第六章
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エレナがライアンに連れられて行った後、間もなくして今度はカイルの車が施設の前に止まった。
カイルがにこやかに車から降りてドアに向かって来る。
窓から一部始終を見ていた子供達は、何が起こっているのかわからないままきょとんとしていた。
「おい、今度はカイルが来たぜ」
「一体どうなってるんだ」
カイルが窓から覗いている子供達の姿に気が付いて手を振るが、子供達はそれに反応せずに慌てていた。
異変に気づくと、振っていたカイルの手が中途半端に止まった。
その時、サムがドアを勢い良く開けてカイルに駆け寄ってきた。
他の子供達は玄関先で、その様子を心配そうに見守っている。
「どうしたんだい、サム。皆の様子もおかしいけど、何かあったのかい」
「エレナが、エレナが」
「エレナがどうしたんだい」
「エレナがさっき赤いバイクに乗った男の人に連れていかれた」
「えっ」
赤いバイクと聞いて、カイルの頭に真っ先に浮かんだのはライアンだった。
胸騒ぎを覚え、カイルは顔を強張らせた。
「どっちへ行ったんだ」
一斉に子ども達は同じ方角を指さした。
カイルは車に飛び乗り、子供達が指した方向を一目散に走らせた。
嫌な予感を感じると同時に、恐ろしいほどの怒りが湧き起った。
──なぜライアンがここに来てエレナを連れて行くんだ。
事故を起こしてから、安全運転を心がけるつもりだったが、それすら忘れ、押し寄せる不安で、感情任せに車を飛ばしていた。
荒っぽく田舎道をまっすぐに走ったその先で、見たくないものをカイルは見てしまった。
だたっ広い草原の中、赤いバイクの側でライアンがエレナを抱きしめている姿だった。
「嘘だろ」
カイルは我を忘れてしまった。
荒れ狂って近づいてくる車、それが近くで砂埃を立たせて止まったとき、ライアンははっとした。
その車から、カイルが勢いよく降りて、ドアも閉めずにライアンめがけて走ってくる。
「カイル……」
目の前に突然現れたカイルが、自分の恐れから現れた妄想のように思えて、ライアンはすぐに現実に起こってることだと思えない。
カイルが恐ろしい形相で近づき、エレナを抱きしめていたライアンの腕を引きちぎるように離し、ライアンを力ずくに引っ張った。
「ライアン!」
憎しみをこめた声で自分の名前が呼ばれると同時に、ライアンは頬に痛みを感じて草むらに倒れこんだ。
その時、エレナの悲鳴が上がった。
それは一瞬の事なのに、ライアンの目には全てがスローモーションのように動いていた。
目の前には怒りに我を忘れたカイルが、親友だという事も忘れてライアンを睥睨していた。
その怒りは収まることを知らずに、カイルはライアンの胸ぐらを掴んで引き上げ、再び殴りつけた。
全く抵抗することのないライアンは、力なくぐったりとして首をうな垂れている。
「やめて、カイル!」
エレナが必死に止めに入り、カイルを後ろから抱え込むように抱きついた。
カイルはそこで自分の怒りを一旦抑え、掴んでいたライアンの胸ぐらを放り投げるように離した。
ライアンは草むらに尻餅をついた形で座り込み、目を伏せていた。
口元に違和感を感じ拭えば、ぬるっとした感触がして、手の甲に赤い線が描かれた。
顔を上げれば、カイルが激しい憎悪を抱いて見下ろしている。
ライアンは怒られた子供のように怯えて、じっとしていた。
「お前、何しているんだよ。言っただろ、エレナには手を出すなって!」
荒ぶったきつい口調は、本当にカイルの声なのかと疑うほど、それは凄みがきいていた。
今まで激怒したカイルの姿をライアンは見た事がなかった。
常に冷静で、達観して物事を見られる男が、自分の目の前で憤怒する姿は恐ろしかった。
「すまない……」
消えかかりそうなほどの弱々しいライアンの声だが、それでも本人には精一杯だった。
「何がすまないだ。お前はいつも女には不自由しないじゃないか。それなのになぜエレナに手を出すんだ」
苦しいといわんばかりに目を閉じて、ライアンは奥歯をかみ締めた。
