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全ての授業が終わった放課後、ミカは自分のものになったような勢いですぐにトイラの前に現れた。
「さあ、行きましょう、トイラ。英語の歌も沢山あるわよ。トイラの歌聴いてみたい」
ユキは横目でちらりと見ていた。
トイラはきっと不機嫌な顔をしてるはず。
だが、すくっと自ら立って『オッケー』と答えていた。
トイラがミカに文句の一つでも言って嫌がる気持ちをまず示してくれたら、ユキは少しは心が晴れたのにと、複雑な心境をのぞかせていた。
『いかないで、トイラ』
本心はこれだった。
キースも他の女の子達に囲まれ、押されるように既に教室の外へと出ていた。
ユキは精一杯とってつけた笑顔で『楽しんできてね』とトイラに言うと、トイラは何か言いたげな目をしている。
それを邪魔するようにミカがトイラの腕に自分の手を回して引っ張った。ちらっとユキを見て薄ら笑いを浮かべている。
ユキには一瞬のことで、その笑いの意味を深く考えることはなかった。
トイラはミカに引っ張られるまま、慌てて一言残した。
「ユキ、ネコとイヌと一緒に……」
「はっ?」
ユキには訳のわからないメッセージだった。
たくさんのアリが餌を運んでいくように、トイラとキースも女子生徒たちにそうされてあっという間に教室を出て行ってしまった。
ユキは呆気に取られて呆然と机についたまま考え込んだ。
──トイラは何を言おうとしたんだろう。
ユキは何かの慣用句かと思い、辞書を出して調べてみたがわからなかった。
「春日さん! 放課後も学校に残って勉強?」
教室の入り口で仁が叫んだ。
「ううん、まさか」
ユキは立ち上がり、仁に近寄った。
「ねぇ、今からちょっと僕に付き合ってくれない?」
はにかんだ仁。断らないでと目がウルウルしている。
トイラが行ってしまった寂しさもあったが、前日の買い物の恩もあり、ユキは快く返事して仁についていった。
肩を並べて人通りの多い歩道を歩く。時折り顔を合わせれば意味もなく笑うけど、少し慣れてきたのか、仁は前日ほど緊張してなかった。
「実は昨日、母に君の話をしたんだ。そしたら会ってみたいって。母も昔アメリカにちょっとだけ行った事があったみたいで、興味があって話が聞きたいんだって。迷惑かな」
「ううん、全然迷惑じゃないよ。私も新田君のお母さんに会ってみたい。私さ、早くに母を亡くしてるから、いつも他人のお母さんから母の面影を思い浮かべるの。そうやって誘って貰えて嬉しい」
「えっ、知らなかったよ。苦労してるんだね」
仁はしんみりとして、うつむいた。
「そんなに気にすることないよ。でも新田君優しいんだね」
ユキに言われて仁は素直に照れていた。
仁といるとほんわかとしてユキの心が癒される。
ひとりでいたら、悶々としてイライラが募っていただろう。
誰かと一緒にいることで気が紛れた。それとも仁の人となりだからだろうか。
ユキは仁を見つめた。
仁は照れていたが、その直後派手なくしゃみをしてしまった。
仁は恥ずかしそうにしていた。
「やっぱり猫だ」
仁はビルとビルの間の路地を指差した。猫はじっとふたりを見ていた。
一匹だけじゃなく、建物の隅や、街路樹の下など複数見かけた。
また仁がくしゃみをした。
犬をつれた人がユキとすれ違えば、犬は立ち止まってユキをじっと見る。
飼い主はリーシュを引っ張るも、ユキを未練がましそうにみていた。
いやいやながら歩き出して、ユキが振り返ると犬もユキをみていた。
飼い主は歩きにくそうに、文句を言いながら無理やり引っ張って連れて行ってしまった。
それが一度じゃなかったのでユキは不思議に思っていた。
「さっきから犬とすれ違うとユキのこと見ていくね……ハックシュン! また猫だよ」
仁は鼻をこすって恥らっていた。
「この辺り猫が多いの?」
「繁華街だから、残飯をあさりにきてるのかもしれないけど、こんなに見たことないな」
仁はまたクシャミをする。
ユキとすれ違う犬はユキを振り返る。
『ネコとイヌと一緒に……』
ユキはトイラの言葉を思い出す。
猫と犬と一緒にいたら何かが起こるのだろうか。
監視されているような、見守られているような、そんな気分になっていた。
仁の家は駅からさほど遠くないマンションの一角にあった。
ユキの家の周辺は田んぼや畑が多いが、賑やかな場所なだけあって、この辺りは住宅が密集している。
道路を挟んで向かいにはコンビニがあり、雑居ビルや飲食店など目に入った。
バス停もあり、ちょうどバスが走っていったところだった。
マンションのエントランスに入り、エレベーターに乗る。
