第一章


 キュウジはどうしていいのかわからなかったのだろう。
 私も泣いていたとき、自分の事にしか気を回せなくて、周りがどのようにしてたか全く覚えてない。
 何か色々と話し込んではいたようだが、そんなこと気にかけてる暇がなく、この状況が嫌で仕方がなかったので、悲しみが私の周りの全てを消し去っ た。
 キュウジが私の思うようにさせてくれたお蔭で、そのまま厚い胸板を存分に提供し続けてくれていたのは有難く、心地よかった。
 キュウジの胸だと後から気がついても、私はこの場所から離れたくないと必死にしがみつく。
 キュウジの好意に甘え、変な婆さんと思われて嫌われても、キュウジにくっついていられることを逃がしたくはなかった。
 あまりにも自分の思っていたこととかけ離れすぎて、取り返しがつかないこの状況に気が動転してしまい、やけくそも混じって大胆にキュウジを 抱きしめてしまう。
 それが唯一、私を慰めてくれるものであり、私は暫く全てを忘れキュウジを自分のものと思い込んでいたかった。
 周りがどうであろうと、目を瞑ってキュウジを抱きしめて思いをぶちまけるように泣き続けることを、私は望んでやっていたのかもしれない。
 キュウジの胸があったかい。
 キュウジもきっと困りながらも、ここまで泣きじゃくられると私に合わせるしかなかったのだろう。
 一切拒まずに、時折キュウジの手が自分の肩や背中に優しく触れてる感覚がしていた。
 キュウジ、キュウジ、こんな姿になっても私はやっぱりあんたが大好きだよ。
 あーん、キュウジ! ラブ!
 最後の方は、自分の本能のままに気持ちを全開してキュウジに抱きついて、まるで蝉のように自分勝手にうるさく好きと主張するように泣いているだけだった。
 やっと気持ちが落ち着いて泣きやんで気がついたとき、私は広場の噴水の前に連れてこられていた。
 泣きやんだときに優しいキュウジの声がした。
「やっと落ち着いたか? まあ、ここに座れよ」
 キュウジの言葉に促されながら、噴水の淵にキュウジと並んで腰をかけた。
 キュウジは落ち着かせようと、我慢の子として私に辛抱強く付き合ってくれていた。
 それだけでも胸キュンするのに、ずっとキュウジの胸にしがみついていたその感触を思い出すと、ぽーっとしてくる。
 暫く静かに噴水から噴き上がる水の音を聞きながら、ひんやりした空気を肌に感じて、私は視点を合わせることなく前を見つめていた。
 私の大人気ない、いや、さらに通り越した年寄りの身の程知らずな行動を恥じて謝るべきかと悩んだが、敢えて口にすることをやめた。
 人々が行き交うのをぼんやりと見つめながら、私は独り言のように呟いた。
「あれから皆はどうした?」
「スカイラーはジェスの店に戻って、リセとミッシーは帰ってもらったよ」
「そっか。どうかリセとミッシーのこと嫌わないでやってくれ」
「心配するな。婆さんが年甲斐にもなく子供みたいに泣きじゃくるから、とりあえずは仲良くしようってことで、わだかまりはなくなったよ。俺も 大人気なくって悪かった。すまない」
「キュウジ……」
「リセが言ってたよ、婆さんを優しくいたわってくれって。あの子、婆さんのことすごく心配していたぜ。自分のせいで婆さんを悲しませて申し訳なかったっ て、何度も謝ってた。そして俺にも申し訳なかったって、頭下げるんだ。リセは別に悪くないのにさ、俺の方が恐縮したぜ。俺が一番悪かったな。 なんかかっこ悪いぜ」
「違う。一番悪いのは私。キュウジもリセも全く悪くない」
「もういいじゃん、婆さん」
 キュウジは優しい笑顔を、こんな年寄りの婆さんの私にも惜しみなく向けてくれた。
 ここにこうやってキュウジと一緒に腰をかけるシーンは、私の妄想する物語の中でも何度もあった。
 その時、私はリセとしてだったが、それを今こうやって自分が体験していることが嬉しい。
 私がリセの姿ならもっともっと飛び上がるほど喜んだのに、ふと見た自分の膝元が、やっぱり婆さんの前掛けだったのが、残念でならなかった。
