第五章


 いつ連れて行かれるかもしれない恐怖と、脅かされて過ごさなければならない嫌気が常に共存する暮らしは、精神が崩壊してもおかしくはなかった。
 エレナはまだ芯の強さを備え、シスターパメラの優しさと、子供達の笑顔で、持ちこたえている。
 ハワードから知らされた危険は、感情のままに恐れが先に来てしまったが、一夜明けた今、少し落ち着きを取り戻した。
 ただ中々眠れなかったために、寝不足であり、体もすっきりとしないだるさを抱えているが、自分がここで朝を迎えたことにはほっとする気持ちがあった。
 ハワードはただ警告しただけであって、危ない場所に近寄るなと言っただけに等しい。
 しかし、なぜハワードは自分の事を知っていたのかが、この時になって不思議に思い出した。
 探偵だと言っていたが、ハワードはどうやって自分の情報を掴んだのか、エレナは引っかかった。
 考えてもわかる訳はないが、事件から10年のこの節目に、何かが起こるんじゃないかという予感がする。
 ハワード、そして謎の男、この二人が現れたことで、急激に動き出しているとエレナは実感していた。
 今、自分はどうするべきなのか、それを考えて、ふと時計を見れば、かなり時間が過ぎてしまっていたことに驚き、慌てて飛び起きた。
 この時、エレナがすべき事は、子供達の世話と、掃除、洗濯、その他、こまごましたことが沢山あった。
 責任感の強いエレナは、それらの仕事にとりかかった。

 この日、シスターパメラは、春休みで退屈している子供達を連れて、動物園へと出かけていった。
 エレナはそれには参加せず、掃除や洗濯に励むことにした。
 だが、洗剤が切れかけていることに気がつき、近所のスーパーに慌てて買いに行く。
 多少歩くが、近所には便利な大型スーパーがあり、いつも買い物はそこで済ましていた。
 買い物用のスーパーのロゴが入ったエコバッグを持って家を出て、少し歩いたところで、車が一台、自分を追い越していった。
 はっとすると共に、ハワードの警告が脳裏を掠める。
 用心しながら歩いてはいたが、ビクビクすれば思う壺だと思い、背筋を伸ばしてきびきび歩き出した。
 車が通る大通りに出てくると、スーパーがでんと構えているのが目に入る。
 大通りを渡り、そのスーパーに向かっていた。
 午前中は買い物する人が少ないのか、駐車場に停めてある車もまばらで人もあまり見かけなかった。
 建物に近いところだけ集中的に駐車しているだけで、全体的に駐車場はスカスカしていた。
 駐車場は広すぎて、スーパーに辿り着くまでが遠い。
 時折、側を車が通り、エレナはそれに注意しながら、駐車場を横切っていた。
 前方から、大柄な男がスーパーの紙袋を片手で掲げて、自分に向かってひょこひょこ歩いてくるのが目に入った。
 足も引きずってるが、その男の片手も怪我している様子で、包帯が乱雑にぐるぐると巻いてあった。
 エレナとすれ違ってまもなくして、ガシャっと何かが地面に叩きつけられた音が聞こえ、エレナは咄嗟に振り返った。
 先程の男の抱えてた荷物が手から落ちて、中身があちこちに散乱していた。
 缶詰がエレナの足元にも転がってきていた。
 男はあたふたして、一つ一つ拾っているが、足を引きずり、片手だけで拾うのは困難そうだった。
 エレナは足元の缶詰を拾い、すぐさま近寄った。
「大丈夫ですか」
 男を気遣いながら、拾うのを一緒に手伝った。
「ありがとうございます。助かります」
 男は恥ずかしそうにそして礼儀正しく丁寧にお礼を述べた。
 紙袋は破れていて、中身が零れ落ちそうに危うい状態で、片手を怪我している男に運べるだろうかとエレナは心配する。
「お一人で運べますか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
 エレナがなんとか持たせてやろうとしたが、案の定破れたところから缶詰が一つ零れ落ちた。
 男は恥かしく、苦笑いをしている。
「あの、すみません、申し訳ないんですが、私の車はあそこに停めてるのですが、運ぶのを手伝ってくれませんか」
「はい。いいですよ」
 お人よしなエレナは、人助けと思って笑顔で手伝った。
「本当にすみません」
