第九章


 医者を手配した後、Jは一息つきながら、適当な部屋に入り、一人考え事をしていた。
 十年越しの一つの課題をクリアーし、ここまでこぎつけたことに安堵もするが、どこか素直に手放しで喜べなかった。
 向こうから研究資料を持ってやってきたことに、何かが腑に落ちない。
 タバコを手にして、ゆっくり吸っては吐き出し、そしてふと手元が止まった。
 指先に挟んだタバコから紫煙が流れていく。
 その煙を見つめ、見落としている事はないか再度確認していた。
 この時、ふとした違和感が気になり、Jはレイの様子がおかしい事に疑問を持ち始めていた。
 レイの様子を探るように構えたポーカーフェイスが妙に不自然に見え、エレナを見る時の目にいつもの冷静さがなかった。
 ──あいつの好みの女だからか?
 エレナの容姿はJも認めるところがあるが、果たしてそれだけだろうかと、この時考えていた。
 まだ半分も吸ってない持っていたタバコを灰皿に押しつぶし、Jはダニエルの様子を見るために、ラボラトリーに向かった。
 そこは全体がガラス張りの窓に面した広い部屋となっており、コンピューターや実験用の精密機械が置かれている部屋だった。
 ダニエルはその広い部屋で、置物のように、一人ただ座ってじっとしていた。
「コナー博士。この部屋はいかがかね」
 部屋に静かに入って来たJに突然声を掛けられ、ダニエルははっとした。
「娘は、大丈夫なんですか」
「さっき、医者の手配をしたとこだ」
「医者? そんなに悪いのですか」
「さあ、知らない。死なれては困るから医者を呼んだまでだ。呼んだだけ有難いと思え。それよりも、博士、研究はいつから始められるんだ?」
「先に、娘の健康状態が良くなってからだ。それまでは始められない」
「やはり、そうきたか。そうなると益々、彼女は死なせられないな」
 Jはくすっと笑っていた。
「何がおかしい」
 ダニエルはエレナの命を玩具のように扱うJが許せない。
「いや、別に。Dの言う通りだと思ったまでだ。娘に何かあればコナー博士は我々に協力しないと言ってたのでね」
「娘の容態が完全に良くなるのを確認するまでは何も手がつけられない」
「しかし、そんな悠長な事も言ってられない。我々はすでに十年という歳月を待たされた。今すぐにでも初めて貰わなければ、納得がいかない。万が一娘が死んだとしても、やってもらわねばならない」
「やめてくれ! 娘の命は本当に助かるんだろうな」
「助けて欲しいのなら、今すぐにでも研究を始めるんだな。こっちとしては娘の命なんかどうでもいいんだよ。例えあんたが協力しなくても、あんたが残した研究資料があれば、他の誰かが継ぐ。さあ、残りの研究資料がどこにあるのか教えてもらおうか」
「それは……」
「どうした、早くそれを言え、言わないと娘の命がないぞ」
「頼む、娘を助けてくれ。そしたら必ず、言うことに従う」
 研究資料が存在しないとわかっていても、ダニエルは必死に訴えた。
「いや、研究は今すぐやってもらう。資料も今すぐに用意だ」
 ダニエルは切羽詰り、額から冷汗が出てくる不快感を感じていた。
 しかし、なんとかしなければ、ならない。
「わかった、研究はすぐにでも始める。だが、先に準備が必要だ。今から何がいるかリストアップする。それと私一人では研究はできない。助手も必要だ。資料はその準備が終わってから渡そう」
「ふん、譲歩したというところか。まあ、いいだろう。何もしないよりはましだ」
「娘は助けてくれるんだろうな」
「ああ、死なない程度くらいにはな。この近くの病院から医者が今やってきているはずだ。至急と言っておいたから、ヘリでやってくるだろう。その医者が到着するのも時間の問題だ。さあ、次は博士の番だ。早速始めてもらおうか」
 ダニエルは、椅子から立ち上がり、その時側に置いていた封筒も一緒に手に取ると、Jはそれに目が行った。
「博士、その封筒の中身だが、見せてもらおうか」
 ダニエルは喉からせりあがる焦りを必死に塞ぎ、息を飲んだ。
「どうした博士?」
「……まだ手渡したくない」
「まだ強情をはる気だな」
 Jは鼻で笑っていた。
 しかし、突然素早い動きで博士を突き飛ばし、封筒を奪った。
「あっ」
 博士は後ろにあった机に体をぶつけよたつき、そしてJを見た時は、すでに中身を見られていた。
「なんだこれは? 楽譜じゃないか。どういうことだ博士」
