきそうなくらいかっこよく見え、それに跨って、ヘルメットを装着するライアンの姿は様になっていた。
 エレナが暫く突っ立って見ていると、ライアンは頭を指差してヘルメットの装着を指示した。
 エレナは言われるがままに、ドキドキとしながらそれを頭に被った。
 慣れない物を頭に被ると、視界がせばまり、圧迫感を感じると同時に、血液がどくどくと早く流れていくのがヘルメットの中で篭って聞こえてくる。
「さあ、乗れよ。いいかい俺にしっかりつかまれよ」
 この時になって、バイクに乗るということの大変さに気がつき、エレナは戸惑った。
 例え馬でも怖かったかもしれないが、高さのある何かに跨るという行為が一苦労だった。
 そしてライアンと密着するほどの距離感に、自分はとんでもない事をしていると思えてならない。
 遠慮がちに軽くライアンの腰に手を当てると、ライアンはエレナの手を掴んで無理に前に引き寄せた。
「俺にしがみつくんだ」
 エレナは恐々とライアンの背中に密着し、言われるままにしがみ付いた。
 だが、バイクのエンジンが掛かったときは、怖さから食い込むように力を入れてライアンを抱きしめていた。
「振り落とされるなよ」
 バイクはエンジン音を轟かせて発進した。
 その衝撃と同時にエレナの心臓もフル回転していた。
 落ちるかもしれない恐怖のハラハラと、ライアンと密着したドキドキが交じり合っている。
 そしてライアンの背中の温もりが伝わると、懐かしい何かを感じられずにはいられなかった。

「よぉ、大丈夫かい。ちゃんと後ろにいるかい」
「ええ、大丈夫よ」
 エレナの心臓のドキドキが、ライアンの背中越しに伝わっているのではと思うと、恥かしかった。
 どのくらいの時間、ライアンに抱きついていたのだろうか。
 それは長くもあり、あっという間でもあった。
 そして施設の前に到着した時、エレナは放心状態気味だった。
「ここでいいのかい?」
「えっ、あっ、こ、ここです」
 慌てて降りると、足がガクガクとしていた。
 必死でライアンを抱きしめていた手は、風にさらされすぎて冷たくかじかんでいる。
 上手く動かないその指でヘルメットをぎこちなく脱いだ。
「寒かったんじゃないか。大丈夫かい」
「大丈夫よ。ライアンの背中は暖かかったから」
 ヘルメットを返し、エレナは微笑んだ。
 サンバイザーから見えるライアンの眼差しがとても優しかった。
「そっか。それはよかった」
「送ってくれて、本当にありがとう」
「もちろんさ」
 ライアンはこのままエレナと別れるのが躊躇われる。
 また会いたい。
 それを口にしようとしたとき、エレナの言葉で我に返った。
「カイルの話も聞けて楽しかったわ」
 ──カイル……
 ライアンはカイルの存在をすっかり忘れていた。
 その名前は針となって、自分の心に突き刺さった。
「それじゃ俺の用はこれで無事済んだ。それじゃ、カイルによろしくな」
 さっきまで未練がましかったライアンだったが、カイルの名前が出たところで潔く去っていった。
 バックライトがあっという間に小さくなりそして消えてしまった。
 エレナの心に余韻がそのまま残り、その気持ちがコートの上から胸元をぎゅっと掴ませた。
「あっ、このコート」
 返しそびれてしまったコートはまだエレナを暖かく包んでいる。
「ライアン……」
 コートはいつまでもライアンの事を思い出させていた。