覚悟をしたとき、目を見開いてカイルを見つめた。
「カイル、俺、本気なんだよ。エレナの事が好きなんだよ」
声にならない、詰まった息をカイルは洩らした。
体に力が入り、再びライアンを殴りそうになった時、エレナがそれに反応して、強くカイルの背中を抱きしめた。
エレナの抱きしめる力で、出そうになった拳を握り締め、カイルもまた歯を食いしばり、怒りに耐えていた。
恐れていたとはいえ、この衝撃は想像以上に激しいショックをカイルに与えていた。
自分の親友が自分の惚れてる女を好きになってしまった。
ライアンが女好きで手が早いことを知っていたにも係わらず、その原因を作ったのも自分であり、悔やまれで仕方ない。
ライアンばかりが責められる訳でもないと頭でわかっていても、カイルはライアンが許せず、怒りは一向に静まらなかった。
「お前とは友達でいられない。いや、お前なんかもう見たくもない。エレナにも二度と近づくな。僕達の前から消えろ!」
カイルの言葉にライアンは首をうな垂れた。
カイルの興奮した荒い息が、背中を通じてエレナに伝わる。
エレナは必死にカイルの背中を抱きしめ、カイルを落ち着かそうとしていた。
カイルはライアンを見捨て、エレナの手を取って引っ張っていく。
「行こうエレナ」
「でも……」
草むらに座り込んで動かないライアンをエレナは心配している。
「そんな奴は放っておくんだ。さあ、来るんだ」
普段優しいカイルが、我を忘れて無理やり引っ張っていく、その強引なやり方にエレナは戸惑ってしまう。
力なく首をうな垂れて沈み込んでいるライアンを置き去りに、カイルに従わざるを得ないこの状況をどうする事もできず、何度もライアンを振り返っては、カイルに引っ張られていくというのを繰り返してた。
助手席のドアを開けられた時、エレナはもうライアンに振り返らなかった。
全てを諦め、カイルに従い、車に乗り込んだ。
視界を遮断するように目を伏せ、そのままじっとする。
カイルも何も言わずに、車に乗り込んで、すぐさまエンジンをかけた。
ライアンはエレナを乗せて去っていく車を、恨めしそうに目で追いかけていた。
それが見えなくなってもその先をじっと見つめて動かなかった。
カイルがここまで取り乱した姿は、エレナも見た事がなかった。
気難しい顔をして車を走らせているカイルが別人のように思えたくらいだった。
お互い言葉なく黙り込み、狭い空間ではとても気まずくて仕方がない。
そして車が施設の前で停まった時は、もっと落ち着かなくなった。
シートベルトを外したものの、二人は、暫く車の中にいたまま、じっとしていた。
いつもなら、エレナが感情任せに我を忘れることが多く、その度にカイルがそれを宥めてその場を取り持っていたが、今は気持ちをまだ切り替えられずにカイルの方が苦しんでいる。
ならばエレナがこの場を沈めなければならないと思ってしまった。
二人の仲を元通りにするにはどうしたらいいのか。
エレナは考える。
「カイル、あのね……」
しかし、それは容易なことではないと言葉を発してから気がついた。
ライアンは自分が係わってる問題の大きさを知って心配のあまり、事が大きくなっただけだといいたくても、何も知らないカイルにこの状況を説明できるわけがなかった。
プレイボーイのライアンが自分にちょっかい出してカイルが過度に心配しているだけにすぎないと思いつつも、あれだけカイルが派手に殴った後では、言い辛かった。
エレナは言葉に詰まってしまった。
その時、カイルは押し込めていた感情を爆発させるかのように叫んだ。
「ライアンに君を取られるのは嫌だ。僕の方がずっと昔から君の事が好きだったんだ!」
エレナは息を呑んだ。
突然のぶつけるようなカイルの告白はエレナの気を動転させた。
カイルは再び我を忘れている。
吐き出した思いと共に、カイルは本能のままにエレナに向き合い、そしてエレナを引き寄せ、乱暴にキスをしようと顔を近づけた。
カイルらしからぬその態度に怖くなり、エレナは咄嗟にカイルを跳ね除け、慌てて車から降りては家の中に駆け込んだ。
ライアンとカイル。
二人に思いをぶつけられ、エレナは何を考えていいのかわからず、ただ逃げることしかできなかった。
