第七章
1
「あーあ、やっちまった」
大きく溜息を吐き、ライアンは草原で尻餅をついたまま、空を仰いだ。
ジンジンとした熱い頬の疼きと、切れた口元のしみる痛みは、今まで喧嘩した中で一番堪えた怪我だった。
恐々と左の頬に触れれば、腫れ上がっているのが感じられる。
口の中も血の味がしていた。
そして何より、一番痛かったのは自分の心だった。
それでも本能のままエレナを抱きしめた事は、後悔していない。
寧ろそれを望み、誰にも渡したくないほどに自分のものにしたかった。
親友のカイルを裏切っても構わないほどに、あの時は本気で奪ってやりたいと思ったくらいだった。
だが、まさかあそこでカイルが現れるとは予測できず、こんなにも早く勝負がつくのが残念でならない。
我を忘れていたカイルの本気の一撃は、中学時代に初めて出会った時の事を思い出させた。
「あいつやっぱり強いんじゃないか。紳士ぶりやがって」
カイルは見かけはひ弱かもしれない。
しかし、常に努力し、計画立てて何でも成し遂げる、信念の強い男だ。
自分を表に出すのが苦手なだけで、きっかけがあればなりふり構わずに力を出し切る。
ライアンはそれに圧倒された。
気迫が自分とは全く違い、あの時、カイルの事が怖いと思ってしまった。
「くそっ!」
ライアンは叫んだ。
腹の底から声を絞り上げて、空に向かって悪態をついた。
またそれもすぐに虚しくなり、顔を歪ませ、この上なく己を憎んだ。
これで本当に何もかも失ってしまった。
空っぽになってしまった自分の体を起こし、ライアンは立ち上がる。
自分の赤いバイクだけが、ライアンを待っていた。
ヘルメットを手に取り、それを装着し、そしてバイクを跨いだ。
間もなくして、エンジン音が轟き、体に振動が伝わる。
やるせない思いを刺激されたかのように、再び悔しさが体に溜まっていった。
ライアンはそれを吐き出すようにバイクを走らせる。
風は強く体に当たり、全てを吹き飛ばそうと疾走しても、喪失感は紛らわせなかった。
それを埋めるには、どうしてもエレナの事件の真相が知りたくなる。
エレナの抱えた問題は、カイルはまだ知らないはずだと睨んでいた。
それを知ることで優越感を得るとでも言うように、ライアンはエレナの事件の真相に拘った。
エレナが初めて事務所に現れたとき、ハワードの態度がおかしかったのも、ハワードは予めエレナの事件に係わる仕事をしていたと、この時になって気がついた。
エレナがハワードにきつい言葉を投げかけられたときも、それはエレナだけが理解できるメッセージだった。
ハワードは何かを掴んでるからこそ、エレナがそれを知りたくてハワードを訪れた。
しかし、ハワードはそれをエレナに教えなかった。
だからエレナは自分で戦うと立ち向かう姿勢になった。
この時になって、辻褄が合うとライアンは納得した。
「だったらなんとしてでもエレナの問題をハワードから問い質さなければ」
ライアンは事務所へ向かった。
ドアを勢い良く開け、事務所に足を踏み入れたとたん、一目散にデスクについているハワードの前に突進した。
勢いあまって、持っていたバイクのヘルメットを、強くハワードの机に叩きつけるように置く。
「バン」という机を叩いた音が静かな部屋で、試合開始のゴングのように響いた。
ハワードは心乱さず、いつもの調子でギロリとライアンを睨み、何も言わない。
ライアンが殴られて、顔が腫れているのを見ても、心配すらも何もなかった。
「ハワード、頼む、教えてくれ。エレナは一体どんな事に巻き込まれているんだ」
必死の態度ながら、瞳は情けをかけて欲しいとすがりつき、頼れる者がハワードしかいないだけに、自分の味方でいてほしいと懇願する。
ハワードは腫れてるライアンの頬、切れて乾いた血がついてる口元を見てから、椅子の背もたれに体をゆっくりもたせ掛けた。
「ライアン、お前、誰かに殴られたんじゃないのか。推測からすると相手はカイルだろう。どうせお前の事だ、カイルが側にいるのも知らずに自分の気持ちを伝えてしまったんだろう。エレナを助けたい一心で、自分の気持ちの方が先走ってしまった結果だな」
そんな分析など聞きたくないと、ライアンの悔しい気持ちが再び腹にたまり、体に力が入って反発しそうになる。
それを奥歯でかみ締めて耐え、体を震わせていた。
鋭いハワードの読みは、まるで光景を見ていたように思わされた。
益々羞恥心が湧き起り、ライアンは自分が裸でハワードの前に立ってるような気分になって情けなかった。
