第五章


 ライアンが事務所に戻るなり、ハワードが厳しい目つきで出迎えた。
「ライアン、お前今日どこに行ってた」
 いつもの事ながら、そこに責めが入ると、一層厄介ごとのように感じてしまう。
 それはどこか自分の父親と重なる部分があり、ライアンは反発したくなった。
「どこでもいいだろ。得意の推理で当ててみろよ」
 訊かれたくない事を言われると、ライアンは荒っぽくなるが、それにも増してイライラが募っている態度に、すでに取り返しのつかない状況に追い込まれているとハワードは推測した。
 ハワードの冷たい目やそっけない態度の下で働けるのはライアンくらいなものだが、それが鼻につくようになって反抗したときは要注意だった。
 ハワードには原因が良くわかっていた。
「ライアン、仕事に私情は挟むな」
 ハワードの言い方はきつい。
 しかしハワードなりの思いやりなのである。
「オレは仕事はきっちりとする。ただどうしても、この間のエレナに対するハワードの態度が気にくわねぇんだ。今度彼女に会ったら失礼な態度を取ったことを謝って欲しいだけさ。ハワードだって、あの子の側にいたらきっと謝りたくなるよ」
「お前、今日彼女に会ったな。私が電話した時、彼女の側に居た。だから電話に出なかった。ライアン、エレナに惚れても無駄だとこの間も言っただろ。カイルの存在を忘れるな。ましてや親友だろ」
 わかってることを何度も忠告されるほど嫌なものはない。
「今、そんなこと関係ねぇだろ。ハワードはオレの親父みたいでうるさいんだよ」
「いいかライアン。怒る気持ちもわからないではない。しかし人それぞれ事情があるからこそ、そういう行動に出るということも忘れるな。根本的な理由をまず考える癖をつけろ。感情に走るな」
 詳しいことを言えないハワードには、これがギリギリのアドバイスだった。
 それでも、感情に飲まれているライアンには聞く耳がもてない。
 厳しく、容赦ないハワードであるが、その分、世間を熟知した大人であることは充分承知している。
 ハワードの言う事は正論であるだけに、痛いところをつかれたライアンは、ただ吼える犬となっている自分自身にも腹立たしかった。
 ハワードはそれ以上、口をきくことはなかった。
 一人静かにデスクワークを始め、ライアンを突き放す。
 ライアンは行き場のない思いを抱え、改めて自分がどうしようもないガキであることを思い知らされた気分だった。
 事務所のソファーに寝転がり、今までの自分をぼんやりと振り返っていた。
 過去に何度か落ち込んだ事はあったとしても、ここまで自己嫌悪して、自分が嫌になった事はなかった。
 どれほど自分がいい加減に生きてきたか、そして世間を舐めてきた自分の愚かさが初めて恥ずかしいと思えてきた。
 それはエレナに会ってから、エレナに惚れてから、そしてエレナはカイルの彼女だと思えば思うほど悔しさはどんどん募る。
 ライアンは、親友であるカイルには常に一目おいていた。
 ライアンにとってカイルは親友でありながら雲の上の存在でもあった。
 カイルの友達でいられることが自分でも誇らしげで、自慢だった。
 それが今では全て苦しい。
 カイルが自分の親友であることが苦しみそのものであり、そうじゃなければ簡単にエレナを奪っていただろう。
 ライアンはハワードをちらりと見た。
 ハワードの助けなんて期待もできないが、嘘でもここで自分を慰める態度を少しでも見せてくれたら、まだ救われるのにとさえ思った。
 ハワードは視線に気がついて、やはり冷たい目でライアンをギロリと睨んだ。
 慌てて向きを変え、どうしようもなく深いため息を一つライアンはついた。
 エレナを思えば思うほど、どんどん苦しみが圧し掛かってくる。
 そんな思いを抱えている時に、ライアンの携帯が鳴った。
 ディスプレイを見れば非通知だったが、それがエレナからだと思い、心臓がドキドキしだした。
 ライアンはハワードに聞かれないように事務所の外に出て、嬉しそうな声で電話に受け答えした。
「もしもーし」
「ライアン……」
 その声を聞いた時、ライアンの顔は曇った。
「カイル、なんで非通知でかけてくんだよ」
「仕方ないだろ、病院で携帯が使えないんだよ。ところでお前さ、今日何してた?」
「何って、仕事だよ。今もハワードの事務所にいるよ」
「違うよ、その前だよ」
「何でそんなこと聞くんだ。別に何もしてねぇよ。外に出てたよ」
「誰と?」
 ライアンは言葉に詰まった。
 正直に言うべきか、それとも黙っておくべきか。後者を選んでしまった。
「誰でもいいだろ、お前には関係ねぇーよ。なんでそんなこと聞くんだよ」
「正直に言ったら僕が怒るとでも思ってるのか。気を遣ってるだけなのか、それともただ言えないような後ろめたい理由があるのか。今日エレナが見舞いに来たよ。ピラミッドの置物もって。お前もそこに居たんだってな」
 ライアンは思わず、まずいという顔つきになってしまった。
 カイルは知っていてわざとライアンを試すために電話を掛けてきた。
 しかし、そのやり方が許せない。
「知っているんだったら、最初からそう聞けよ。エレナが隠さず何もかも話してんだろ。だったら何もやましいことなんてないよ。俺だってお前に気を遣うことだってあるし、偶然に出会ったとはいえ、お前にはやはり心配かけたくないって思うじゃないか」