 ダニエルは何も答えられず、じりじりとした焦りで心拍数が上がっていくのを胸を押さえて感じていた。
 その時、日が落ちて薄っすらと明るさが残った空に、星の輝きのようにライトを照らしたヘリコプターが、このビルに向かって来ていた。
「医者が来たようだな。まあいい、後で納得の行くように説明してもらおうか。まあ、それができればだがな」
 Jの口角は上がっているが、目が笑っていない。
 封筒を乱暴に投げ捨て、Jは部屋を出て行った。
 ダニエルは嘘がばれたのか、それともまだいい訳できる余地があるのか、Jが何を考えているのかわからなかった。
 封筒を手に取って、悲哀の目でじっと見つめた。
 がっくりと落とした肩は絶望を背負い、ダニエルはこの先の成り行きがどうなるのか怯えて震えていた。

 熱を下げようと、何度も冷たい水で絞ったタオルをあてがったが、エレナの容態が芳しくないのがレイの目にもはっきりと見える。
 エレナをこんな目に合わせた責任は自分にあると、レイは己を責めていた。
 悲しくなるほどにエレナを深く見つめ、その瞳はもろく崩れ去りそうに弱気になっているレイの心の中をはっきりと映し出す。
 非情なDとして過ごしてきた部分は、エレナを守るためという目標があってこそ成り立っていた。
 だが今は、エレナを失ってしまうのではという恐れに飲み込まれている。
 小さかった頃のエレナの面影をそこに見て、レイは過去の事を思い出していた。
 父親の家族を省みない、研究にささげる情熱のせいで、レイの母親は不満からレイを虐待し、挙句の果てにはレイと夫を捨てて出て行ってしまった。
 母が出て行っても父親は追いかけることも、捜す事もしなかった。
 レイは両親に失望し、人を信じることをやめてしまい、心閉ざしては自分の殻に閉じこもるような子供時代を過ごしていた。
 そんな時にダニエルがレイの父親と知り合い、そこでエレナと出会うことになった。
 ダニエルも研究熱心なお蔭で馬が合い、二人はお互い、いい刺激を与えながら上手く付き合っていた。
 父親同士が一緒に研究をすれば、否が応でもエレナはレイと一緒にさせられてはいたが、物怖じしないエレナは、心開かないレイであっても、決して無視することなく、常に側に居た。
 自分も母親がいない事で、レイと同じ境遇だからと、エレナはレイの気持ちになって寂しさを紛らわそうといろんな遊びを提案してくる。
 エレナはおてんばで、ゴムマリのように跳ねては、レイは話しかける事はなくても、見ていて飽きなかった。
 エレナはレイをなんとか笑わせようとしては、色んな仕掛けをしてくる。
 その時、感情を忘れていたはずなのに、なぜかムキになって笑ってはいけないと意地になってる自分に気がついてしまった。
 それだけエレナの挑戦が日に日にエスカレートして、自分の日常生活の中で無視できないくらいになってきていたときでもあった。
 そうなると自分の心の中がはじけるのも時間の問題だった。
「私、本を読んだの。蛙の王子様よ。それ読んだとき思ったの。もしかしたらレイも魔法にかけられて笑えなくなってるんじゃないかって」
 そして、エレナは突然レイにキスをした。
 子供らしい発想の中でのキスなので、エレナにはキスがこのときまだ大切なものだなんて思っていなかった。
 魔法の呪文がとけると信じた儀式のようなもの。
 唇と唇がただ重なったキスだった。
 だが、レイはそれでもドキッとした。
 エレナはキスした後、じっとレイを見つめ、変化を期待していたが、結局、レイは頬をピンクに染め、ドキドキするだけで終わってしまった。
 がっかりしたエレナだったが、そこで諦める事はなかった。
 その後、エレナに会ったとき、長かった髪がとても短くなっていた。
 お姫様にあこがれて、エレナはかわいらしくドレスを着るような女の子だったのが、その日から、少年のようになっては、服装の趣味も男の子のようになってしまった。
 レイが心開かないのは自分が女だからと勝手に思いこみ、新たなチャレンジ精神で挑んできた。
 そして、元々おてんばではあったが、さらに輪をかけて活発になり、木登りまでやってしまった。
 あの時、エレナが木から足を滑らして落ちてしまったのが一つの転機となった。
 落ちて体を打ち、その時のショックで暫く気絶してしまった。