何も言えず、熱く腫れている頬の痛みが思い出されたように、ジンジンと鈍く疼いていた。
「いいかライアン、私にも手に負えない事件なんだ。だからできるだけこの事については関与したくない。エレナの力になってやりたい気持ちもわかるが、その陰にカイルに負けたくない気持ちもあるんだろう」
やはりハワードにはお見通しだった。
カイルよりも、少しでも有利に立ちたいと思う自分の浅はかさを、見破られている。
「俺は、ただ、エレナの助けになりたいだけだ。エレナを救ってやりたいんだ」
もちろんそれも本当の事であるが、カイルに負けてしまった後、自分を奮い起こせ、立ち直るためにも必要な条件だった。
「ライアンがこの事件を知った事で、何も変わる事はない。寧ろ知れば事態は悪化する。お前はもうエレナの事を考えるな。すでにカイルとの勝負で負けているんだろ。ここはすっぱりと諦めろ。それがエレナのためでもあるんだぞ」
「ハワード、俺、本気なんだ。こんなにも女に惚れた事一度もなかった。頼む、俺に協力してくれ」
「何を協力しろと言うんだ。エレナの関与している事件を解決することなのか? それとも、エレナとの仲を取り持つことなのか? 私に何を望んでいるというんだ。私が口を挟んだとて、何も変わらない。それに私がそんな事をすると思うのか?」
「ハワードは俺の友達じゃないのかよ」
「もちろん、ライアンは私にとって、数少ないうちの大切な友達だ」
「だったら、俺の味方をしてくれてもいいじゃないか」
「ライアン、私はいつでもライアンの味方さ。だが、嘘をついてまで、お前を慰める事はできない。お前は私からそれを求めているのなら、間違った考え方だ。もっと現実に目を向けろ」
ハワードは、机の端に積み重ねていた雑誌を一冊手に取り、それをライアンの前に投げた。
「その雑誌の特集ページを見るがいい」
ライアンは言われるまま、パラパラと雑誌を捲り、そのページを探し当てた直後、そこにカイルの写真とプロフィールを見つけ目を見開いた。
学歴、仕事、推定年収どれをとっても申し分ないものだった。
そして何よりもカイルの性格の事を知っている。
ライアンはもう一度カイルに打ちのめされた気分だった。
「わかったか。カイルがこんな雑誌に載っていたらエレナもカイルを選ぶだろうよ」
ライアンは再び自分が空っぽの人間だと思わされた。
どんなにあがいても、今の自分はカイルの足元にも及ばない。
ライアンは立ってるだけでやっとだといわんばかりに、体を小刻みに震わせていた。
ハワードの目にもライアンが相当ショックを受けているのが良く見える。
「お前が女に惚れ込むことは珍しいが、エレナの事は諦めるんだな。そしてそっとしておいてやれ。事件の事も忘れろ。波風立てない事が一番の解決策だ」
血の気の多いライアンを守るには、完全に打ちのめすことしか方法がなかった。
真相を知ってしまえば、必ずライアンは危険なことに首を突っ込む。
それを未然に防ぐには、ライアンの気力を削り、エレナから遠ざけるしかない。
カイルに敵わないことを知らしめ、完全に諦めさせなければ、ライアンはいつまでもエレナの事件の事を探ろうとしたに違いない。
ハワードが好んで意地悪している訳ではなく、これもまたライアンの事を心配するがあまり、対処した方法だった。
ライアンの抱いた悔しさを目の当たりに見て、ハワードもまたやるせなくなる。
好きな人を手に入れられない思いは、ハワードにもかつて自分が経験した思いと重ね、ライアンに同情するくらいだった。
ハワードは敢えてそんな事を誰にも言わず、また一貫して冷血漢の仮面を脱ぐ事もなく徹底してるだけに、恋に苦しむ男の気持ちなど理解できないと思われがちだが、本当のところは痛いほどライアンの気持ちを理解していた。
ライアンは必ず立ち直ると信じて、ハワードは厳しさを和らげる事はなかった。
「さあ、これでわかっただろ。いつまでも私の前で惨めな気持ちを見せ付けても無駄だ。今日はもう帰れと言いたいところなんだが、ミセスデンバーから仕事の依頼が入ってお待ちかねだ。もちろん指名はお前だ。どうする行くか、それとも……」
「ああ、仕事だろ、今からいくよ」
ライアンはヘルメットを手に取り、そして引きずる足取りで事務所を出て行った。
再び静かになった事務所の部屋に、ライアンが残していった虚しさがハワードには見えるようだった。
それはかつて自分が感じた思いがフラッシュバックしただけなのかもしれない。
