Brilliant Emerald

第十一章

4 

 ──あの森へ戻る。
 ユキは気だるく、まぶたが重くとろんと閉じていく。
 疲労感よりもやるせない気持ちが体の上にのしかかり、さらに力を奪い取っていった。
 じっと動かずどこを見ることもなく、思いつめたユキのその姿は父親を不安にさせた。
 びしょ濡れで疲れ果てて戻ってきた自分の娘。
 何かがあった。
 それくらいは 父親として分かったが、自分勝手なことをした後ではこれ以上父親面することはできない。
「ユキ、そのままでは風邪を引く。お風呂に入って温まりなさい。またこのことは後でゆっくり考えればいい。パパは先に寝るよ。また明日ゆっくり話そう」
 父親は後ろめたそうに小さな声で伝え、そっとその部屋を出ていった。
 父親の廊下を歩く軋んだ音が寂しく聞こえる。
 遠くで静かにドアが閉まる音が聞こえた。
 ユキもベッドから、重い腰をあげる。
 トイラの姿をもう一度探すが、誰も使った形跡が残ってないその部屋では、ただ寂寥感が募るだけだった。
 そっとドアを閉めて部屋を後にする。
 冷たい体を引きずって、一段一段階段を下りて風呂場へと向かった。


 湯船の中、ユキの冷たい体がジンジンと温められていく。
 だが心は冷え切ったままだった。
 胸のアザは何度探しても、もうどこにも見当たらない。
 あれだけ痛い思いをしながら、すっかりその痛みは忘れていた。
 そっと胸に触れて暫く目を瞑っていた。
「私は夢を見てたの?」
 風呂上り、冷蔵庫の中から水を取り出そうと、腰をかがめてペットボトルに触れたとき、冷蔵庫の中に魚の干物やベーコンが目に飛び込んだ。
「トイラとキースの好物だ。やはり夢でもない。これはトイラとキースのために用意したもの。やはりここに居たんだ」
  焼き魚とベーコンを口に頬張っているトイラとキースの顔が目に浮かぶ。
 突然、拒否反応を起こし、冷蔵庫のドアを両手で強く押さえるように閉めて八つ当たった。
 中でジャムの瓶や調味料のぶつかり合った音が冷蔵庫の不平のように聞こえた。
 冷蔵庫のドアに背を向けてもたれると、ユキは力が抜けたようにしゃがみこんでしまった。
 キッチンのシンクを見れば、トイラが洗いものを手伝っている姿が映し出される。
 ダイニングのテーブルを見れば、三人でご飯を食べていた光景が蜃気楼のように 浮かび上がる。
 居間 を見れば、ソファーに座わる二人が思い出される。
 そして縁側──。
 あそこでトイラとじゃれていた、ドキドキと幸せだった日々。
 ──もうそのトイラはいない。
 薄暗いキッチン。冷たい床。
 水道の蛇口から水滴が一つ恐ろしく静かな空間でピチャっと音を立てた。
 その小さな滴りは涙とこの上ない孤独なユキの寂しさを代弁していた。


 その晩ユキはあまり寝た気がしない。
 朝、父親に起こされたので、少しは寝たのだろうが、それすらわからないほどの感覚だった。
 朝ごはんも食べずに、父親と全く口も利かず、ユキは学校に出かけた。
 その姿は覇気がなく、魂が抜けたようだった。
 それでももしかして、もしかしてとトイラが学校に現れる淡い期待を絶望だらけの心の中でもまだ抱いていた。
 必死で足を学校に向ける。
 それはいつもと変わらない朝だった。
 ユキの抱く気持ちなど全く無視した、平等に誰にでも訪れる朝だった。
 前日は気にならなかった当たり前の太陽の光も、 このときはまぶしすぎた。
 どこか刺すようで、心が痛い。
 重い足を引きずるように、一人、通学路を歩く。
 学校までの道のりがこの日に限って長く果てしなく続き、このままでは無事に辿りつけるか自信がなかった。
『ユキ、学校遅れるぞ』
 どこからかそんな声が聞こえてきそうで前後左右見渡す。
 どこにも彼らはいない──。
 叫び出したくなる感情を必死に抑えると、行き場のない無駄な感情は突然足を早く動かした。
 自棄を起こすそんな歩き方だった。

 教室に入って新たにユキはショックを受けた。
 自分の両隣の机がない。トイラとキースが前日まで座っていた痕跡すら残っていなかった。
 クラスの誰一人、トイラとキースのことを覚えていない。
 前日屋上で自分が吊るされて落ちた事件があったのに、それすら誰も覚えていない。
 ユキは一人、頭を下げて暗く座っていた。
 ミカがニコやかに寄ってくる。
「あら、春日さん、なんか暗いけど、大丈夫?」
 ユキは顔をあげた。
 相変わらず、チワワのようなあどけない瞳を向けて、ミカはか弱くお嬢さんぶっていた。
 その顔が急に鬱陶しく思える。
 この笑顔は偽善──。
「五十嵐さん、私のこと嫌いでしょ。無理に話しかけてくれなくてもいいよ」
「何言ってるの」
 ミカは気分を損ねると、ほっぺたを膨らませて去っていった。
 そして他の女の子とユキをちらちらみながら何かを話す。
 ──もう何を言われても気にしない。嫌われてもどうでもいい。そう、もうどうでもいい。みんなもっと嫌うがいい。
 ユキの投げやりな気持ちは、却って怖いものなどないくらい、妙な強さを発揮していた。
 そしてその日クラスの誰一人寄せ付けず、孤立まっしぐらだった。
 マリはユキのトゲトゲしいその姿を見て我慢できなくなっていた。