降りたとき、見通しよくユキの住んでいる辺りの畑の景色が通路から見えた。
「母さん、ただいま。昨日言ってた春日さんを連れてきたよ」
玄関を開けるなり仁は、母親に呼びかけた。
スリッパのパタパタする音が聞こえたかと思うと、上品な笑顔で仁の母親が現れた。
髪をアップにあげて、赤い口紅が印象的だった。
仁によく似て、かわいらしい母親だった。
「あっ、いらっしゃい。さあさ、あがって」
テンション高く、ユキを歓迎する。
「初めまして、春日ユキといいます。どうもお邪魔します」
少し緊張して挨拶をした。
仁は照れくさいのか、母親の大げさな喜び方を少し恥じていた。
パッチワークのウサギのぬいぐるみが、玄関の下駄箱の上にかわいらしくちょこんと座っていた。
なんとなくカントリー風のイメージがした。
居間に通されると、広々とした空間が目に飛び込む。
カウンターキッチンとテーブルの置いたダイニングルームも一緒になっていて、座ったソファーの位置から部屋全体が見渡せた。
掃除が行き届いている。
その清潔さは見ていて気持ちがよかった。
ここでも小物が目に付く。
小さな手作りの人形、壁にさりげなくかけられたリースの花の飾り物が、コーディネートされるように部屋を彩っていた。
母親はキッチンで早速お湯を沸かし、棚からカップを取り出して忙しくお茶の準備をしている。
「ねぇ、お母さんって素敵な人ね。新田君にそっくり」
ユキはこそっと言っていたが、ちゃんと母親の耳にも入っていたのかくすっと笑い声が聞こえた。
「ユキちゃん、ねぇ、アメリカのどの辺りにいたの?」
紅茶の葉をポットに入れながら母親が尋ねた。
「えっと、主にコロラド州なんですが、他の州もいろいろと行きました。あとカナダにも少しだけ
「私も昔テキサス州にちょっとだけ居たの。何もかも大きくてあの時はカルチャーショックだったわ」
「アメリカって大きいですよね。特にテキサスは大きいのが自慢みたいで、何でも大きくて当たり前って感じですよね」
「そうそう。人まで大きいよね」
母親は嬉しいのかユキとの話が弾む。
側で聞いていて、仁はついていけない。
「なんだよ、母さん、僕にはそんな話一度もしたことなかったじゃないか」
トレイにお茶とお菓子をのせて、母親は運んできた。
一緒にソファーに座り、息子には関係ないわとでも言いたげに、ユキと笑っていた。
「さっきから、いろいろな小物が目についたんですけど、これもしかして、おばさんが作られたんですか」
お茶が入ったポットにも、簡単に冷めないように、かわいらしい布で作られたカバーで覆われていた。
「そうよ、裁縫が趣味なの。服も作るのが好きなのよ」
「うわぁ、すごい。私、裁縫は苦手です」
「あら、でも料理は得意なんでしょ。仁から聞いたわ」
ユキは、仁がどこまで自分のことを母親に話したのだろうと、ちょっと怖くなってきた。
クラスで嫌われてるとも言ったので、カップを持ちながら、ちらりと仁を横目でみた。
「僕、変なこと言ってないよ」
仁はユキの考えていることがわかったみたいで、ボソッと答えてお茶を飲んでいた。
ユキは思わずお茶を噴出しそうになった。
母親はその光景をみて微笑んでいた。
「あっ、そうだ。ユキちゃんにも何か作ってあげる。ちょうどかわいい生地があるの」
そういって一度部屋を出たかと思うと、奥からピンクの水玉の生地を持ってきた。
「これで夏のワンピース作ったらかわいいわ。ねぇ、私に作らせてくれない」
突然のオファーにユキは目を白黒させていた。
「遠慮することないよ。いつものことなんだ」
仁が母親のフォローをしていた。
本当は母親がユキを気に入ったことが嬉しくて、つい母親の肩を持つ言葉が出た。
「えっ、いいんですか。嬉しい」
素直にユキは喜んだ。
「それじゃ善は急げね、ユキちゃん上着脱いで」
どこから出したのか、母親はもうメジャーを持っていた。
目が光り、ピーンとメジャーを張ってニヤリとしている。
極道の妻のような気迫をユキは感じて、少したじろいだ。
仁も母のその行動が恥ずかしく、見てみないフリをしてうつむいてお茶を飲んでいた。
ユキは制服の上着を脱いで、そのときハッとした。
同時に仁の母親もあっと声を出して、口を押さえていた。
「ユキちゃん、シャツが……」
体育の授業のあとにシャツを切られてしまっていたが、着ているうちにユキはすっかり忘れていた。
思い出すなりユキは動揺した。
「仁、ちょっと席外して」
瞬時に把握した母親は、もたついている仁を押しのけて追い出した。
仁は仕方なく部屋の外へ追いやられ、ドアを挟んで許可が下りるまで廊下に立っていた。