 さっきまで暖かかった背中が、急に冷え冷えとして寂しくなり、ライアンはヤケクソな気持ちで夜道を飛ばしていた。
 バイクに乗る時は必然的にしがみつくものだが、エレナに強く抱きしめられるとライアンは実際のところ平然としていられなかった。
 初めて出会った時は最悪であっても、エレナと話をすれば、エレナの人柄はすぐに見えてきた。
 エレナには何か事情があるという事も、ライアンは感じ取っていた。
 エレナと時間を一緒に過ごせば過ごすほど、自分がエレナに惹かれていく。
 それがとてもやばい事も承知している。
 ライアンはこの気持ちをどう処理すればいいのかわからず、ハイウエイでバイクの速度を上げ、闇雲に走っていた。
 そのとき、さっきから同じ車がライアンの後にぴったりついてきていることに気がついた。
「速度を変えても斜線変更してもついてきてやがる」
 ライアンはハイウェイを降りて様子を見てみた。
 やはり、その車はライアンの後ろをついてきていた。
 次に、適当に右折してみれば、その車も右折してきた。
 ライアンは気味が悪くなり、速度を落として道路の脇にバイクを寄せて停止した。
 つけていた車は停車することなく、ライアンの脇を走っていった。
 それがただの偶然か、それとも諦めて走り去っていったのかはわからない。
 また戻ってくるんじゃないかと気になったが、バックミラーにはもうさっきの車は映ることはなかった。
「なんか気味が悪いな」
 エレナを送り届けた直後から、ここまでずっと道が同じというのは偶然で起こりうるかもしれないが、相当確率が低いように思われた。
 これが意図されたことのように思えてならない。
 しかし、そうだとしたら一体誰が。
「あっ、もしかしたら親父の知り合いが、俺を監視させてるとか。親父ならありえるぜ。なんせFBI捜査官だもんな」
 あまり父親と上手くいってないライアンだったが、あまりにも気になってしまい、アパートに戻ると父親に電話を入れた。
「よぉ、親父。俺の監視に誰かよこしただろう」
「なんのことだ。ライアンまた酔ってるのか」
「ちぇっ、酔ってなんかないよ。いつもそれだ。親父は俺のことなんて何一つ信用してない。だから、自分の権力使って、俺を監視してるんだろ」
「馬鹿なことを言うな。私的にそんなことできるか。今忙しいんだ、切るぞ」
 ライアンは怪訝な顔つきで切れた携帯電話を見ていた。
「親父じゃない? だったら誰が俺のことつけてたんだ。やっぱり気のせいだったのか……」
 納得がいかなかったが、そんな事を気にしてても仕方がないと、放っておいた。
 それよりも今はやっかいな感情が芽生えてしまい、それで心が埋め尽くされていた。
 携帯に登録しているカイルの電話番号を見つめ、溜息をつく。
「とにかく、言われた事はきっちりとこなした。手も出してねぇ!」
 勢いつけてカイルに電話したものの、留守電に切り替わってしまった。
 伝言を残す気分でもなかったので、ライアンはすぐに切ってしまった。
 一晩置いてから、報告した方が却っていいかもしれない。
 今のままだと、冷静になれなかった。
 いつもの静寂な部屋はエレナが去った後ではより一層寂しさを増した。
 エレナが座っていたソファーを見つめ、エレナの無邪気な笑顔を思い出す。
 手を出したくても出せない。
 カイルが惚れている女。
「くそっ」
 イライラした感情が口からついて出ては、ダイニングテーブルの脚を蹴ってしまった。
 エレナがくれた傷薬が、テーブルの上で跳ね、ライアンはそれを手に取った。
 おもむろにそれを頬に塗りつけ、何度も擦り込んでいた。


 突然のリサから受けたパーティの招待で、邪魔をされてしまったカイルは最高に苛立っていた。
 ライアンとエレナを会わせてしまったことも落ち着かないが、今、目の前にいるリサに非常に腹を立てている。
 しかし、リサの両親と自分の両親の手前、必死に我慢していた。
 テーブルには豪勢な料理が並び、ワインも高級品が用意されている。
 だが、この時テーブルを囲んでいたのは、リサの家族と、自分の家族のみだった。
 ──話が違う!
 お皿の上のローストビーフを切るナイフに力が入り、乱雑に切ってしまう。
 一口食べただけで、それ以上喉に通らずナイフとフォークをお皿の横に置いた。
 その様子を見ていたグッドフィールドが声を掛けた。
「カイル、食事はお口にあいませんか」
「いえ、とても美味しいです」
 失礼のないように答えた。
 そしてワイングラスを手にして、作り笑顔を見せてからぐいっと一気に飲み干した。
 その勢いで、リサを一瞥する。
「パーティだと聞いていましたが、他の方はどうされたのでしょうか。私の仕事の部門の関係者も来られるとお伺いしましたけど」
 リサの父親は、まるでそんなことなど知らないと言わんばかりに、目を丸くしていた。
 リサは従容に軽くナプキンで口元をふいてから笑みを浮かべた。
「そうでも言わないとあなたは今日ここへ来てくれなかったでしょ」
 ──やられた。
 堂々と嘘をつかれ、それにまんまと騙されてしまった。
 怒鳴りたい気持ちを必死に堪え、カイルの体は震えていた。
「娘の我儘であなたをここに来させてしまったようですね。申し訳ありませんでした」
 グッドフィールドが謝罪をすると、カイルの父親が取り繕うように口を出した。
「息子は照れ屋なんですよ。強引にひっぱらないと自分から何もできないんです。きれいな方を目の前にすると緊張して、好きなのに好きと言えないタイプでして。これぐらいして頂いた方が丁度いいんです」
 カイルは黙っていた。
 その様子をカイルの母親は心配しながら見ていた。
 カイルの父親とグッドフィールドはどちらもお互いの立場をわかっている。
 リサが嘘をついてカイルをこの場に呼んだとしても、それは二人にはどうでもいいことだった。
 それよりも、個人的に話を交わす機会をもてたことに、なんらかの利益を考えていた。
 それこそ二人はビジネスとしてこの機会を大いに利用していた。
 カイルもそれがわかっているだけに、父の会社のためにも自分を殺すしか選択はなかった。
 そして時折、グッドフィールドに話を振られ、カイルは余所行きの仮面を被っては無難に受け答えしていた。
 リサの口元には微かに笑みが浮かんでいる。
 それを普通の人が見れば、控えめでお嬢様らしい高貴な笑顔とみなしたかもしれない。
 だが、カイルには意地の悪いものにしか見えなかった。