 放課後、マリはユキの前に立ちはだかった。
「春日さん、今日おかしいけど、何かあったの」
 マリの顔を無表情でユキは見上げた。
 ユキはマリのことなど眼中にない。
「春日さん、やっぱり変、あなたらしくない」
「矢鍋さん、私には構わないで。あなたも私のこと嫌いで虐めてたじゃない」
 ユキは淡々と事実を述べただけで、そのことに関しての感情は何もこもってなかった。
 ユキの目はどこをみることもなく虚ろで伏し目がちになった。
 マリの眉毛が釣りあがる。
 突然パンっという音が聞こえると、ユキの片方の頬は赤くはれていた。
 マリは目に涙を薄っすらとため、ユキを捨てるように置き去 りにして、教室を出て行ってしまった。
 教室に残っていた生徒達はその光景に唖然としていたが、誰一人口を挟むものはいなかった。
 ユキはひっぱたかれた頬に触れた。
 熱くジンジンとする。
 マリにはネチネチと言葉で虐められても、手を出されたことは一度もなかった。
 とうとう叩かれたか と思いながら、それでも何一つ反論せず、ユキは教室をトボトボと出て行った。
 廊下に出ると隣のクラスに目が行った。

 ──そういえば、まだ仁を見ていない。
 そう思っても、仁に会いたい気持ちすらなく、そのまま下駄箱へ向かった。
 どこをみてもトイラとキースは居ない。
 誰も何も覚えていない。
 ──でも、私は覚えてるの! ここにはトイラとキースが確かに居たんだから。
 もういてもたってもいられない。
 ユキの足はあの山へとまた向かう。まだ繋がってるかもしれない。
 ほんとはトイラは嘘をついていたのかもしれない。
 確かめなくてはと諦められない感情をむき出しにして、もしかしたらもしかしたらとユキは狂ったように歩き出した。
 黒豹に『もう私 にはどうすることもできない。どうか忘れて欲しい』といわれて、はいそうですかと引き下がれるものではなかった。
 すぐには割り切れない感情は怒りに変わりつつあった。

 山の麓にたどり着いたときは、既に当たりは日が暮れていた。
 まだここから森の中に入る。
 足は疲れていたが、それでも答えを見つけたい一心で山の奥深く へと入っていく。
 暗闇の山の中は不気味だった。
 何か恐ろしいものが出て来てもユキは怖がる気持ちなど微塵もなかった。
 それほどにまで張り詰めて、山をざくざくと登ってい く。
 木の根っこが盛り上がった場所に来たとき、足元がよく見えずユキは躓づき転んでしまう。
 張り詰めたものまでこけた拍子に割れてしまい、また涙がじわりと出 るともう抑えきれず地面に倒れたまま大声で泣いてしまった。
 すると、急に辺りがざわめき出した。
 羽をバタバタさせる音、鳥が囀る音、カラスの声、いろんな音が混ざりあっている。

 顔を上げると周りの木に鳥達が何十羽と枝にとまっていた。
 ユキは襲われることを懸念して咄嗟に立ち上がった。
 だが鳥達は首を時折忙しく動かしながらユキをただ見ていた。
「もう私を襲わないの?」
 カラスが一羽、その質問に答えるようにユキの側に舞い降りてきて、 一礼をしたかのように首を動かした。
 そしてピョンピョンと跳ねるように進み、またユキを振り返った。
「まるで、こっちこいって言ってるみたいね」
 ユキは素直にカラスについていく。
 他の鳥達が木の枝に並んで、アーチを作るように歩く道を教えてくれていた。
 そして案内していたカラスもそれに加わり、鳥が止 まっている木を目印に歩けといわれているようだった。
 暫く歩くと、辺りは霧に包まれていく。
 どんどん霧は濃くなり、乳白色の中、とうとう何も見えなくなった。
 それでもユキは手探りをしながらひたすら歩いた。
 再び霧が晴れたときだった。
 朝の柔らかな光が差し込み辺りが明るくなり、ユキは息を飲んだ。
「あっ、あれは」
 ユキもよく知ってる木。
 トイラが好きだったあの大木が目の前でずっしりと変わらない姿で現れた。
 ユキは目の色を変えて走り寄る。
 懐かしい人にでも会うかのように愛しく抱きしめた。
 トイラが好きだった木。いつもトイラはここに座っていた──。
 ユキの体は震え、また堰を切ったように泣き出した。
 どれくらい泣いただろう。
 辺りがまた暗くなっていた。
 そしてカサコソとした落ち葉を踏んだような音が聞こえる。
 振り返ったとき、ユキは目の前の光景に呼吸がふさがりそうになるほど驚いた。
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