第六章
3
山の上は気温が低く、冷たい風がよく吹いていた。
爽やかな空気に包まれ、二人は肩を並べ、暫く美しい景色を眺めていた。
「俺、ここへはいつも一人で来るんだ。高い所が好きなのかもしれない。上から景色を眺めるとこの街の中で生活している自分が、いかにちっぽけかって思い知
らされるぜ。この町には色んな悩みを抱えてる奴等がいるだろうし、皆その悩みで自分がいつも中心だって思っているんだ。だから解決できるものも中々解決で
きない。そんなとき高いところから見下ろすといかにその悩みがちっぽけなものかって気づくのにさ、そこに入り込んでいるままだと気づけないんだよな」
ライアンの言葉が胸に響く。
自分も十年間殻に閉じこもるような気持ちでいた。
今も危険が迫っていると聞いて脅えてばかりいる。
ライアンに言われ、それに気づかされては、気持ちが奮い起こされた。
──誰も教えてくれない事は自分で探さなきゃだめだ。
悲しんでばかりいられない。
そんな気持ちになれたのも、ライアンが居たからかもしれない。
「ライアン、ここへ連れてきてくれてありがとう」
「いいってことさ」
声にハリが戻り、笑顔が戻ったエレナにライアンは優しく微笑んだ。
「ライアン、聞いて。私ずっと自分が悲劇のヒロインだと思ってたかもしれない。でもあなたがここへ連れてきてくれたお陰で勇気が出てきたわ。私負けないで戦ってみようと思うわ」
「そっかやっぱり何か悩みがあったのか。それでハワードに依頼をしにきたんだね。俺が奴は凄腕の探偵だからって言ったもんだから」
「ええ、そうかもしれない。でももう誰にも頼らないわ。自分で解決してみようと思う」
エレナは立ち向かう決心をした。
ライアンはエレナが抱えてる問題の大きさを知る余地はなかったが、協力してやりたいと本気で思った。
「どんな悩みか知らないけど、俺も手伝ってやる。ハワードほどじゃないけど少しは役に立つこともあるだろう」
ライアンがそう言ってくれるだけで心強く、エレナは素直に嬉しかった。
でもライアンに頼る事はしないが、少し調子に乗ってみたくなった。
「それじゃ依頼料はおいくらかしら」
「そうだな。高くつくところだけど、おお負けに負けて君の唇でいいや」
そういうといきなりエレナの腰に手を回して、抱え込むように自分の元に引き込んだ。
エレナは一瞬の事に固まり、目だけは見開いて驚いている。
抱きかかえられ引き寄せられると、ライアンの顔はすぐ間近にきてしまい、顔が熱く赤くなった。
同時に心臓が激しくドキドキとして、息が止まるくらいに、それはエレナにとって衝撃的だった。
「ラ、ライアン」
名前を呼んだ絞りだした声は、消えかかりそうに震えていた。
調子に乗って、このまま本当にキスしてしまいたかったが、エレナの怯えと驚きが、ライアンを我に返らした。
「ご、ごめん。冗談のつもりだったんだ」
さっと手を離し、エレナを解放する。
エレナは戸惑い、どう対応していいのかわからず、声を失ったままだった。
まだ胸がドキドキとして、それが自分でも心地いいのか悪いのか判断しかねていた。
エレナはこの状況をどう捉えていいのかわからず、自分なりに処理をしようと筋道を必死に立てていた。
ライアンの言葉やしぐさ、その度に惑わされてしまう事は、ライアンが女性にもてるのが頷ける。
それはライアンの得意な分野であり、誰にでも同じ事をしてしまい、自分だけではないんだと言い聞かせた。
自分も結局はライアンのペースに嵌まっていただけだと思うと、エレナはクスクスと笑い出した。
それはライアンに向けて笑っていたのではなく、状況に陥りそうになっていた自分に対して笑っていた。
「ライアン、やっぱりあなたって手が早いわ。でもあなたが女性にモテる理由がよくわかった。私もあなたのペースにはまってしまいそうだもの。だからあまりからかわないでね。あなたを好きになってしまったら大変だから」
ライアンにとってこれは日常茶飯事。
女性の扱い方に慣れてるからつい乗せられただけ。
エレナはそう思い込もうとした。
本当はこれ以上ライアンに心を奪われていくのが怖かっただけかもしれない。
エレナ自身、どこかで分けて考えないと、感情に支配されて周りが見えなくなってしまうことを恐れていた。
例えそれが恋という感情であっても、今余計な思いを取り込みたくないと本能が防御していた。
そのエレナの考え方はライアンを悲しくさせた。
ライアンはなんとか伝わって欲しいと真顔になった。
「好きになってくれていいんだぜ」
それはライアンの本心だったが、この状況では冗談の延長にしか捉えられなかった。
「ほら、ライアン、それがからかってるんだって。そう言うことは本当に好きな人に言うものよ」
女性にモテるライアンだから、誰もがきっと好きにならずにはいられない。
そしてそういう人を好きになっちゃいけない。
誰にでもやさしいだけ。
エレナが頑なにライアンに惹かれるのを恐れる裏で、ライアンは完全に拒否をされ、自分のプレイボーイという肩書きを呪った。
エレナに本気で惚れても、肝心なところでしっぺ返しがきてしまった。
そう思われても仕方がない事をしていた自分を初めて悔やんだ。
ライアンの体が硬直して、自分に苛立ちを覚え震えている。
ライアンの方こそ、エレナに夢中になっている。
ライアンにとってこんなにも本気で女性を好きになるのは、初めてのことだった。
エレナを寂しげに見つめたあと、視線をそらしてまた景色を見下ろした。
広大な景色を見ても、自分のこの思いはちっぽけではなかった。
この景色を飲み込んでしまうほどさらに大きく、そしてその色はどんどんあせて、最後は白黒となって、ライアンの目に映っていく。
急に静かになったライアンの横顔をエレナは不思議そうに見つめた。
そしてうっすらとした引っ掻き傷を見て、思い出したように話しかけた。
「あっ、ライアン。今気が付いたけどアライグマに引っ掻かれた傷すっかり目立たなくなったね。これでまた女性に沢山モテるよ」
「……ああ、そうだな」
遠い目になりながら、精一杯無理をして答えたが、それはとても虚しくライアンを落ち込ませていった。