ハワードにも人には言えない過去がある。
忘れていたつもりがライアンを通じて蘇ってしまい、ハワードには珍しく、音楽を聴きたい気持ちになった。
棚からラジオを引っ張り出し電源をつけ周波数を合わせた。
殺風景な事務所に、久々に流れる音楽は似つかわしくなかったが、ハワードは静かに耳を傾け、かつて自分が恋していたことを思い出していた。
「ライアン、いつだって私は君の味方さ」
ハワードが隠れて応援しているなんて、この時のライアンには気づく余裕がなかった。
バイクがミセスデンバーの家の前に止まると、その音を聞きつけたミセスデンバーがドアからすぐに出てきた。
「ライアン、随分と遅かったじゃないかい。今日はもう来ないんじゃないかと思ったよ」
「すみません」
ミセスデンバーの顔も見ず、ヘルメットを装着したまま、ライアンは素直に謝った。
口には出さなかったが、ライアンの様子がおかしい事にミセスデンバーは気づいていた。
ライアンがヘルメットを脱いだとき、それは確信に変わった。
目を伏せがちにしているライアンの表情を読み取り、頬の腫れと傷には敢えて何も言わなかった。
ライアンもミセスデンバーの気遣いに少し戸惑ったが、気にしない事にした。
「それで、今日の仕事はなんだい。またアライグマかい」
「アライグマはあれから来てないよ。余程懲りたらしい。今日は屋根のことなんだ。この間から雨漏りがするんだけど調べてもらえないかと思ってね」
ライアンは屋根を見つめた。
「梯子はどこ?」
「ガレージの中さ」
ライアンは梯子を取りに行き、事務的に事を淡々とこなす。
いつもなら、自分の仕事ではないと文句の一つが先に出て、ミセスデンバーが、それを一喝して仕事を無理やりさせるやり取りがあるのに、黙々と静かに動くライアンにミセスデンバーは物足りなさを感じていた。
「どの辺?」
屋根に上ったライアンが、上から問いかけた。
「もうちょっと右、そうそう、その辺、なんかわかる?」
指示通りにその辺りを見れば、屋根の一部が古くなって侵食されているのがわかった。
「ああ、これか」
ライアンは一度屋根から下り、ガレージにあったツールを適当に持ち出して、再び屋根に戻って応急処置をした。
「オレは素人だからこれくらいしかできないけど、後できちっとした人に直して貰った方がいいぜ。そろそろ全体の屋根を変える時期だぜ」
「そうかい。それじゃ業者に頼むしかないね」
「ああ」
ライアンは屋根を下り、梯子を元の場所に戻すと、依頼金も貰わずにさっさと帰ろうとした。
「ライアンちょっとお待ち」
「俺はきっちり直せなかったから、金はいい」
「何言ってんだい、わざわざ時間割いて来てくれたんだから、基本料金は払うよ。ほれちょっと来なさい」
ライアンは長居したくなかったが、言われるままにミセスデンバーの後をついて行った。
「ここにお座り」
ダイニングルームにおかれたテーブルの席に案内され、無理やりそこへ座らされた。
抵抗することもなく大人しくそこで座っていると、ミセスデンバーはキッチンで何かを準備して、それをライアンの目の前に運んで、静かにテーブルに置いた。
「あっ、アップルパイ」
程よい狐色の表面に、つやつやと甘そうなコーティングがされて、光を反射させていた。
パイ生地は見るからにさくっとして、カラメル色のリンゴが切り口からとろりと顔を覗かしている。
「これ、もしかして、コンテストに優勝した時の?」
「ああ、そうさ。あんたが食べたいって言ってくれたから、食べて欲しくてね、用意してたのさ。だけど、中々用事がなかったからすぐに呼べなくてさ、雨漏りに気づいた時は、私も嬉しかったよ。またライアンが呼べるってね」
「ミセスデンバー……」
「今、熱いお茶もいれてやるよ。さあお食べ」
ライアンはフォークを手にして、アップルパイに差し込んだ。
そしてそれを口にしたとき、アップルパイの甘さが口いっぱいに広がり、素直に美味しいと目が見開いた。
そういえば、ライアンは今日一日まともな食事などしてなかった。
お腹は空いていたはずだが、それすら忘れていた。
ミセスデンバーのアップルパイは、美味しいだけじゃなく、とても優しいものに思え、ライアンの瞳が潤んだ。
「ライアン、今日はなんかあったのかい。まあ何があったかは聞かないけど、あんたらしくないね。なんか今日は拍子抜けするよ。いつもの生意気なあんたが見られないと結構寂しいね。ほれもっと食べんかい」
ミセスデンバーに指摘され、ライアンは慌ててフォークを動かした。
