昼食を終えたあとの午後の授業は、寝不足のレオには試練のときだった。
 黒板の字が何重にもぼやけ、ノートに書きこんだ字が流れるごとくうねっていた。
 目は閉じかかり、半目になってコックリと不意に首がうなだれる。
 はっとしては前を向き、そしてまた瞼が重くなるという繰り返しだった。
 このまま寝てしまった方が楽なのに、それが容易くできないから、寸前のところでそれを阻止しようと踏ん張る瞬間がもっとも苦しい。
 そんな時だった。
 自分の腕に何かが触れ、そして自分の名前が突然耳に入った。
 はっとしたとき、目が覚め、自分が当てられていることに気がついた。
 何かが触れたと思ったものは、沙耶の手だった。
 先生に当てられて、すぐに返事をしないレオを心配して沙耶が親切に起こしてくれていた。
 これも消しゴムを拾ったことで、恩を感じてのことだったのかもしれない。
 レオはさっと立ち上がった。
 お蔭で眠気は立ち去ってくれたが、その後をどうして良いのかわからなかった。
 戸惑っているとき、沙耶が側で囁いた。
「5番目の問題。答えはA」
 何事か分からなかったが、沙耶の教えてくれた答えを言ってみた。
 その答えで先生は満足し、さっさと次に進んでいった。
 次当てられた生徒が立ちあがると、レオは着席した。
 そして隣の席の沙耶を見れば、沙耶はにこっと笑っている。
 その笑顔がまぶしい。
 レオはあたふたするも「ありがとう」と同じように笑顔を向けた。
 お互い照れた笑みを向けたまま、ほんの数秒顔を見合わせる。
 その後はまた何事もなかったかのように、静かに授業を受けていたが、レオの心だけはドキドキとして落ち着かないでいた。
 沙耶との接触は飛び上がるほどに嬉しかった。
 沙耶の気遣いも、ふあふあと気持ちを躍らせてくれて、その余韻に浸ってとても心地いい。
 淡い恋心はこの時すでに燃え上がっていた。
 この気持ちは抑えられるものではなかった。
 例えば、何かの予感を感じたり、勘が鋭く冴えた時の、気持ちが大きくなる瞬間がやってきたとでも言うべきチャンスがそこにあった。
 仲良くなれるのではないかという説明できない確かな感覚を体で感じ、レオは授業が終わると同時に沙耶に声を掛けた。
「さっきはありがとう。お蔭で助かった」
 いきなり声を掛けたことに沙耶はびくっとし、目を丸くしてレオを見つめる。
「ううん、た、大したことことしてないし……」
 弁解がましいというのか、謙遜をしているというのか、ここは素直に「どういたしまして」というだけでいいのに、沙耶はお礼を言われたことに慌てている。
 でも笑顔は忘れなかった。
 それは少し照れて、はにかんでいるところを見ると、恥ずかしいのかもしれない。
 そのせいで、シャーペンを筆箱にしまう手がぎこちなかった。
 消しゴムもしまおうとすると、掴み損ねて指ではじいてしまい机を転がってまた落ちそうになる。
「あっ」
 沙耶が条件反射でそれを掴みそうになったとき、同時に見ていたレオの手も咄嗟に動いていた。
 机から転がり落ちようとしていた消しゴムは先にレオによって救われたが、時間差で沙耶の手も同じ場所に移動していたために、事故として二人の手は触れる結果となってしまった。
 どちらの手も一瞬で離れたが、触れた事実は消せなかった。
 レオも沙耶もドキッとしたのに、仕方がない事としてそれをおくびに出さず、冷静さを装うが、却って沈黙がぎこちない。
 それはお互い意識している証拠となり、どちらも隠すことなどできない初々しさがあった。
「この消しゴム、生きてるぞ」
 レオにとっては精一杯のごまかしのジョークを飛ばしていた。
「あっ、ありがとう。そうだよね。ほんとによく飛んでいくよね、この消しゴム」
 二度もレオに触れられた消しゴムを手にとって見つめ、沙耶は不思議な感覚を味わっていた。
 この消しゴムがレオとの壁を取り除き、話すきっかけを作ってくれた。
 意志を持ってわざとそうしたと思いたくもなってくるというもんだった。
 些細なきっかけで、二人の距離は少しだけ接近したが、レオがもっと積極的に沙耶にアプローチできれば、沙耶も無視することなく、確実に答えてくれるだろうに、それでもレオは折角のチャンスを最大に利用できず、今一歩それ以上踏み込めなかった。
 声を掛けるだけでもレオにとっては精一杯の行動だった。

 まだ恥ずかしさの割合が大きく、壁は取り除けても、相手の陣地へと足を踏み入れられない。
 でもお互い意識している空気というのを感じてしまう。
 脈ありだろうか。
 うぬぼれてしまいたい気持ちと、どこかで牽制して戒める自分の気持ちが、同時に発生する。
 距離的には沙耶は近くにいるというのに、とても遠くに感じては、胸が詰まるように苦しい。
 これが思春期の恋ならば、片思い真っ只中の青春なのかもしれない。
 春の陽気もポカポカとしながら甘く切なく感じていた。
 ただ、沙耶が隣の席という事だけで、学校にいくのが楽しかった。
 気軽に話せないけども、一度話をしたことで、朝は目を合わせて、軽く「うっす」と挨拶をする。
 沙耶は必ず「おはよう」と返してくれるのだった。
 
 ある日の事、教室の隅で女子たちが沙耶を囲んで話しているのをレオは遠くから見ていた。
 聞かれてはまずいのか、時々内緒話のように、顔が近寄ったり、周りの者はちらちらと何気にレオの方に視線が向いていた。
 向こうはばれてないとでも思っているのだろう。
 レオにはすぐに自分の事が話題になっていると気がついた。
 沙耶の友達があざとくレオとの関係を問い質しているのがバレバレだった。
 沙耶は慌てたしぐさで、手をひらひらと何度も振っては否定している。
 あの場合、そうすることしかできないだろうが、女の子というのは人の恋路が気になっては余計なお節介を掛けたくなるものらしい。
 でもレオは思う。
 沙耶は自分の事をどう思っているのか。
 願わくは好かれていたいが、レオもまたはっきりとせぬまま、自分の気持ちを伝えられないだけにいつまでももどかしいままだった。
 このままでは次の席替えで席が離れてしまったら、沙耶との関係はリセットされて、知っているのにどちらも見てみぬふりだけの関係になってしまう。
 寂しくこれで終わってしまっていいのだろうか。
 しかし、沙耶が自分を好きでいてくれる保障などどこにもなかった。
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