階段を駆け上り、自分の部屋へ飛び込むと、ドアをバタンと荒っぽく閉めた。
そのドアの後ろでエレナは立ちすくみ、胸の鼓動を激しく打ちながら、呼吸を乱していた。
上手く息が吸えず、それはとても苦しく胸が痛い。
慌てて戻ってきたエレナの様子に、子供達が階段の下から覗き込み、落ち着かなく心配していた。
誰もが、どうしていいのかわからずに、顔を見合わせている時、カイルがうな垂れて家に入って来た。
「カイル、一体何があったの?」
訳が知りたいと子供達はカイルに群がるが、カイルはどんよりとした目を子供達に向け、なんでもないと首を横に振った。
「エレナは自分の部屋かい?」
階段の上をカイルは寂しげに見つめた。
「そうだけど、カイルもなんか変。大丈夫?」
カイルはただ気弱な笑みを向けて、その子供の頭を撫ぜると、無言で階段を上っていった。
その足取りは子供の目から見ても重く見えていた。
「エレナ、開けてくれないか」
エレナの部屋の前に立ち、カイルはドアをノックした。
「カイル、ごめんなさい。一人にしておいて」
「エレナ、頼む開けてくれ。さっきの事は謝る。僕が悪かった。もう二度とあんな事はしないから、許して欲しい」
エレナはまだ気持ちの整理がつかないでいた。
カイルと面と向かうのがとても辛い。
「エレナ、頼む、ここを開けてくれ。大事な話があるんだ。それをエレナに聞いてもらうまで、僕はここを動かない」
「カイル……」
悲痛なカイルの声がドア越しから聞こえるのもエレナには苦しかった。
エレナはドアを開け、カイルと向き合った。
カイルは意気消沈し、その表情から自分のしたことを恥じ、悔やんでいた。
エレナは自分のベッドに腰を掛けて、カイルが部屋に入ってくるのを許した。
カイルは一歩だけ部屋に足を踏み入れ、エレナと一定の距離を保っていた。
そしてドアを開けたままにして、エレナの不安を少しでも和らげようとしていた。
「エレナ。こんな形で君に気持ちを伝えてしまってすまない。でも僕は昔から君の事が好きだったんだ。今の仕事が片付いたらちゃんと気持ちを伝えるつもり
だった。でも今日、君とライアンが一緒にいるのを見て我を忘れてしまった。君の前で暴力をふるってしまってすまなかった。だけどどうしてもライアンが許せ
なかったんだ」
エレナは言葉を失ったまま俯いて、耳だけはカイルに向けていた。
カイルという人物はエレナはよく知っている。
この施設に来てからカイルは気が付けば側にいて、常に力になってくれていた。
もちろん大切な人であるし、大好きな人でもあるが、カイルから告白されてどのように答えたらいいのかわからない。
そこにライアンを絡められると、とても複雑に思いが交差する。
ライアンも出会ってから、いつも気になってはドキドキとしていた日々。
二人からの突然のアプローチとそれを巡っての仲たがい。
あまりにも状況が悪すぎて、エレナは完全に迷い込んでいた。
「カイル、私、何をどう考えていいのかわからないの」
エレナもまた正直な気持ちをポツリとこぼした。
それを見て、カイルは今まで言いたかった事を吐き出した。
「エレナ、もう一つ君に伝えたい事があるんだ。僕は、実はこの施設出身なんだ」
俯いていたエレナの顔がはっとして、カイルに向いた。
穏やかにカイルは微笑み、やっと言えたことに安堵して静かに息を吐いていた。
金持ちの一人息子だと思っていたエレナには、その話は衝撃的で、思わずカイルを見つめては、驚きを隠せない。
カイルはエレナのその驚きに笑みを見せた。
伝えたいことを言ったカイルの表情は和らぎ、満足した気持ちから、やっといつものカイルらしい姿が現れていた。
「僕は赤ん坊のとき、この施設に置いていかれた。本当の親の顔を知らないんだ。そして六才までシスターパメラに育ててもらい、その後今の両親に引き取られたんだけど、この事実を引き取ってくれた母が、知られるのを拒んで誰にも言えなかったんだ」
カイルが渾身的に子供達の世話をするのも、カイル自身が子供達の気持ちを理解できるからだった。
