第九章
3
「すみません。勝手にオルガンに触って」
エレナは謝罪をし、すぐに移動しようとしたが、足がよたついた。
カイルはすぐに走り寄り、エレナを支えてやった。
その間、神父はエレナをずっと目を凝らして見ては、不思議そうにしていた。
「神父、どうかなされましたか」
ハワードは声を掛けた。
「いや、その、なんていうのか…… 久しぶりに懐かしい曲を聞いたので、不思議な気持ちになりました」
神父の言葉で、全員はっとした。
この神父はエレナのオルゴールの曲を知っている。
カイルに支えられたエレナが、神父の下にゆっくりとやってきた。
エレナが近づくに連れて、神父の目が丸く見開いた。
「あっ、マリー……」
神父は呟くようにエレナをそう呼んだ。
エレナもまた母親の名前が神父の口から出てきたことで、この上なく驚いた。
誰もが衝撃を受け、何をどう訊いていいか言葉を失っている時、ハワードが質問した。
「神父さん、先ほどの曲をご存知なんですね。そして、この女性についても見覚えがあるんですね」
「は、はい。しかし、何年ぶりのことだろう。本当に久しぶりにあの曲を聞きました。そしてこの方も私の知っている人にそっくりで、本当にびっくりして」
神父はエレナをじろじろと見つめていた。
「あの、どうして今の曲をご存知なんですか?」
神父に見つめられ、エレナは戸惑いながら尋ねた。
「昔ここで、その曲を演奏していた人がいたんです。そしてその側にあなたも居た」
「私がここに居た?」
「いえ、そのあなたにそっくりな人という意味です」
「その方はマリーという人ですね」
困惑しているエレナに変わって、ハワードが再び舵を取る。
神父はそうだと頷くと、エレナの鼓動が激しく打った。
マリーは自分の母親の名前──。
「私の母がここへ来ていた? すると演奏していたのは父? でも父は音楽なんて聞くだけで演奏できないはずだけど、おかしいわ」
「おー、あなたはマリーの娘さんなのですね。だとしたらそっくりでもおかしくないですね。本当に良く似ている」
神父の瞳から懐かしさが溢れ、次第に顔が綻んで微笑んでいた。
過去に見た女性と、エレナを比べ、再び出会えた事を喜んでいる様子だった。
「あの、母について何かご存じなんでしょうか」
「ええ、良く知ってますよ。あの方は本当にきれいな方だった。今のあなたもそうですけど。私は当時憧れましたね。ハキハキと積極的で、そして誰にでも優しく慈愛に満ちて、いつも笑顔でフレンドリーでした。マリーはそれこそ、聖母マリアのようなお方でした」
過去を思い出している神父の瞳はうっとりとしていた。
「それじゃ、曲を演奏していたのは誰なんですか」
「マリーの恋人だったと思います。私もそういった事を詳しく聞くのは失礼だと思いまして、訊かなかったんですけど、いつも仲良くしてましたし、どう見てもお互い愛し合ってるようにみえましたね。確か名前は……」
「ダニエル」
エレナがそう言うと、神父は違うと首を振った。
「えっ?」
自分の父親の名前ではない事に、エレナは驚きを隠せなかった。
そこにいた一同は予期せぬ展開に息を飲んでいた。
神父はなんとか名前を思い出そうと、首を捻っては暫く考えこんだ。
そして、ようやく思い出し、突然声を張り上げた。
「あっ! デイビッドだ。そうデイビッド! 思い出しました。デイビッドです。彼はここで演奏のアルバイトをしていて、あのオルガンを弾いてました。ああ、懐かしいな」
「デイビッド……」
エレナには心当たりがなく、息が止まる思いで、そこに立っていた。
支えているカイルですら、この瞬間が気まずく、何かこの話題に触れてはいけないものを感じてしまう。
ライアンは思いっきり顔を歪ませ、まさに自分がしてきた浮気調査の仕事を思い出していた。
ハワードも「うむ……」と苦言を呈するように、息を洩らした。
「あの、本当にダニエルじゃなく、デイビッドなんですか?」
エレナはもう一度訊くと、神父は自信を持って肯定した。
誰かもわからない、全く知らない男の名前──。
エレナには衝撃が強すぎた。
父じゃなくて、全く知らない男性と母が一緒にここで過ごしていた。
「あの、それはいつの話なんでしょうか」
