第四章


 ライアンに気づかれないようにハワードがエレナに伝えたメッセージは、明確に伝わるも、それ以上に恐怖を植えつけてしまった。
 その恐怖に縛り付けられ、エレナは溢れる不安から逃れたいために、ライアンに必死にしがみ付く。
 心地よさを感じたライアンの背中の温もりを追い求め、それに再び酔いしれて、自分を慰めて欲しい。
 いつ自分の居場所が見つかって、そして連れて行かれるかもしれない可能性が急激に高まってしまったこの現実に、打ちひしがれて、エレナは気弱になっていた。
 再び過去の辛い記憶が、エレナの心を捉えてしまい、エレナは記憶の中に埋もれてしまう。
 十歳だったエレナ。海を見渡せる丘の家に住んでいた。
 母親はエレナを産んで、すぐに亡くなったため、父親と二人暮らしだったが、科学者である父は研究の傍ら、自宅の半分が父の個人研究所にもなってたこともあり、エレナを側に置いては、できる限り可愛がって、何不自由ない暮らしをさせていた。
 エレナは物分りがよく、父親が忙しい時は、邪魔をしないように心がけ、家事手伝いもできる限り手伝っていた。
 また、父親の研究を見ながら、自分も科学者気取りになっては、勉強もよくする子だった。
 さほど遠くない場所に、エレナの父の知り合いの科学者も住んでいて、家族同然の付き合いがされていた。
 そこにはエレナより三、四歳くらい年上の、レイという男の子が居たが、エレナと同じように母親が居なかった。
 レイは大人しく、人と接することを避け、誰とも喋りたがらない心閉ざした少年だったが、エレナは全く気にせず、レイに無視されようが関係なく、積極的に接していた。
 自分が女だから話にくいかと思えば、髪を短く切って男の子のフリをしたり、しつこいぐらいにレイを遊びに誘っては、常に一緒に居る事を心がけていた。
 そのお蔭でエレナだけには心を開き、レイにも兄らしい自覚が芽生えて、まるで本当の兄妹のような関係になっていった。
 そして事の始まりは、二人が一緒に遊んでいるときに起った──。
 エレナの父親とレイの父親が何やら意見をぶつけるように激しく言い争いをしだしたかと思うと、レイは父親に無理に手を引かれて、去っていってしまった。
 何が起こったのか、幼かったエレナにはわかるわけもなく、ただエレナの父親は、レイの父親に対してかなり怒っていたことだけは見て取れた。
 エレナは心配して父親に抱きつき、理由を訊いたが、父親は優しく頭を撫ぜて『大丈夫だから』と慰めるだけで決して教えてくれなかった。
 その日以来、レイもレイの父親も再び会うことはなかった。
 それからだった、急に父親が慌しく、どこかへ出かけるようになったのは。
 父親が留守の時、もしかしたらこっそりレイが会いにきてくれるかもと期待をして、レイと遊んだ場所に出向いたり、レイを探したが、見つからなかった。
 一人になることが多く、さすがにエレナも、元気がなくなってしまった。
 そんな寂しく過ごしていた時、父親があのオルゴールをプレゼントしてくれたのだった。
 それを手にした時、自分を慰めるためにくれたものだと思ったが、プレゼントしてくれた父親の瞳が酷く寂しそうに遠くを見ていたのが不思議だった。
 蓋を開けて音楽が流れた時は、一層、悲しみが深くなり目を潤わせていた。
「お父さん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。このオルゴールの曲、エレナは好きかい?」
「初めて聴いたけど、うん、いい曲だと思う」
「そうか。これは『私を探して』っていう曲なんだ。エレナのお母さんが大好きだったんだ」
「私のお母さんが大好きだった曲? それなら、エレナももちろん大好き」
 ゆっくりとしたメロディ。
 母親が、深い森の奥で彷徨いながら、誰かを探しているイメージを抱いてエレナは聴いていた。
「お父さん、この曲誰が作った曲なの?」
「えっ? それは…… 誰だろうね。とにかく大切に持っていなさい」
「お父さん、ありがとう」 
 エレナは父親に抱きついて感謝の気持ちを表したが、その時も父親は悲哀に満ちていたように見えた。
 その顔はいつまでもエレナの脳裏に残っていた。
 後で、オルゴールの裏を見た時、『永遠の愛DとM』と掘られていたことに気がついた。
 Dはダニエルの頭文字で父の名前、そしてMはマリーの頭文字で母の名前を意味しているのだろうと子供ながらそう思った。
 どうやら父親が母親にプレゼントしたものだとエレナは推測した。
 だから母を思って、あんなに悲しかったんだとエレナは後に納得した。
 そしてそれを貰った次の日にあの事件は起った。
 父親が見知らぬ男達に拉致され、無理やり連れていかれてしまった。
 自分も危うくそうなりそうになったところを、必死で逃げたあの日。
 あれからもうすぐ十年。 
 ──何かが自分の周りで動き出している。
 ハワードの示唆した事は、避けられない事態が近づいていると知るのには充分だった。
 恐怖心がパニックを引き起こさせ、エレナはライアンを強く抱きしめた。
 ライアンの背中を抱きながら、必死に泣くまいとエレナは耐えていた。

 エレナのしがみ付き方は、どこかおかしい。
 ライアンは腰周りが締め付けられることに違和感を感じていた。
 スピードを確認すれば、制限速度を守っているし、道はスムーズで荒れてもいない。
 それでも慣れない事に落ちると恐れているのだろうか。
 それとも、晴れてはいるが、気温はまだまだ低く、走ればそれだけ風当たりが強くなるから、寒いのだろうか。
 エレナは時折体を震わせてはいるが、それがまるで泣いているように思えて、ライアンは心配していた。
 ──まさか、ハワードに厳しくされてショックを受けているのでは。
 エレナの事情を知らないライアンは、ハワードのせいと決め付けていた。
 施設の前に到着して、バイクを停止させても、暫くエレナはライアンに抱きついたままだった。
「おい、大丈夫か?」
「えっ?」
 エレナは我に返り辺りを見回した。
 とっくに着いていたことに驚き、慌ててバイクから降りた。
 後ろ向きにヘルメットを脱いでは自分の目元を拭っていた。
 そして呼吸を整え、ライアンと向き合い、笑顔を作った。
「ライアン、どうもありがとう」
「エレナもしかしたらハワードの事が気になってるのか。すまないな俺があんなところに連れてったばかりに嫌な思いをさせて」
「違うの。ハワードさんは何も悪くないわ。これから気をつけますからって伝えてくれない」
 ライアンはエレナがハワードをかばう気持ちがわからなかったが、ライアンの上司でもあるので気を遣ってくれてるんだろうと解釈した。
「それじゃ、俺はまだ仕事があるからこれで失礼するよ。でもなんか君が背中にいないと寒く感じるぜ。さっきはとっても暖かかったよ。じゃーな」
 エレナはずっとライアンが去っていく姿を見ていた。
 ただ無償に側にいて欲しいと思う自分がそこにいた。

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