遠星のささやき

第十章 幸せを追い求めて

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 三岡君がとても狭い玄関で、壁に片方の手を置いてもたげながらその空間が窮屈と言いたげに靴を履いている。
 私はじっとその様子をかわいらしいと思って見ていた。
 靴を履き終わると三岡君が振り返り目が合う。
 お互いふーっと息が洩れたような安堵の笑顔を見せていた。
 全てを背負い二人で一緒に歩む覚悟ができた確認の笑み。
 
 再び引き寄せられた二人の心。
 気持ちに正直になった解放の一時。

 三岡君は「またな」と言ってドアを開けると、外の明かるさが強く、暗い部屋から見てると目の刺すような刺激を感じた。
 その時誰かに問いかけられたような気がした。
 
『幸せですか?』

 三岡君はエレベーターに向かって通路を歩いていく。
 エレベーターのボタンを押して振り返ると、手を振り私だけを見つめた目で微笑んだ。
 私は玄関先からドアを半開きにして、三岡君の姿が見えなくなるまでじっと見ていた。
 そして彼が去ったのを寂しく思いながら静かにドアを閉める。
 部屋の中を見渡せば、布団が少し乱れたベッドが何かを言いたげに私に強くその姿を見せ付けた。
 
 ベッドの中では怖いくらい幸せを感じていた。
 でもそこを離れると長く苦しみ続けた日々は終わってない気持ちにさせられる。
 どうしようもなく不安が襲い掛かる。
 好きな人を手にして喜んでもいいはずなのに、これで本当にいいのだろうか。
 疑問は拭いきれない。
 そして本当に辛いのはこれからじゃないんだろうかとまた悪い方へ考える私の癖が出てしまう。
 いつもそう。
 いいことがあってもどこかで覆されるそんな不安を常に抱いてしまう。
 私はまずその気持ちに勝たなくてはならなかった。
 だけど世間一般からしたら、この状況──ちゃんとした言葉でいえば『不倫』、これが正当化されるとは到底思えない。
 悪いことをしている──その認識は確かに心にしっかりと根付いていた。

 それから三岡君は私の部屋に通うようになり、寒い冬でも二人が抱合うと熱く気持ちが燃え盛る。
 こんな風になるなんて想像もしてなかった。
 三岡君ですら、間違ったことが許せないのに、世間から後ろめたいことをして私以上に苦しい思いをしていたと思う。
 それよりも、私と離れてる方がもっと苦しかったと言って、道理から外れても私を取ったんだとそれが正当な理由であるかのように一緒に居ることの意味を見 い出していた。
 強くそれを認めようとすればする程、私達は許されない行為をしているのだと無意識に思い知らされる。
 それでもそのことは決して口に出すまいと、一緒に居るときは忘れるくらい激しく愛し合う。

 だから私も心を保つために理由を求め続ける。
 あの時、子供ができてその責任を取るためだけに三岡君は結婚をしてしまっただけに過ぎない。
 私だってあの時我慢して涙を飲んだ。
 元々はお互い好き同士であり、気持ちはもっと昔から重なり合っていた。
 私があの時まだ子供だっただけ。
 私には不利な条件ばかりに過ぎなかった。
 ただそれだけでしょう。
 そして今は違う、全ての条件を無視すれば、本当に愛し合ってるものが結ばれて当たり前じゃないの?
 私は力強く目を閉じる。
 美幸が子供と手を繋いで私を睨んでいる様子が浮かび上がる。
 顔も知らないのに、目だけ憎しみの炎が燃えたような影……

「どうしたリサ、どこか具合でも悪いのか?」
 仕事帰りに私の家に寄って、ほんの一時を過ごしていた三岡君が心配そうな表情で見ていた。
 コタツに入り、一緒にクリスマスのお薦めスポットが載っていた雑誌を見ていたときだった。
「ううん、なんでもない」
「すまないな。お前に迷惑掛けて。でもちゃんと離婚の話はしているんだ。お前のことも正直に話した。みゆ…… いや、アイツは納得できないと最初はすごい 剣幕だったけど、なぜか不思議と落ち着いてきたんだ。お前に迷惑掛けることは絶対にしない。俺が全て責任持つから」
 私の前では美幸の名前を言いたくない様子だった。
「私達、本当にこれでいいのかな」
「それは本人達が決めることで、誰にも良し悪しを言われる筋合いはないと思う。全ては俺が悪いのは判っているんだ。こんな状況になったら誰しも良心の呵責 があると思うのも判る。でも俺たちは選んだんだ。全てを受け入れてそれを忘れずに生きて行けばいい」
 全てを忘れずに生きる──。
 それって十字架を背負って生きるってことなんだろうか。
 私達そんなに罪深いことをしてしまったんだろうか。
 三岡君もそんな風に話すこと自体、道理に外れていると本当は苦しんでいる。
 この状況が許されるべきものじゃないことを充分に体に叩き込んでいるようだった。
 それでも常識よりも自分の心の想いを優先したい。
 どれだけの人が一生のうちで間違いを起こさずに人生を真っ当するのだろう。
 また、人を傷つけず生きてる人がいるのだろうか。
 
 私はもうわからなくなってきた。
 何が良くて何が悪い。
 視点をずらして各々の話をすれば見方は変わってくるのと同じように、私はこのこじれた状況に埋もれていく。
 
『幸せですか?』

 また誰かに訊ねられた気がした。
 三岡君の顔を見つめる。
 ゆっくりと三岡君の顔が近づいてきた。
 重ねただけの唇だったけど、私の方から激しいキスを求めるように軽く彼の下唇を自分の唇で挟んでみた。
 三岡君はあっさりと私に応えてくれた。
 
『幸せですか?』
 再び心の中で問われる。
──これから精一杯幸せを見つけます。
 それが私の答えだった。
 
 もうすぐクリスマスがやってきて、年末が近くなる。
 そんな慌しい最中に三岡君は離婚の話を進めていく。
 そう言えば、美幸が三岡君と初めての別れ話を持ちかけられたのもこの時期だったとふと思い出した。

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