Brilliant Emerald

第十章

2 

 仁の家のドアの前で、ドアベルを押す手に迷いが生じる。
 ぐっと右手に力を入れては震えるように人差し指を伸ばし、目を瞑った瞬間に、勢いつけてドアベルを 押した。
 中でパタパタとスリッパで小走りする音が聞こえ、そしてドアが開いた。
「あら、ユキちゃんじゃないの」
 仁の母親は口に手をあてていた。
「おばさん」
 ユキは太陽のような優しい仁の母親の温もりを期待する。
 すがるような目で助けを求めていた。
 大粒の涙がこぼれ、その場で泣き崩れてしまうと、仁の母親は 優 しく肩を抱いて家の中へ迎えてくれた。
 ユキを居間のソファーに座わらせ、目線をユキの高さまで合わせると、温かい日差しのような笑顔を降り注いだ。
 ユキは涙を撒き散らしながら、スカートの端をぎゅっと握りしめる。
「おばさん、突然ごめんなさい。でも行くところがなくて、どうしても怖くて、ここに来ちゃったの」
「いいのよ、ユキちゃん。それに今日大変なことがあったでしょ。テレビで観たわ」
「おばさん、やっぱり知ってるんだ。私なんかここに来たら迷惑ですね」
 ユキはこみ上げてくる悲しみをむせながらひっくひっくと肩を震わしていた。
「ううん、いいのよ。頼ってくれて嬉しいくらいよ。それにユキちゃん怖い思いしたんでしょ。とにかくゆっくりして落ち着きましょう」
 突然ユキのお腹が『ぐーっ』となった。
 時計ではもう昼をとっくに回っていた。
「ユキちゃん、お昼ご飯まだね。今、なんか作ってあげるからね」
 ユキはただ泣いていた。こんなときにでもお腹が空く自分が恥ずかしい。
 めまぐるしく命がけの危険な目にあい、自分の心は秩序がないくらい無茶苦茶になっていた。
 何をどう考えていいのか完全に混乱していた。
 ジークに追われる怖さと、トイラとキースが捕まってしまった憤り、そして今自分は助けを求めて裏切った仁の家に来てしまったやるせない思い、これほ ど一 度にいろんな感情を持ち合わせてしまうと、水の中でおぼれているかのように苦しかった。
 台所から何かいい匂いがしてくる。
 またユキのお腹がグーとなってしまった。
 こんなときでもお腹は空き、自分が情けなくなる感情も更に追加してしまっ た。


 ユキが病院で姿を消すと、警察官二人は慌てていた。すぐに署に連絡を取っていた。
 警察官が病院内でユキのことを尋ねると、制服を着た女の子が部屋に入って窓から出て行ったとい う証言を耳にする。
 ユキは被害者なのに、なぜ逃げたのか警察官は首をかしげていた。
 側にジークが聞き耳を立てて立っていた。
 惜しいところで逃げられたことに悔しさが腹の底から湧き出る。
 仁との約束など何一つ守ることなど、は なっからなかったのだ。