 食事が終わると、ソファーがあるくつろげる場所へ案内され、そこではワゴンに乗った色とりどりのデザートとコーヒーを振舞われた。
 カイルは全てを断り、リサの前に立ちはだかった。
「リサ、少し外へ出ませんか」
 カイルの目は冷たくリサを捉え、全てを説明しろと言いたげに挑戦的になっていた。
 リサの両親とカイルの父は笑いながら、恋の予感でもするみたいな事を呑気に語っていたが、カイルの母親だけはいつもと違う態度を感じ取った。
 外の空気は冷たく、風が吹けば震えるくらいの気候だったが、頭に血が上ったカイルには寒さなど感じられなかった。
 リサは泰然自若に振る舞い、自分の家の庭の事を、聞かれてもないのに色々と説明していた。
 カイルはそれを遮るようにシャープに話し出した。
「リサ、なぜ嘘をつく必要があったんだ。今日は僕にはとても大切な用事があったんだ。ただの食事の招待なら、日にちを変更することもできただろう」
 カイルはそれでも紳士だった。怒鳴りつけたいのを堪えて、落ち着いて対処していた。
 リサは無表情でカイルをじっと見ている。
 カイルが言った大切な用事はエレナとのデートのことだけに気に入らず、嫌味をちくりと言った。
「その大切な用事も仕事には負けるみたいね」
 リサのその言葉がカイルを黙らせた。
 後悔の念と罪悪感が一度に現れる。
 騙されたとはいえ、エレナとの約束よりも仕事の方を選んだ自分が情けなかった。
 カイルはリサを責めても仕方ないと判断すると、もうそれ以上は何も言わなかった。
 言ったところで、済んでしまった事は取り戻せない。
 大きな溜息を一つ吐いて、それで終わらせることにした。
 両親の元へ戻ろうとしてリサに背を向けた。
「カイル、待って」
 カイルが振り返ると、リサは静かに近づいてきた。
 長身のカイルを見上げている瞳が潤んで揺れていた。
「カイル、私あなたの事を好きになったの」
 リサの心は果たして本当にカイルに恋をしたのだろうか。
 いや、むしろ自分に振り向かないカイルに納得いかず、そして何より自分より劣る女に負けるのが悔しい気持ちの方が大きかった。
 リサはカイルの背広の襟を両手でぐいっと引っ張って引き寄せ、カイルにキスをした。
 カイルは突然の事に動きを封じられ咄嗟に動けず、暫く唇が重なったままになってしまった。
 払いのけるようにリサから離れ、カイルは逃げるようにその場を離れた。
 そして、グッドフィールド夫妻と自分の両親が和やかに談笑している間に突然入り込んだ。
「申し訳ないのですが、疲れておりますし、今日はこの辺で失礼させて頂きます。ご招待頂いてありがとうございました」
 挨拶を終えると、カイルは部屋をさっさと出ていった。
 カイルの両親も、同じように丁寧にお礼を述べて、慌ててカイルの後を追った。
 特に母親は、カイルの態度がおかしいことを気にしていて、心配で堪らなくなっていた。
 リサはその時一人で、冷たい風にさらされながら庭に居た。
 しかし心の中はエレナに対して憎悪を膨らませ、熱く燃えていた。
 身分も美貌も申し分ない自分が孤児院の田舎娘に負ける事は絶対に許されなかった。
 ましてやカイルがエレナに本気で惚れているなんて、自分のプライドが許せない。
 我侭な美しいお嬢様のリサには、考えられないことだった。
 カイルが自分に振り向かなくとも、エレナを徹底的に潰してダメージを与えないと気がすまなくなっていた。

 リサの家を飛び出したカイルはいつになく自棄に車を運転していた。
 山を切り開いた曲がりくねった道で、その運転は無謀としかいえない。
 リサにキスを無理やりされたことが、非常に不快感極まりなく、どうしても気持ちが抑えられなかった。
「なんでこうなるんだよ。なんで!」
 手でキスされた唇を何度も拭っては、その度にイライラとしてしまう。
 そのイライラがハンドル操作に影響してしまい、また怒りのあまり、アクセルを踏む足に力が入ってスピードがでてたこともあり、カーブを曲がりきれず、「あっ」と、思った時はすでに遅かった。
 カイルの車は山間の谷へ転がり落ちていた。
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