 でも隣を見たら、ものすごい近くで憧れのキュウジがいる。
 少し手を伸ばすだけで、キュウジに触れられる。
 しかし、そんなことなど出来ない婆さんということを自覚しているだけに、私は悔しくて自分の前掛けを強く握り締めてしまった。
 だからこそ、リセとくっついてほしいのに、キュウジは本当にリセのことを好きにならないのだろうか。
「ねぇ、キュウジ。 リセのことはほんとはどう思ってるの?」
「えっ、またそのことか。そうだな、そりゃ、悪くはないと思うけどさ、なんか出会いがああなってしまった以上、リセの方が俺のことを嫌な奴だって思っているんじゃないのか」
「そんなことない。リセはよくわからないだけさ。とても無垢で素直な子なんだ。リセだって、キュウジの事をよく知ったら絶対気に入ると思う」
「婆さんはどうしても俺とリセをくっつけたいみたいだな。お節介にもほどがあるぜ」
 キュウジはただ笑っていた。
「お節介とかじゃなくて、私も本気なの」
「なんでそこで、婆さんが本気にならないといけないんだよ」
「だって、キュウジが大好きなんだもん。リセも大好きなんだもん。大好きな二人が一緒になってくれたら、私は嬉しいの!」
「おいおい、なんて理由だよ」
 キュウジは返事に困って、苦笑いになっていた。
 そんな姿もかわいくて、私の胸がキュンキュンする。
 こうなったら、自分の本当の気持ちを伝えたい。
 それがキュウジにとって荒唐無稽な話で受け入れられなくてもお構いなしに、言わなければ気がすまないくらいのところまできていた。
 私はどさくさにまぎれて、本当のことを話し出した。
「キュウジ、ほんとはね、私がリセになるはずだったんだ」
「はっ?」
「私、実は違う世界から来てさ、こんな年寄りの婆さんじゃなかったんだ」
「一体何を言ってるんだい。婆さんしっかりしてくれよ」
 キュウジは呆れていたが、私が真剣に見つめる目を見ていると、急に真顔になっていた。
「婆……さん?」
 キュウジは邪険に出来なさそうにして、暫く黙り込んでは私の思いを受け止めようと気を遣っていてくれていた。
 通りかかる人が見ればとても滑稽な場面だっただろう。
 年老いた老女と、若いイケメンが真剣に見つめあう姿なんて気持ち悪いに違いない。
 それでも私はなりふりかまってられなかった。
 キュウジの前では素直な自分の姿をさらけ出したかった。
 それは創り出したリセのような女性ではなく、本来の自分の姿で語りたかった。
「なあ、婆さん、名前はなんていうんだい」
「名前?」
 そういえば、この婆さんには名前はなかった。
 でも私はすぐに答えていた。
「成瀬ハナ」
 これが私の本当の名前。
 ハナという響きがとても古臭くて、あまり好きじゃないから、苗字のナリセをもじって、リセという名前を生み出した。
「ナリセハナ…… 日本人なのか」
 この婆さんの風貌はどっちかというと麻黒で彫りも深く、ラテン系にみえてたのだろう。
 でも日系も一杯いるし、キュウジも日本人だけど、血が混ざり合ってるから、私のような風貌でもすんなりと違和感なく受け取ったみたいだっ た。
「いい名前じゃないか、ハナって」
 キュウジが自分の本当の名前を呼んだ衝撃が強すぎて、私はその時、ドキッとした。
「とにかく、婆さん、俺のことは心配するな。それに婆さんが俺のことをとても好きでいてくれることは、嬉しいと思ってるし、その気持ちは素直 に俺は受け取っておくよ」
「キュウジ……」
 婆さんの姿でも、これは嬉しかった。
 自分がその姿を忘れて、成瀬ハナとして今自分はここにいるような気持ちになれた。
 急に力がみなぎって、体から蒸気が噴出してはとても元気付けられた。
 自分が婆さんであることをすっかり忘れ、目をランランと輝かせて、成瀬ハナとして私はキュウジと向き合った。
「ハナ……」
 キュウジが私の名前を再び呼んだとき、どきどきが止まらなくなった。