 警察署の取調室でトイラとキースが手錠をかけられたまま閉じ込められていた。
 殺風景な空間に机と椅子があるだけの部屋。窓は小さく、鉄格子 がつけられている。逃げられそうにもなかった。
「あー、腹減った」
 トイラは机を一蹴りした。
「おい、なんか食い物ないのか。腹減ったよ!」
「トイラ、落ち着け、あまり変な行動をするな。益々危険な存在と思われて、不利になるぞ」
「だけど、キース。俺達、豹や狼に変身するだけで、何も悪いことしてねぇよ」
「だからそれが人間には驚異的なんだよ。もうそれだけでこの世界では罪なんだよ」
 バタンと突然ドアが開き、トイラとキースは体を前かがみにして咄嗟に構えた。
 コツコツと靴の音を立てて、警察官ともう一人眼鏡をかけた学者らしき風貌の 男が入ってきた。
 警察官は怯えていたが、眼鏡をかけた男は堂々として、トイラとキースを頭からつま先まで食い入るように観察していた。
 眼鏡が冷たい光を放している。
「なんだよ、こいつ」
 トイラが睨んだ。
 その男の目つきはまともな人間の目つきに見えなかった。
「君達が、噂の豹と狼に変身する化け物なんだな」
 眼鏡の男が言った。
「化け物とはなんだよ、失礼な」
 トイラは腹も減り、頭に血が上りやすくなっていた。威嚇体制で歯をむき出しにする。キースは止めろとトイラの前に立った。
「失礼ですが、あなたは誰ですか」
 キースが質問した。
「ほー、化け物にも礼儀正しい話し方をするのがいるんだ。私は獣医野生動物学者の田島亮一だ。君達に興味を持って、ちょっと調べさせて貰いたくてね。こう やっ て申し出た訳だ。警察は処理に困ってるから、あっさり私の申し出を受け入れたよ」
 トイラもキースもやっぱりこういうのが来たかと、予想通りの展開に顔を見合わせて苦笑いしてしまう。
「それじゃ私の研究所に来てもらおうか。暴れると困るので一応ケージを用意した」
 警察官に合図すると、トイラとキースの目の前に檻が二つ現れた。
「大型犬用サイズなので、君達には小さいかもしれないけど、とにかく念のためこの中に入って貰おうか」
 田島は人差し指で軽く眼鏡を押さえ込みながら言った。
「おい、嘘だろ、この中に入れってかよ」
 トイラは益々腹立だしくなって、ぐるるると威嚇しだした。
 そしてとうとう我慢できずに黒豹に変身してしまった。
 その拍子にするると手錠が外れる。
 警察官は悲鳴をあげて一目散に部屋から出て行った。
「やっぱり、化け物か。面白い。こんな面白い研究ができるなんて、私はなんてついているんだ」
 田島は怖がるどころか鷹のような目つきになり、ニヤリとしては口元から喜びが勢いよく飛び出していた。
 トイラに素早く近づき、背広のポケットから注 射器を取り出して、トイラの首を掴むや否や、ぶすっと突き刺し た。
 そ の手つきは何度もそういうことをやってきたと主張するかのごとく非常に慣れていた。
「くそっ、何をする」
 黒豹の姿を怖がらず素早く近づいてくる行動に、さすがのトイラも不意をつかれ、瞬時の行動力をふさがれた。
「いえ、こんなこともあろうかと思ってね、麻酔を用意してたんだよ」
 トイラの体がふらふらと不安定に揺れ動く。
 必死で食いしばるが、突然ばたっと倒れた。
 気を奮い起こそうと試みるが、薬には勝てず、悔しい表情のまま意識 が遠のいてあっさりと眠ってしまった。
「さて、礼儀正しい方の君も麻酔する? それとも自分で入る?」
 屈辱を感じながらキースは自らケージの中に入っていった。
 トイラが倒れてしまったこの時、狼に変身して戦うことすらできない。
 トイラは黒豹の姿のまま、田島亮一に檻に押し込まれていた。
 そして二人は運ばれ、パネルトラックの荷台の中に入れられた。
 キースは思わぬ展開になってしまい、歯をキリキリと噛んで悔しがった。
「なんて狭いんだ」
 さすがの楽観的なキースも苛々が募る。
 人間の姿では体を折り曲げて、手錠をしたままでは、かなり苦しいポーズだった。
 仕方なくキースも狼になって檻にに収 まった。
 手錠は手からはずれて、体も楽になる。
 飼い犬のように檻の中で大人しく体を丸めた。
 だが気分は情けなかった。
 隣の檻の中で眠らされているト イラを見つめて、深くため息を漏らした。
 車は静かに動き出し、カタカタと二人を閉じ込めたケージが小刻みに振動していた。
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