第四章
2
「カイル、交通事故にあって死にそうなんだって」
ライアンはベッドの側に駆け寄った。
「おいっ、これが死にそうな人間に見えるか」
カイルはいいところを邪魔されてライアンに怒りをぶつけていた。
その側でエレナがあたふたしながら、こぼれたものをふき取って、カイルに密着している。
それはライアンに嫉妬を植えつけさせると同時に、そう思うことに自分自身、嫌悪感を感じてしまった。
あふれ出る感情を奥歯でかみ締めて、この場を乗り切ろうと耐えては、見ないように目を逸らした。
「そ、それもそうだな。俺、なんか、まずいときに来たのかな」
「ああ、ほんとその通りだよ」
カイルがイライラしている様子が、エレナの目には自分のせいに映っていた。
「カイル、ごめんなさい」
体に触れられたまま、エレナがまじかで顔を向けた。
カイルはドキッとしてしまった。
「エレナは悪くないんだって。ライアンが悪いんだ。気にしなくていいから」
ライアンが居なければ、カイルはこの瞬間、感情に任せてエレナを抱きしめていただろう。
ライアンがいるせいでそれもできない。
欲求不満も加わって、余計にライアンに腹が立ってしまった。
「だけど、なんでお前がここに来るんだよ。交通事故で死にそうだなんて、一体誰から聞いたんだよ!」
「おいおい、人が心配して来たのに怒ることないじゃないか。お前に頼まれた事の報告をしようと思って携帯に何度も電話したけど、繋がらないから、家に直接
電話したんだよ。そしたら家の中の誰かが交通事故で今病院に居るって教えてくれて、それでびっくりして飛んで来たんだよ」
頼みごと──。
エレナとの約束をドタキャンしたせいで、起こってしまった出来事だった。
ライアンとエレナはすでに面識がある。
それなのに、エレナはあまりライアンを見ようとしないのはなぜだろう。
カイルはふと気になってしまった。
「それで、お前エレナに変な事しなかったよな」
「なんだよ、俺を疑いやがって。その前に言うことがあるだろう。自分から頼んできたくせにさ」
不満があるように言ってみたものの、カイルの言葉はライアンを動揺させていた。
手を出したわけではないが、自分の気持ちはすでにエレナに傾いている事を悟られるのが怖かった。
それを必死に誤魔化して、立腹しているフリをしている自分がなんだか惨めでならない。
「お前のその拗ねてる態度、なんかわざとらしくて怪しいぞ。エレナ、本当に大丈夫だったんだろうな」
カイルは不安になってきた。
「えっ? そ、それは」
エレナは突然会話を振られて、しどろもどろになっているところに、ライアンと目が合ってしまい、抱きついていたことがこの時になって無性に恥かしくなってくる。
何かをされたとかで困ってるわけではないが、ライアンを自ら力強く抱きしめて、彼のぬくもりを心地よく思っていた事は誰にも知られたくなかった。
またライアンが近くに現れたことで、エレナはあの時の気持ちを思い出し、ドキドキしだして、それが言葉を詰まらせていた。
「エレナ?」
カイルは嫌な予感を抱き、穿った目でライアンを一瞥した。
「ちょっと待ってくれよ。エレナまで俺を陥れようとするのかい。俺はただ送っていっただけで、何もしてないよ。そうだろ、エレナ」
ライアンに名前を呼ばれて、エレナは我に返り、体裁を整える。
「もちろん、その通りよ。ただ送ってもらっただけ。ちょっと色々あったけどね」
「なんだよ、その色々って」
カイルは突っ込まずにはいられなかった。
「あのね、実は、以前話したでしょ、変な人に絡まれたこと。その時に助けようとしてくれた人がライアンだったの」
カイルはライアンの顔をじっと見つめた。
頬にうっすらとした傷があるのを見て、声を上げた。
「あっ、顔に傷がある男って…… お前だったのか。アハハハハ」
カイルはこの時、息苦しいくらい笑っていた。
「なんでそんなに笑うんだよ」
「だってさ、お前の事だ。下心があってやっぱりエレナを助けたんだろ。お前は常に自分が女性にもてると思っている奴だよ。もてる事は否定しないけど、エレナにぐさっと言われてそうとうショックだったんじゃないのかい」
カイルからまた話をほじくられて、ライアンはうんざりした。
しかも、エレナの前で自分の悪い癖まで暴露されて、嫌味の何者でもなかった。
ライアンは不機嫌を露にして、まだ笑っているカイルを不満たっぷりに見ていた。