 男は体がでかいのに、とても気弱にヘコヘコとしていた。
 男の車を見たとき、何か違和感を感じたが、トランクを開けたので、すぐさまエレナは紙袋をそこに入れた。
「すみませんが、もう少し荷物を奥に押し込んでくれませんか」
 エレナは少し体を屈めて荷物を奥に押してやった。
 その時だった。男がいきなり後ろからエレナの足を掬い上げて、トランクに押し込んだ。
 エレナが「キャッ」と叫んだときにはすでに、トランクは閉められ、辺りは真っ黒になっていた。
「いやー、開けて。誰か助けて」
 この車を見たときなぜ違和感を感じたか、家を出たとき横切っていった車と良く似ていたと今更ながら気がついた。
 一瞬だったから、よくある車だと思い、まさかそこですでにつけられていたとは思いもよらなかった。
 なんたる不覚だろう。
 男の姿を見れば、あの乱雑の包帯も偽装だとわかりそうなものなのに、まんまと引っかかってしまった。
 しかし、こんな卑怯な手を使って、わざわざ捕まえに来るのも、変な気がしたのも確かだった。
 あいつらだったら、自分の居場所がわかれば、直接家に入り込んででも無理やり捕まえに来る。
 または、人に見られる事も恐れずに、道端で無理やりにでも拉致して車に押し込めるだろう。
 こんな回りくどい捕まえ方はおかしい。
 誘拐されるのに、おかしい方法もなにもないが、捉まってトランクに詰め込まれた以上、ここから逃げなければならない。
 エレナは必死に叫んで、足で何度も蹴ったが、誰にも気がついてもらえず、車は動き出してしまった。
 その反動で転がり、体をぶつけてしまう。
 今ここでむやみに動き回って疲れるよりも、トランクが開いたときに逃げる体力を蓄えていた方がいい。
 ──落ち着け、落ち着け。
 恐ろしいほどの戦慄に震え慄くも、まだ逃げるチャンスはあると、エレナは負けなかった。
 手足がまだ自由に動かせる事で、一縷の望みに掛けた。
 真っ暗で窮屈な空間。
 どこに連れて行かれるのか全く予測不可能なこの事態に、エレナは必死で耐えていた。

 車はどこを走っているのだろうか。
 怖さと不安の中で、神経が休まらない時の時間の経過は長く感じてしまう。
 車が時々停車したが、それは信号待ちで、すぐさままた動き出すが、その度にエレナはトランクが開くかもしれないと緊張した。
 そして車が止まり、とうとうトランクが開いて、はっとするも、外の光が急に飛び込んで、エレナの目を直撃した。
 暗闇に慣れすぎて、突然の光に眩しく、エレナは不覚にも咄嗟に動けなかった。
 すぐさま、容赦なく男に足を捉まれ引き出されたかと思うと、乱暴に地面に落とされた。
 一瞬の事だった。
 手足は自由でも、体を打ちつけた鈍痛が暫く動きを封じ込めた。
 目が慣れたとき、辺りを見れば、角材や箱といったものが端に積んであり、暫く使われてない寂れた雰囲気がした。
 何かの倉庫、または廃墟にも思えた。
 逃げなければ。
 ただそれだけを思い、立ち上がろうとしたが、男に腕を捉まれ、引き上げられた。
 まるで自分が人形のように、簡単に体を持っていかれてしまう。
 必死にもがいても、男の力には叶わなかった。
「お嬢さん、大人しくしな。すぐ終わるから。ちょっと傷を付けさせてもらうだけだから」
 男はどこからか折りたたみナイフを取り出し、それをエレナに見せ付けた。
「あなた、あのときの連中の仲間なの。お父さんを連れて行ったあの時の……」
「はっ? 何言ってんだ。俺はただあんたを傷つけるように頼まれたの」
「傷つけるように頼まれた? 一体誰に?」
「もちろんあんたのことを嫌ってる人だろ。ビジネスだから、俺を恨むんじゃないぜ」
「私のことを嫌っている人って……」
 話がなんだか噛み合わない。
 しかし、そんな事を考えてる暇はなかった。
 なんとしてでも逃げなければ。
「とにかく離して」
 エレナはむやみに足で蹴り上げ、必死に抵抗していた。
「無駄な事はやめろ」
 男はナイフをエレナの頬にぴたりとくっ付けた。
 頬で感じた冷たさが、背筋をも寒くし、体が硬直した。
 そして弄ぶように、男はペタペタとそれで頬を叩いた。
