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三月に入って、日中が春らしくなってきた頃のこと。
この時期は卒業シーズン。
春の日差しが暖かで柔らかい、それを受けてそれぞれの道を歩んでいく。
別れであっても旅立ちのようで明るく感じる。
私と三岡君との別れもそういうものでありたい。
長い苦しみから解き放たれるときかもしれない。
言葉では奇麗事のように飾り付けられるが、気持ちは容易く”はいそうですか”と納得しないのはちゃんと心得ている。
時間がかかるかもしれないのは承知だけど、以前と違うのは自分で縛り付けていたものを解くことができるんだと気がついたから。
三岡君と一緒になれなくてもこんなにも好きでいられて、相手も私のことを好きでいてくれた。
不倫という形は後ろめたいが、ほんのわずかな時間でも気持ちが重なって手に入れられないものを入れた気分を味あわせて貰えた。
好きになってよかったという気持ち、人をここまで愛せるんだと知ったとき、その人に幸せになって欲しいと思ったから。
自分の幸せだけを追求したときが一番苦しくなる。
私は三岡君を苦しめてまで自分だけが幸せになれないと思っただけ。
その時、ふと心が軽くなった。
昨晩は三岡君が泊まった。
泊まっていくのは関係を深めてこれが初めてのことだった。
私の隣で彼が寝ている。
窓から朝の明るさが入り込み、どこからか早起きのスズメの声がチュンチュンと聞こえる。
寝起きのけだるい瞬間。
でもそれが変に心地いいと思えるのは彼が側にいたから。
ゆっくりと体を横向けて、その寝顔をしっとりと見つめていた。
「ん? 何、見てるんだ」
「あっ、起きてたんだ」
私は三岡君にぴたっとくっ付き、温もりだけを感じたくて目を閉じた。
触れた部分が太陽の日差しを受けたように暖かい。
三岡君もその温もりをもっと手に入れたいかのようにぐっと抱きしめてきた。
「リサ、ありがとうな」
「何よ、今さら」
私は目を開けて誤魔化すように笑うと、三岡君もそれにつられて精一杯の笑顔を返してくれた。
三岡君もどこかこの春で自分達の関係がこれで終わりのように感じている。
私が考えていることを読み取ったのだろうか。
どこか悲しげで、寂しい目をしてたように思う。
私も覚悟は出来てる。
一時の幸せでも、これからそれをずっと胸に抱いて生きていけそう。
だからこの瞬間を目に焼き付けておこうと、三岡君をじっと見ていた。
「それじゃ俺、そろそろ帰るな。お前もこれから仕事だろ」
「うん、そうだね」
三岡君はベッドから出ると服を着て帰る支度を始めた。
私はベッドの中でその様子をじっと見ていた。
「そうだ、この間、うっちゃんとトモにリサの連絡先教えちゃった。あいつらが電話掛けて来たら、たまに相手してやれよ」
「なんで勝手に教えちゃうかな」
「いいじゃないか。隠すことでもないだろう。あいつらも助けになるときあるからな。なんかあったら頼ればいい」
三岡君、完全にもう別れる準備に入ってる。
やっぱりばれてたんだ、私が考えていたこと。
「三岡君」
私が心細げに呼ぶと三岡君は側に寄って私の額にキスをした。
すごく寂しそうな目をしていて、潤んでいたようにも見えた。
そして「愛してる」と消えそうな声を発し、無理に笑顔を残して去っていった。
最後にもう一度「三岡君」と呼び止めようとしたのに、声が出てこずに代わりに涙が溢れてきた。
前日、三岡君が夜にやってきて、「泊まっていっていいか」と言われたとき、いつもと違うとすぐに思った。
ずっと朝まで一緒に過ごしたいと思っていたけど、三岡君はそれだけはせずにいつも家に帰っていた。
家では家庭内別居みたいになりながらでも、子供のことを思っての行動だったかもしれないし、まだ自分が離婚していないという自覚だったのかもしれない。
本当のことは判らないにしても、三岡君なりのこだわりを持っていたのは確かだった。
あの人は昔から自分で筋道を立てる人だったから、自分のマイルールというものに縛られるときがある。
そこが真面目といわれるところだった。
でも自分の規則を破ったということは三岡君にとって、心の変化があったということ。
私がそれに気がつかない訳がない。
もしかしたらこれが最後の日?
私はその時強くこれで終わってしまうと感じ取った。
別れるとき必ずしも”さよなら”なんて言葉は必要じゃない。
言わなくてもそれで終わりというときだってある。
最後にベッドで私を腕に抱いて「ありがとう」と言ってきたあの言葉。
あれがこれで終わりなんだという意味だったのかもしれない。
そうか私達はこれで終わりなのか。
そう思ったから、あの時呼び止めようと声が出なかったし、その代わり涙が出てきたというもんだ。
だって私は物分りのいい女。
だから自分で納得いくように、得意の分析をして冷静になろうとしていた。
もうこれ以上何も考えないようにしようと、シャワーを浴びる。
顔に熱いお湯がかかったとき、カーッと目も熱くなる。
流れていく熱い液体はもうお湯か涙かわからなかった。
その日は魂が抜けたように、体もフラフラしていたかもしれない。
仕事は間違わずにできただろうか。
お昼は食べたんだろうか。
それすら覚えてない。
その日のことは記憶に蓄積されずに、空白のままで終わってしまった。
その晩、仕事から帰って留守電のランプを見るまでは──。