「カイル、だからあれは私が悪かったの。ライアンは本当に私を助けようとしてくれたのよ」
エレナもあの事は思い出したくもなかった。
このままではカイルはずっとライアンをその話でからかい、その度に自分も恥かしい思いを抱いて苦しい。
終止符をつけるためにも、ここは本当の事を話さなければ、エレナもライアンも一生恥を背負って生きていかなければならないように思えた。
エレナは覚悟を決めた。
「正直に話したほうがいいわね。なぜ、あの時私があんな態度でいたのか。二人とも聞いてくれる?」
言いにくい話をこれからするといわんばかりの、エレナの憂いのある瞳は、この場の空気を重苦しく変えてしまった。
二人は息を飲んで、エレナを見つめる。
エレナは、伏目がちに話をしだした。
「私、子供の頃に悪い人達に、無理やり連れ去られそうになったことがあるの」
この話に二人は驚いた。
しかしエレナは、あまりこの部分には触れたくないように、早口 で話を続けた。
「その時も、二人組みの男が絡んできたように腕を引っ張られたの。子供の時はただ怖かったけど、今は怒りの方が強くて許せなくて、私は負けたくなかった
の。力が強いものがなんでもしていいなんて許せなかったから、体当たりで殴ってやろうと思った時に、ライアン、あなたが現れたの。でも気持ちが高ぶって、
我を忘れてしまって、私、ついあなたに八つ当たりをしてしまったの。ライアン本当にごめんなさい。あなたが助けてくれて本当に良かったって思っているの
よ」
暫く沈黙が流れた。
エレナが恐々と二人の様子を見て、居心地悪くそわそわしていた。
カイルはどういっていいのか言葉を探している間に、ライアンが先に口を開いた。
「エレナ、なんだそうだったのか。俺も、あの時知らなかったとはいえ、突っかかって悪かった。でも気にすることはないぜ。昨日でこの話はお互い忘れた事になってるだろ。だからカイルももうこの話二度とするなよ」
ライアンは重い話をなんとか軽くしようと、得意の粋がった笑みを浮かべた。
「ああ、わかったよ」
自分よりも先に、エレナが安心する言葉を伝えたライアンに、どこかわだかまりを感じる。
二人の間に何かがあったのではないだろうか。
ふとそんな事がよぎってしまう。
その何かというのはこの時わかっていても、口に出すのが怖く、気のせいだと信じ込もうとしていた。
自分の親友であるライアンが馬鹿なことをするはずがない。
今は信じるしかなかった。
「ところで、ライアン、その顔の傷は一体何に引っ掛かれたの?」
エレナが訊いた。
「えっ、ああ、これか、これ、実はアライグマなんだ」
ライアンは恥かしそうにぼそっといった。
「えっ、アライグマ?」
意外な動物だったので二人はびっくりしていた。
「どうすれば、そんな動物に引っ搔かれるんだよ。お前、アライグマ捕まえようとしてたのか?」
「俺だって知るかよ。戸棚開けたら突然出てきて飛び掛かってきたんだから。不意打ちだったんだよ」
カイルとエレナは顔を見合わせ突然笑い出した。
想像したらおかしい。
「なんだよ、結局オレは笑われる身なんじゃないか」
ライアンはちょっとムッとしたフリをしたが、実際は自分が笑われることで気持ちがすっきりしていた。
自分が抱いてしまったエレナへの気持ちをカイルに悟られたくない。
そして、この気持ちを封印するためにも、自分は二人の前では道化役になるしかなかった。
エレナとカイルを同時に見つめ、ライアンも一緒になって笑い、自分自身も誤魔化していた。
三人が和やかなムードで語り合っていた時、それを邪魔するかのように、ノックする音が突然割り込んできた。
カイルが『どうぞ』と言うと、花束を抱えたリサが部屋に入ってきて、その場の空気が凍りついた。
誰もが唖然として、言葉を失っている中、リサはしっかりした足取りでカイルのベッドに近づいていった。
エレナとライアンはモーゼの海割れのごとく、リサが近づくと左右に分かれて道を開けた。
「昨日の事でお話がしたくてご自宅に電話したとき、あなたが事故に遭ったと聞いて心配で飛んできました。大丈夫ですか?」
花束を近くの台に置き、リサは痛ましい表情でカイルを見つめた。
「お心遣いありがとうございます。幸い怪我は大した事はございません」
──誰のせいでこんな事になったと思ってるんだ。