「でも、あんた、なかなかかわいいよな。このまま傷をつけるだけじゃもったいないな。別に顔に傷を付けろと指示されたわけではないからな。傷物にするには色んな方法もあるからな」
 男のぎらついた目がいやらしくエレナを見ていた。
 エレナは顔を背け無我夢中で抵抗する。
 男の顔が近づき、エレナに迫ってくると、エレナは男の顔を引っ搔いた。
「くそっ」
 男は咄嗟にエレナの顔を思いっきり引っ叩き、その反動でエレナは地面に倒れ込んで尻餅をついてしまった。
 それでもすぐに立ち上がろうとするが、その前に男が覆いかぶさってしまった。
「生意気な女だけど、却って興奮させてくれるってもんだ」
「やめて、離して」
 恐怖もあるが、それよりもこの男が憎らしく腹が立って仕方がない。
 男の顔が自分に近づいてきたとき、エレナはあらん限りの軽蔑を込めて唾棄してやった。
「何すんだよ!」
 男に何度も頬を殴りつけられ、そして最後に胸倉をつかまれ、地面に叩きつけられた。
 背中に激痛が走り、弾みで頭も打ってしまい、気が遠くなっていく。
 意識が朦朧としたとき、男がいきなり「うっ」と鈍い声をあげ、横に転がった。
 そばにもう一人誰かが立っていたような気がしたとき、エレナは意識を失ってしまった。
 それはハワードに依頼を持ち込んだDと呼ばれる男だった。
「誰に頼まれた」
「痛ー、お前誰だ」
「いいから答えろ、誰にこんなことを頼まれた」
 容赦なく男の腹を蹴り上げる。
「痛い、痛いってば、そんなに蹴るなよ。やめてくれ」
「答えろ!」
 最後の一発が聞いたのか、エレナを誘拐してきた男は気絶してしまった。
「くそっ」
 気絶しているのもお構いなしに、さらにもう一発蹴った。
 地面に転がっていたナイフを手にし、それを男の車のタイヤめがけて差し込んでやった。
 それからエレナを大切に抱きかかえる。
「痛い思いをさせてすまなかった」
 Dはエレナの顔をじっと見つめていた。

 エレナが再び意識を取り戻したとき、いつもの光景が目に入り、そこが自分の部屋だと気がついた。
「ここは…… あれ、私確か誰かに連れて行かれて、そして…… 夢だったの。それにしても頭が痛い。あら、やだコブが出来てる」
 後頭部を触れば、こんもりとした膨らみがあった。
 やはり自分は誰かに襲われて、酷く痛めつけられた。
 しかし、誰かが助けて、ここまで運んでくれた。
 一体誰が。
 あまりにも不可解なことに、エレナは混乱していた。
 筋道を立てて考えようとしていたその時、一階から賑やかな声が聞こえ、急に騒がしくなった。
 エレナは頭の後ろをさすりながら、立ち上がり、そして一階へと降りていった。
 出かけていた子供達とシスターパメラが帰ってきた。
「おかえりなさい」
 エレナが声を掛けると、子供達はエレナの元に走り寄って、口々に楽しかったことを報告しだした。
「よかったわね」
 適当に相槌をうち、話を合わせるも、まだ頭の中は混乱していた。
 子供達のおしゃべりは中々終わらず、エレナは遮るように言った。
「ほらほら、皆、外から帰ったら手を洗わなくっちゃ」
 子供達は、エレナの言うことを素直に聞いて手を洗いに行った。
「留守中、何か変わったことなかった?」
 シスターパメラが訊いたが、エレナは、すぐに答えられない。
「エレナ、どうしたの? 何かあったの?」
「あっ、その、なんでもないです。ちょっとサボって、昼寝しちゃったから後ろめたくて」
 シスターパメラは笑っていた。 
「たまにはいいわよ。私達がいないときくらい、ゆっくりしなさい」
 シスターパメラこそゆっくりすべきだとエレナは思った。
 子供達がいるから、直接訊けないが、立ち退きの事もエレナの心の中で引っかかっていた。
 シスターパメラは、その事できっと心休まる事はないだろうし、そしてどうすべきか今必死に考えているのが、エレナにはわかっていた。
 また頭の後ろが痛み出し、無意識に触れてさすった。
 この日、起こったことはかなりの修羅場だったが、頭にコブができただけで、無事に帰ってこれた。
 『何も心配するな』
 あの男の言葉が、思い出される。
 自分は守られてる──。
 なぜだかそんな気がした。
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