そして口に入れる度に、さくっとしたパイの食感と、リンゴの甘酸っぱさを堪能した。
「どうだい、美味しいだろ。私の夫もそれが好きだったんだ」
ミセスデンバーの夫はすでに他界していた。
かつての恋を恥らうようにミセスデンバーは夫の事を話し出す。
ライアンはそれを聞きながら、アップルパイを頬張っていた。
「……それでね、あんたを見ていると私の夫を思い出すんだ。だからあんたがここへ来てくれるのは私は嬉しいんだ」
「俺がミセスデンバーの旦那に似ているってこと?」
「ああ似ているよ、ハンサムな顔に、ぶっきらぼうで生意気なところがそっくりだった。こうみえても私達は大恋愛で結ばれた。私も昔はこの辺りでは美人だといわれとったんだよ」
フォークを持っていたライアンの手が中途半端に止まった。
でっぷりとした体つきに、シワが刻まれた顔をみていると、昔の事は想像もつかなかった。
そのまま黙っていると、ミセスデンバーはテーブルを軽くポンと叩いた。
「ほれ、やっぱりあんたらしくない。いつもならここで突っ込むだろうに。『今の姿から想像できない』とかなんとか」
確かに心でそう思っていたとライアンはなんだかおかしくなった。
「私も若かったらあんたもきっと放っておけなかったと思うよ。当時は私には恋人がいたんだけど、夫が現れてからその強引さに心奪われてしまって ね、夫を選んでしまったんだよ。女ってね寄ってこられて少し強引な男の方がいいんだよ」
「それって俺にアドバイスしているってこと?」
「さあどうかね、まあ、あんたが落ち込んでいるのは珍しいから、もしかしたら女性絡みなんじゃないかと思ってね。あんたはモテて女性には不自由していない
けどさ、いざ自分が本気で好きになった女性にどうしていいのかわからないんじゃないかい? 殴られた痕もあるようだし、人の彼女に手を出したってところだ
ろうね」
ライアンは喉を詰まらせていた。
ミセスデンバーは図星だったと笑いながら、ティーカップをライアンの前に置いて、そこに熱いお茶を注いでやった。
ライアンはそれを深くじっと見ていた。
熱い湯気が優しく揺らいで立ち上っているそのお茶は、ミセスデンバーの気遣いに見えた。
俯きがちだったライアンの顔は、この時前を向き、ミセスデンバーをはっきりと捉えた。
そしてにこやかに笑みを添えた。
「ミセスデンバー、アップルパイ最高にうまいぜ。きっと旦那もこれを食べて幸せを感じてたんだろうな」
「まだあるから一杯食ってけ」
ミセスデンバーの照れた表情が、年に関係なくライアンは素敵だと思った。
かつての恋した女性のかわいらしさが、皺を刻み込んだ顔であっても、そこに現れていた。
ライアンは、この時まで、ミセスデンバーの雑用がうっとうしいと思っていた。
口では適当に付き合っていたが、ミセスデンバーの内面を知るにつれ、人の心の温かさを感じずにはいられなかった。
ふとあの冷血漢のハワードとのやり取りを思い出す。
きつい言い方としてもいつも的確に的を射ていた。
それもまた自分のためを思っての言葉と考えたら、自分の未熟さが恥ずかしくてたまらなかった。
人に感謝することなど全くなかったライアンだったが、自分が落ち込んで見えてくるものがあった。
ミセスデンバーもハワードも、それぞれのやり方の中でライアンの事を考えてくれている。
自分はと言えば、人に優しく接したところで、それは上辺だけですべて自分のためを考えてやったことに過ぎなかった。
人のためにしようと思って、無償で動いたことではない。
全ては利己欲にまみれ、表面的なことを自分で演じてただけに過ぎなかった。
エレナが『好きになったら大変』と言った言葉の意味をライアンは考える。
どんなに自分が真剣になっても、今までの土台がこれでは信用もされるはずがない。
敬遠されて当たり前だった。
ライアンに心許しても、それが見せ掛けだけだった場合の事をエレナは本能で用心していた。
ましてや人に言えない悩みを抱え、それに怯えて暮らしてきたエレナには、ライアンのような口先の軽い男が受け入れられる訳がない。
ライアンは本気で自分を変えたいと思い出した。
アップルパイを口にし、この優しい甘さが魔法のような力となって自分の中から変えてくれることを願った。
「ミセスデンバー、もう一切れもらえるかい?」
「ああ、いくらでも食べてくれ」
嬉しそうにキッチンへ戻るミセスデンバーを見て、ライアンは微笑んだ。
ミセスデンバーに心の中で感謝していた。