「じゃあ、やましいこともないのに、なんで正直に言わないんだよ。その方が不自然じゃないか」
「こうやって試すように聞く方がよっぽど不自然だよ」
 二人は暫く黙ってしまった。どっちもどっちだった。
「ライアン、お前は親友だ。お前が望むならなんだって力になりたい。でも頼む、エレナだけは取らないでくれ。お願いだ」
 悲願するカイルにライアンは打ちのめされ、罪悪感で一杯だった。
 ライアンの心にはエレナを思う気持ちがすでに強く根付いている。
 しかし、口からは違う言葉が出てきた。
「何言ってんだよ、お前らしくもねぇ。そんな馬鹿なこと俺がするわけねぇだろ。俺たち親友だろ」
「ああ」
 ライアンの心の中は複雑だった。
 馬鹿なことはしない──。
 そう口では言い切ったものの、感情はついていっていなかった。
 自分がどこまで感情を押し殺せるか、 自分自身信用できない。
 ただその場しのぎに、カイルに嘘をついたのと同じようなものだった。
 カイルもまた、ライアンから自分の聞きたい言葉を引き出せても、手放しで喜べない。
 どこまでもライアンを疑っていた。
 二人は暫く他愛もない会話をし、その後は静かに電話を切った。
 どちらも離れた場所で、友達としての関係にヒビが入った気持ちを抱いていた。
 ライアンもカイルもどうしようもない思いに苦しんでいた。

 日が暮れるとライアンは仕事を切り上げ、酒を求めて街へ繰り出した。
 ダウンタウンの外れ、『OPEN』と形どられたネオンの看板が壁に掛けられ、時折ジジジっと音をたてながら暗い夜道を彩るように点滅しているバーがある。
 ライアンはそこへ入っていく。
 店に一歩踏み込めば、タバコの煙でよどんだ空気が視界をにごらせ、危うさを備えた怪しさと共に、そこを訪れるものを暫し酔わして、現実から遠ざけるものがあった。
 常連を多く抱えたそのバーは、カウンターの奥にあらゆる種類の酒を供え、何を注文しても飲めるように、ボトルたちが魅惑に光って見せ付けている。
 まるで酒に溺れる輩を嘲笑いながら待っているようだった。
 店の中央には緑のプールテーブルが数台鮮やかに照明に照らされて浮き上がり、ボールがぶつかり合う音が控え目に聞こえてくる。
 ライアンはそこへ近寄り、仲間として加わった。
 そして、ここの常連客とビリヤードをプレイし始めた。
 気晴らしにと思ったが、頭の中は雑念だらけで、全然集中できずに玉をはずしまくってしまう。
 周りの者は調子の悪いライアンを見てくすくす笑っていた。
 ライアンはこのバーでは目立ち、調子のいい女がみれば放っておく訳がない存在だった。
 今日もそこそこの遊びなれた女がライアンに色目を使って近づこうとしていた。
 ライアンは全く興味を示さないで、その女の顔を見なかった。
 無視された女性は、プライドを傷付けられて怒って去っていった。
「ライアン、お前が女性のアプローチを蹴るなんて珍しいじゃないか。いつもなら誘いに乗ってすぐに女とお楽しみって奴が、今日なんか変だぞ」
「ちぇ、よしてくれよ気が散るじゃないか」
 ライアンはまた玉をはずしてしまった。
「あーあ、今日はダメだ。俺の負け」
 ライアンはゲームを放棄し、イライラしながら、カウンターの席に座った。
 離れた席から二人の女性客が、ライアンをチラチラみていたが、それも見て見ぬフリをした。
 今度はカウンターのバーテンダーがいつものドリンクをライアンの目の前に置き、不思議そうな顔をしていた。
「おや、今日は相手に乗らなくていいんですか」
 ライアンはグラスに入った酒をじっとみつめながら黙っていた。
 バーテンダーは肩をすくめて去って行き、周りの常連客と顔を合わせて首を傾げていた。
 またその態度がライアンを自棄酒に導く。
「なにがエレナを取らないでくれだ。誰が見てもカイルの方がお似合いだろうが」
 誠実、真面目、地位、金、そして何よりも控えめで鼻にかけない態度。
 そんな男がこの世に何人いると思うんだとライアンは怒鳴りたくなった。
 自分といえば、女にもてることがステイタス、顔もハンサムと自覚し、何をやってもかっこいいとうぬぼれ、うわべだけの中身は空っぽ。
 なんて情けない男だと泣きたくなった。
 目の前のドリンクを一気に飲み干した。
 自分が女性に本気になってしまった事など今まで一度もない。
 しかもそれが親友の彼女だから、酒で紛らわすしかなかった。
 そんな思いで飲む酒はまずくて仕方がない。
 いくら酒で紛らわそうとしても心は嘘をつけないのもわかっていたが、それでも飲まないではいられなかった。
 一人で煽る酒は一層自分が惨めになり、それもまた自分に相応しいと思っていた。
 空のグラスをバーテンダーにみせ、次のを催促する。
「なんだか荒れてるね」
 バーテンダーがボトルを持ってきて、空のグラスに直接酒を注いだ。
「まあな」
 ライアンがグラスを口にしようとした時、ふとカウンターに飾ってあった卓上カレンダーに目が行った。
 日付に記憶を突かれて、はっとした。
「もう少しで忘れるところだった。来週か。あれから十年経ったのか」
 自棄酒が、急にしみじみしだして、ライアンは静かに酒を喉に流し入れていた。
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