 暫く時が止まったように、私はこの世界に酔いしれた。
 でもそれは長くは続かなかった。
 突然鳴り響いた時計台の鐘の音に私もキュウジもびっくりしてしまい、全てのことを洗い流すように即座に夢見心地は消えていった。
 儚い夢はシャボン玉のごとく、いつまでも形をとどめておくことはできない。
 そして、それはまた自分が婆さんであることもはっきりと思い出させてくれた。
「すまないね、キュウジ。すっかり迷惑をかけちまった。年甲斐もなく、恥ずかしいね。でもこれでいくつか若返った気分だよ。暫くは長生きできそうだ」
 自分から冗談だったといわんばかりに、また婆さんの役になりきった。
「婆さん……」
「キュウジも忙しいだろ。ジェスにも色々と報告しないといけないだろうし」
「そうだな。だけど、今回はちょっと奴らの尻尾がつかめなくて、ジェスには大目玉くらいそうだぜ」
「大丈夫さ。あいつらはまだあんた達の正体には気がついてない。安心しな。もし何かあったら、私がすぐに報告してやるし、絶対にあんた達を危ない目には遭わせないさ」
 私がこの世界を創造した以上、ピッチフォークが有利に立つようにしている。
「頼もしいな。ありがとよ。だけど婆さんも気をつけろよ。この街で結構存在は知れ渡ってきてるし、いつあいつらが絡んでくるとも限らない。用心に越したことはないぜ」
「私は大丈夫さ。こんな婆さんに一体何ができるっていうんだい。先の短い老人にまで手を出すようじゃ、あいつらもプライドが許さないさ」
「それもそうだな。でも婆さんはそんなに年を取ってるっていう風には見えないぜ。婆さん、ほんとはあんた、気ぐるみでも着て化けてるんじゃな いのか」
 そうだったらどんなにいいだろう。
 でもキュウジの口からそんな風に言ってくれるなんて思いもよらなかったから、結構おかしくて私は大笑いをしてしまった。
「着ぐるみか。そうだな。そうかもな」
 キュウジも一緒になって笑っていたが、どこか不思議そうな瞳で私を見ていた。
 コロコロと感情が変わり、馬鹿なことを口走っては、乙女のように恋を告白したりと、そりゃ、こんな婆さんはイカれているとしか思わないだろう。
 でもキュウジのいいところは、決してそんな婆さんでも馬鹿にしないところだった。
 やっぱりいい男だよ。
 私は、腰をあげた。
 心なしか体の節々が痛いような気がした。
 やっぱり年老いていると実感してしまう。
「それじゃ、帰るわ。また後でな」
 潔く去っていこうとする私の後ろで、キュウジが呼び止めた。
「婆さん! リセとミッシーによろしくな。今度は皆でパーティでもしようぜ」
「ああ、そうだね。二人にはちゃんと伝えておくよ」
 傾いた西日の柔らかな日差しが、優しくキュウジを照らしていた。
 私は、キュウジに手を振り、そして踵を返した。
 ある程度歩いたところで、再び振り返れば、キュウジはまだ動かずにそこにいて私に手を振ってくれた。
 律儀な奴。
 益々惚れ直してしまった。
 でも婆さんではどうしようもないから、やっぱりここはリセとどうしてもくっついてほしい。
 一時は絶望的だったけど、和解しただけでもまだ望みはあるかもしれない。
 やっぱり諦めたくないと、体に力が入る。
 その時、力みすぎたのかまた気が遠くなりそうな感覚に襲われめまいを起こしそうになった。
 まただ。
 でもすぐにその感覚は徐々に収まっていき、安心して前を見たときだった。
 そこには靄よりももっと濃い影が現れていた。
 今度はそれがすーっと消えていくところまではっきり見えた。
 一体これはどういう兆候なのだろうか。
 なんだか不安になりつつ、無意識に前掛けのポケットに手を突っ込むと、マーマレードの瓶に指先が触れた。
 一つ手にして、暫くそれをじっと眺めていた。
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