 幸い怪我は大したことがなかったが、レイはその時エレナが死んでしまったと思い込み、そこで初めてエレナの大切さを知らされた。
 心を開かなかったことを後悔しては、エレナを抱きしめ泣きじゃくっていた。
 エレナの意識が戻った時は、神様に感謝したくらいだった。
 その時、レイの心の中でエレナを守る気持ちが湧き起り、エレナへの思いが強くなっていった。
 自分しかエレナを守れない。
 このままずっとエレナの側にいると子供心ながら誓いを立ててまで、それからレイはエレナを大切にした。
 エレナが望むのならなんでもする。
 だから、エレナが「笑って」といった時、レイはエレナの前で口角を上げて微笑んだ。
 エレナはそれを見て本当に喜んで抱きついてきた。
 その時、レイもエレナを抱きしめ返していた。
 それは自然に自分の感情がそうさせた。
 それからは、エレナの側にいるのが楽しく、そんな日がこの先もずっと続くと思っていた──。
 当時の感情を思い出していた時、どこで何が狂ってしまったのか、胸を突き破りそうな行き場のない思いをレイは押さえ込み、身を奮わせた。
 意識を失い、青白い顔をしているエレナを見つめ、レイは歯を食いしばる。
 なんとしてでもエレナを救わなければならない。
「くそっ、医者はまだか!」
 感情と共に言葉が吐き出され、その咆哮が部屋で轟いた。
 そして間もなく、部屋に医者が現れ、レイは、待ち望んでたものがやってきたことで、この上なく取り乱し感情を露にした。
 そこには普段の冷血非道なレイの姿はなかった。
「患者はこの子か」
 医者はエレナに近寄って、すぐに脈を測り、エレナの目を見開いて調べ、医者は口元をへの字にしては考え込んだ表情をしていた。
 ドア付近では、Jが、静かに一部始終を見ている。
 何も言わないので、レイも特別口を聞かなかった。
「君、この子の服を脱がせてくれないか」
 カバンの中から必要なものを探しながら医者が言った。
 レイは突然の事に戸惑い、エレナの胸の辺りを見ては、何もできずにいた。
 「仕方がないな。トップスを重ね着して肌に密着してるから、こういう服は脱がすの大変なんだよ」
 医者は、カバンの中からはさみを取り出し、エレナの服に切り込みを入れた。
 レイは思わず目を逸らした。
 服を切り終わったあと、露になったエレナの肌を見て医者は声を洩らした。
「なんて事だ。酷い打撲じゃないか。こんなになるまでなぜ放っておいたんだ」
 エレナの体はアザだらけだった。
 車から落ちたときに受けた打ち身が想像以上に酷かった。
 医者は聴診器を胸にあてエレナを診察していた。
 その後はバッグから注射器を取出しエレナの腕に打った。
「ひどい打撲を受けた上、無理に動いたために体が弱り抵抗力がなくなっている。また熱が非常に高い。応急処置はしたが今すぐに病院に連れていかないと非常に危ない状態だ」
 医者の言葉にレイは動揺した。
「病院に連れていく必要はない。彼女にはここにいてもらう。医者に診て貰ったので少しは寿命が延びただろう」
「J!」
 レイは我を忘れて怒り狂った。
「ドクター、どうもご苦労様でした。後は我々に任せてお引き取り下さい」
 そういうとJは銃口を見せ医者をおっぱらった。
 医者はただならぬ雰囲気に圧倒され、逃げるようにその場を去っていった。
 レイは、肌を露にしたエレナをブランケットにくるんだ。
「この子は病院に連れて行く」
「何を言ってるんだD。その必要は無い」
「なぜだ。医者が言ってただろう。危ない状態だと。死なせてはいけないとデスモンドの命令でもあるんだぞ」
「D、なんか変だぞ。その娘に対してのお前の目つきは、まるで恋してるみたいだぞ」
 レイは黙っていた。
「どうした、なぜ突っかかってこない」
「くだらないことをいうから、呆れただけだ」
「いや、何かがおかしい。お前も、コナー博士もだ。この娘が持ってきた資料とやらを見せてもらったが、あれは完全な嘘っぱちだ」
「嘘っぱち?」
「コナー博士は本当に研究資料を持っているのか、疑うレベルだ。そしてお前を見ていて、違和感を感じる。お前、もしかしてその娘を前から知っていたんじゃないのか。しかも深く係わりあうほどに」
 レイはJの冷ややかな目を見つめ、とうとうJが気づいたことを感知した。
 この後、Jがどう出てくるのか様子を見ている。