そんな気持ちを抱きつつも、カイルは決してそれを表に出さずに、ビジネスとして接する。
自分の会社の得意先の娘。
ただそれだけであり、全ては利益のため。
それを強く思わないと、カイルは露骨に嫌な顔になりそうだった。
「それなら安心しました。あの、この方達はお友達?」
リサはまるで初めて会ったといわんばかりに問いかけた。
カイルは礼儀としてリサを形式的に紹介した。
「この方は、父の仕事の関係でお世話になっているところのお嬢さんなんだ」
そう紹介されたリサは二人に向かって『リサです。初めまして』と平然と言った。
エレナもライアンも、圧倒されながら、『初めまして』と合わすように弱々しく返した。
リサの作り笑顔は、不気味だった。
カイルに背を向けたことをいいことに、リサはエレナをきつく睨んでいた。
「あっ、俺、そろそろ失礼するよ。カイル、とにかく無事でよかった。また連絡するから」
ライアンがそういうと、エレナも同じように続けた。
「わ、私もそろそろ帰るね。カイルが元気な様子を、早くシスターパメラに伝えなくっちゃ。子供達もきっと心配しているから」
「えっ、そんなに慌てなくても」
慌てているのはカイルだった。
ライアンはともかく、エレナにはまだ居て欲しい。
それを伝えようとしたとき、リサが口を出した。
「後の事は私にお任せ下さい」
口元は笑みを浮かべていても、目が全然笑っていない。
特にエレナにはきつい眼差しを向けて、まるで帰れと示唆しているようだった。
ライアンもエレナも後味を悪くして、病室を後にした。
カイルはまたリサに邪魔をされ、二人を引き止めたくとも、リサはカイルの目の前に立ち、二人が去っていくところすら見せなかった。
病室を出たライアンとエレナは無言で肩を並べて歩いていた。
リサとは面識があったのに、知らないフリをされた事は、都合が悪かったにせよまだ許せるが、きつく睨まれたことが心に引っかかっていた。
そんな時ライアンがポツリと言葉を漏らした。
「あいつがカイルのところに来るなんてびっくりだぜ」
「えっ、あの人の事知ってるの?」
「ああ、ちょっとな」
「実は私も昨日会ったの」
「えっ!! エレナもあいつの事知ってたのか」
ライアンは口をあんぐりとあけ、半ばあきれ返るように驚いていた。
二人と面識があったにもかかわらず『初めまして』と挨拶するリサの態度が信じられなかった。
「オレと関わりたくないのはわかるけど、エレナにまで関わりたくなさそうな態度なんて、なんかおかしいよな」
「あなたと関わりたくないってそれはどうしてなの?」
「ああ、昔ちょっとだけ付き合ってたからさ」
「えっ?」
エレナはドキッと体に電流が走ったように驚いてしまった。
ライアンはエレナに隠しても仕方ないと思って正直に言ったが、実際また悪いイメージで見られたのではないかと、気になって慌てて付け加えた。
「と、いっても、勝手にいい寄ってきてそしてフラれたんだぜ。オレは好きでもなんでもなかったよ」
「好きでもなかったのに付き合ってたの?」
ライアンはまた墓穴を掘ってしまい、慌ててさらに付け加えた。
「いやその、最初は美人だなって思って興味はあったかもしんない」
「ライアンはやっぱりきれいな女性が好きなんだ」
ライアンは、また失言したと思ったが、もう言い訳するのを諦めた。
どういったところで、自分の行動は揚げ足を取られてしまう。
「だけど君はなんでリサと昨日会ったんだい」
エレナもリサと出会った時のことを話した。
ハワードの推理をいつも目の当たりにしてるライアンは、リサの行動に違和感を持ち、裏があると勘繰っていた。
この時リサがカイルに近づこうとしている事はライアンにも感じとれた。
そして前日のカイルのドタキャンはリサが関連しているに違いないと結論づけた。
でもエレナには敢えて自分が感じた疑惑は言わなかった。
「カイルは大丈夫さ。オレと違ってあんな女なんかに惑わされないよ」
気をきかしたつもりのライアンだったが、エレナはまたぼそっと答えた。
「でもあなたは惑わされちゃったってことなのね」
エレナの一言一言はライアンの心にぐさりと鋭利なものが刺さっていく。
無意識に胸を押さえて顔を歪めていた。
「ああ、もうなんとでもいってくれ」
とうとう開き直ってしまった。
「ん?」
エレナは自分のしていることに気がつかず、何か悪いこといったかしらというような顔でライアンを見ていた。