カイルが庶民的で、金持ちらしくないのも、金や地位があっても、おごり高ぶってないその性格も、カイルはここでの生活を忘れず、自分らしさを失わずにいたからだった。
これまでのカイルの努力が目に見えるようだった。
そのカイルがこの日ライアンを殴り、そして乱暴に自分に迫ってきたことで、それらが無茶であっても、その裏を返せばどれほど自分を好きでいてくれているか、エレナはそれを知って胸が苦しくなった。
「本当はもっと早くに伝えたかったんだ。ほら、僕って自分の思ったことを中々言えない性格だろ。言い出すチャンスがなくってね。まさかこんな形で君に伝えるとは思わなかったよ」
この時、反省もこめて、自虐していた。
カイルは自分の事よりも、人の事を先に労わるのも、エレナはよく知っている。
自分の気持ちを一生懸命伝えているカイルの姿は、エレナにはいたたまれなかった。
しかしライアンに会ってからというもの、心の中にライアンが入り込んでいたのも事実だった。
好きにならないようにと自分で抑制したところで、本当はいつも気になって仕方なかった存在だった。
自分がライアンに惹かれていると認めるのが怖かった。
二人からの告白は、エレナを苦しめる。
そして自分のせいで、親友同士のカイルとライアンの仲が壊れてしまった。
その事実も圧し掛かって、エレナはカイルに掛ける言葉がみつからなかった。
エレナが言葉を失い、悩んでいる姿を見つめ、カイルはそこにライアンの影を見ていた。
「君をライアンに会わせなければよかった」
ライアンの名前を口にしたとき、再びカイルは腹立たしかった。
しかし、それを振り払い、カイルはベッドに座っているエレナの目線までしゃがんだ。
「エレナ、君を苦しめたくはない。でも僕は君を愛しているんだ。ずっと前から君のことを」
エレナは明確な答え方ができない。
体を強張らせ、震えていた。
カイルの気持ちを知らずに、いつも甘えていた自分に腹が立っていた。
「カイル、ごめんなさい、私、あなたの気持ちになんて答えていいかわからないの。お願い、今は一人にして欲しいの」
カイルは静かに立ちあがり、エレナの言う通りにする。
ドア口に立って、もう一度エレナを振り返った。
エレナは力なく沈み込み、うな垂れてカイルを見ようともしなかった。
──僕は一体何をしてしまったんだろう。
カイルも身を切られるほど辛くてたまらず、静かにドアを閉めて溜息をこぼした。
階段の下では子供達が心配して様子を見ていたが、カイルが降りてきたので誤魔化そうと、慌てて皆思い思いの方向へと去っていった。
沈み込んでいるカイルに誰も声を掛けられないまま、家の中は静けさに包まれた。
その静寂さの中で、時折、カイルが踏んだ床の軋みが、ギシギシと寂しげに音を立てていた。
丁度その時、外から戻ったシスターパメラが、ドアを開け入ってきた。
「あら、カイルじゃない。こんな時間に珍しいわね。何かあったの? 元気がないようだけど」
「いえ、何でもありません」
「あら、そう……」
奥で様子を伺ってる子供達の姿も目に入り、シスターパメラは首を傾げていた。
「それじゃ、また来ます」
「えっ、もう帰るの?」
シスターパメラが呼び止めようとしても、振り向きもせず、カイルは覇気なくドアから出て行った。
シスターパメラは子供達に何が起こったか訊いたが、子供達も横に首を振るだけで答えられなかった。
「エレナはどうしたの?」
「自分の部屋にいるよ。でもエレナもなんかおかしいんだ」
シスターパメラは様子を見に行こうとしたが、すでに大人になっているエレナとカイルの問題だとして、見てみぬフリをする事にした。
自分が間に入っても、きっと解決できない問題だと、なんとなく感じていた。
どちらもこの施設で育った子供達だからこそ、ここは母親としてそっと見守る姿勢を貫いた。
「さあ、みんな宿題は済ませたの? まだでしょ。さっさとすませなさい」
「はーい」
子供達はシスターパメラの言う事は素直に聞いていた。
愛情をたっぷり注がれて、子供達は育っている。
エレナもカイルもここでそのように育ち大人になった。
シスターパメラは神に祈りを捧げるように、二人の事を案じていた。