「この10年間、コナー博士の娘をずっと探していたが、この件に関しては我々の情報網を持っても不自然なほどに解決できなかった。その裏を返せば、誰かが 意図的にそうなるように仕向けていたと考えてもおかしくはない。それは組織の中で行われ、力を持ってるものほどやり易い。ましてや、その娘に好意を寄せて いたとしたら、そうするのも頷ける。以前にも言ったことがあったな。Dのようなタイプは忠誠と裏切りの両面を持つと。まさにお前は幹部に入り込んで、この 娘を守るために、俺達を欺いてたんだろう」
 Jはレイに銃を向けた。
「だったらどうだっていうんだ。私が欺こうが欺かなくても、Jは私を最初から抹殺するつもりだろうが。そんな理由など今更つけたところで、意味がないんじゃないのか」
「それもそうだな。どっちにしろ、お前は目障りなやつに違いない。今更裏切られたところで、驚きはしない。だが、真実を知りたいといえば、知りたいとこだな」
「その真実を知るまでは、私を殺れないってことか?」
「そうでもないけどな。俺の読みは間違ってない自信がある。だが、コナー博士の研究についてはまだ疑問だ。お前はコナー博士の研究資料がどこにあるか知っているのか」
「さあな」
 レイとJは対峙していた。
 レイはJとやり合うためのチャンスと、ほんの少しの時間が欲しかった。
 Jはまだ研究資料の事を気にしている。
 それがどこにあるのか、レイは知る由もなく、またそれが嘘の研究だった事も知らないでいた。
 しかし、Jが銃を自分に向けている以上、下手に動くことができない。
 側にはエレナもいる。
 研究資料のために、レイをまだ生かしているのなら、それを利用する他なかった。
 そして、前方に視線が向いた。
 それはJの後ろ側、ちょうど死角の位置するところ。
 その時、自分に運が向いてきていると、レイの口角が上向いた。
「とぼけるのもいい加減にしろ」
「銃を向けられて、とぼけられる訳がないだろう」
「まあいい、それは博士に訊くまでだ。その娘をちらつかせれば真偽がはっきりとするだろう。しかし、お前の処分をどうするかだ。ただここで殺してしまうの も面白くない。特にお前は色んな奴から嫌われているし、お前の死に際を見たいというやつもいるだろう。反逆罪として捕まえて、見せしめに殺す方が、組織の 結束も高まるというものだ」
「そんな悠長な事をしていていいのか? やるなら今やった方がいいぞ」
「強がりを言うのも今だけさ」
 その後、Jは部下を呼ぶために大声を出した。
「誰か、来てくれ」
 そして部屋に男が三人すぐに駆け込んできた。
 その男達は部屋に入るや否や、銃を持っていたJを素早く取り押さえた。
「な、何をする。捕まえるのはDの方だ」
「いやいやいや、あんたの方が悪者じゃないか」
「お、お前は、スタークの息子…… お前たちどっから入った」
 ライアン、カイル、ハワードに動きを封じ込まれたJは、虚を突かれていた。
「もちろん正面玄関から、堂々と、に決まってるだろう」
 調子に乗ったライアンはおどけて言い、そのままノリでJが持っていた銃を奪った。
 レイはゆっくり近づき、Jの腹に蹴り込みを入れた。
 Jは少し前屈みになり、「うっ」と息が漏れていた。
 あの痛みは身を持って経験しただけに、ライアンの顔は思わず歪んでいた。
 レイは自分の懐から銃を取り出し、Jに向ける。
「ここは私が片付ける。お前達は、エレナと博士を救出してくれ」
 ブランケットにくるまれてソファーに寝かされているエレナを直視したカイルは、発狂しそうになっていた。
「エレナ!」
 彼女の元へ駆け寄り、すぐさま抱きかかえた。
 ライアンもまた、断腸の思いでエレナを見ては、自分の失態を悔やんで仕方がなかった。
「何をモタモタしている。異変に気づいて追っ手が来るぞ。早く逃げろ。博士はこのビルの二階の一番大きな研究室に居る。早く救い出せ」
 Jに銃を向けながら、レイは指示を与える。
「わかった。ライアンは博士を助けるんだ。カイル、早くエレナを車に運べ。私が援護する」
 ハワードはすぐに判断した。
 ライアンはJから奪った銃を持ち、すぐさまダニエルを助けに走り出し、カイルはエレナを抱きかかえて、ハワードと一緒にその場を去った。
 レイは、銃を向けたままJと睨み合い、緊迫していた。
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