何かの間違い、または、まだ父と会う前の出来事だとエレナは信じたかった。
「かなり昔の話ですからね。あっ、そうだ。私よりも前にここにいらした、元神父に聞くとよいと思います。トールマンさんと言うのですが、デイビッドとは仲
が良かったです。今は引退されて、この辺でお住まいだったと思います。住所をお知らせしますね。ちょっと待っていて下さいますか」
神父は住所を調べに行った。
エレナはとんでもない事を知ってしまったのか、不安で震えていた。
デイビッドという男性の話は全くの初耳だった。
今まで気力だけで立っていたが、急に力が抜けてしまって倒れそうになってしまう。
カイルがしっかりと受け止めるも、カイルも言葉を失って、どうしていいのかわからないのか、表情が困惑していた。
ハワードもライアンも口を閉ざしている。
エレナが自分で気持ちを処理をするまで、三人は何も言わないようにしていた。
神父が再び戻ってきて、紙に書いた住所を渡してくれた。
エレナはお礼をいい、騒がせたことを謝った。
神父は、そんな事よりも、エレナに会えたことが神のご加護とでも言いたげに、若かりし頃の自分の思い出を重ね、懐かしい過去に浸れたことに感謝するくらいだった。
何も事情を知らない神父だけが喜び、他のものは暗く陰りを抱いて、教会を後にした。
エレナは最後にもう一度教会を振り返る。
かつて自分の母が来ていたという場所。
しかも神に一番近く、神聖なる聖域であるべきところで、一体何が起こっていたのか、予想と反した出来事にくじけそうになってしまった。
「エレナ、とにかくトールマンさんに聞けばいい。きっと何かの間違いだよ」
「そうだよ、カイルの言う通りさ。ほら、神父もはっきりと訊かなかったって言ってたし、勝手に思い込んだだけさ。なっ、ハワードもそう思うだろ」
「あの神父は確かに、『訊かなかった』と言っていた。やはり憶測であれは話していたことだ。私も何かの間違いだと思う」
三人の意見を聞いてもエレナは不安だった。
「でも、もしその通りだったら……」
「その時は、もう仕方ねぇーじゃないか。すでに過去の話だろ。今更気にしたって、エレナにはなんの関係もない」
「おい、ライアン、軽々しくそんな事言うんじゃない」
「なんだよカイル、すでに終わっちまってるんだから、もういいじゃないか。それにただ寄り添ってオルガン弾いてただけだろ。そんなの浮気になんないぜ」
「馬鹿! ライアン、口を慎め」
一番口に出してはいけない単語が出たことで、カイルはライアンの頭を叩いていた。
「痛いじゃないか、カイル」
「やめて、二人とも」
エレナは胸を押さえて、息を荒くしていた。
「ご、ごめん」
ライアンは謝った。
カイルも、こんな事をしている場合じゃなかったと反省して口を噤み、エレナをしっかりと支え車へ連れて行く。
ライアンはそれを寂しげに見ていた。
ハワードは、暫くその場に残り、難しい顔をして教会を見上げていた。
「なぁ、ハワード、どう思う?」
「うむ…… エレナのオルゴールの曲は確かにこの教会で演奏されていた。しかし、演奏していたのはデイビッド。しかもエレナの母親のかつての恋人かもしれないとなると、一体研究資料とどう関係があるのか、正直、私にはさっぱりだ」
「ハワードにもわからないなんて、珍しいな」
「私とて、全てを解決するとは限らない。情報が少なければ、まだ点でしかない。そこに接点を見つけなければ線にならない」
「という事は、まだ点のままで、その数が少ないってことか。ここから繋げるためにもっと増やさないといけないのか」
「そのデイビッドという人物が、一体何者かというところだな」
「なんかさ、三角関係だったんじゃねぇか。俺、そんな気がする」
ライアンは、カイルに支えられて車に乗り込んでいるエレナを遠目でぼんやりと見ていた。
ハワードは、ライアンの言いたいことがわかっていた。
「とにかく、トールマンさんのところへ行くしかない。そこで訊けば、何かわかるかもしれない。ライアン、行くぞ」
「ああ」
どこか自分と似たような境遇を感じ、ライアンはデイビッドの思いを考えていた。
今の自分と同じように、一人の女性を愛していた姿が想像できた。