遠星のささやき

第十三章

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 カーテンが朝の日差しで透けて見え、遮れなかった光は部屋を仄かに明るくしていた。
 私は目覚めてベッドから身を起こし、暫くぼーっとその状態でいた。
 深いため息を一つつき終るとその勢いで立ち上がる。
 カーテンを開ければ夏が本格的に始まる強い光が一瞬にして届き、目を細めた。
 この時、私は26歳。
 そして無意識に手でお腹をさすっていた。
 時計を見て仕事へ行く準備に取り掛かる。
 まずは朝、シャワーを浴びるのが私の日課だった。
 狭いユニットバスの中へ入ると、まずは用を足す。
 そしてがっかりしたようなため息が出る。
 遅れたことのない生理が一週間も来ない。
 これが何を意味しているか、ここ数ヶ月のことが頭によぎる。
 あの男、相沢英二が一番に浮かんだ。
 職場に来る配送人。
 相沢英二と付き合ったのは退屈だったからに過ぎない。
 婚約者もいると聞いていたし、深く関わることもなく適当にあしらえる。
 相沢英二も30歳になって、漠然と結婚しなければと適当に手頃な女性と婚約しただけだと言っていた。
 だから彼曰く、彼女は綺麗でもなく、悪く言えば普通以下らしい。
 そういう彼も全然モテる要素などなく、身の丈にあった女性だと思っているらしかった。
 要するに特別惚れてる訳でもなく、ただ結婚という形だけ手に入れたかったらしい。
 そんな時に私に会ったもんだから、急に遊び心に火がついて、婚約者よりかは見てくれがいい私に心が奪われる。
 そして、深い絆を望まない私が彼の欲望を満たすのには都合がよく、私もそれを判ってながら適当に遊んでやる。
 私が真面目に付き合ってないのを知ってか、相沢英二も婚約者との関係を壊すことなく、あくまでも結婚は彼女と考えていた。
 今さらそれを破棄する勇気も面倒も全て煩わしく、相沢英二も割り切りながら私と軽く遊ぶ。
 しかし、私の中で男に利用されるだけなのは頂けない。
 だったら私にもっとのめりこめばいいと、またここでもつまらぬプライドが出てしまう。
 魅力のない男だとわかっているのに、私は毒牙に触れさせようとそれだけのために寝てしまった。
 そして彼は頻繁に私の部屋へ通うようになっては、常に体を求めてきた。
 無意味なセックス。
 それを考えると、ぐっと愚かさが込みあがり、熱いシャワーを体で受け、苛つくように髪を洗い出した。
 まだ一週間しか遅れていないだけ。
 楽観的に考えようとするが、シャワーに混じって涙も一緒に流れていった。

 次の日もまだ生理は来なかった。
 もしこのままずっと来ずに妊娠していたら──。
 どうしようと言う気持ちと、愚かな情けなさで不安と怒りが同時に現れる。
 はっきりと妊娠したかわからないが、私は相沢英二にその夜電話で連絡を入れた。

「あのさ、生理が来ないんだ」
 唐突に言ってやった。
「えっ、それって妊娠したってこと?」
「そうかもしれない」
 私はわからないと言う代わりに肯定を前提に答えた。
 相沢英二がどう反応するのか試したくなった。
「そっか、妊娠したのか。それでどうするんだ?」
 慌てることもなく他人事のような返事。
 腹立たしくて見えないところで顔を歪ませ、思わず側にあった雑誌を投げつけていた。
 しかし、何をこいつに期待していたのだろう。
 どうせこんな男などいらない。
 バカさ加減は全く同等だった。
 私も取り乱すところは見せず、平常心を保つ。
「もちろん産むわよ」
「そっか産むのか」
 自分の責任感などないそっけない応答だった。
 無性に腹が立ったが、ここはぐっと我慢して冷静になった。
 最初からこんな事態頭に入れていたわよと強がった態度をとり自分が優位な立場を保つ。
 そんなことして何の意味もないというのに。

 相沢英二と電話を切った後、私は佳奈美に電話していた。
 男を前にしての態度と佳奈美を前にしての態度とでは全く異なる。
「佳奈美、どうしよう。妊娠したかもしれない」
「えっ! それでどうするのよ。その男の事好きなの?」
「ううん」
 小さく否定する私の声に受話器の向こうから大きな息の洩れるため息が聞こえた。
「お金あるの?」
 佳奈美は中絶のことを意味していた。
 私がないと言うと、佳奈美はいざという時は貸したあげるからとよく考えろと言う。
 私の答えはもう決まっていた。
「その時は貸してもらう。ありがとう」
 最初から産むつもりなんて全くない。
 だから躊躇せずに中絶を選べた。
 自殺した人の命の重さのことを知っていても、自分がこれから生み出す命のことは深く考えられない。
 私にはそこまで育てる力もお金もそして何よりこれ以上のものを背負い込むのはごめんだった。
 そんな答えを出した翌日のことだった。
 やっと生理がやってきた。
 珍しく遅れていただけだった。
 ただ良かったと思ったが、情けなさは自分をさらに傷つける。
 それでも懲りずにまだ相沢英二の前では虚栄心を張り、妊娠したままだとずっと嘘をついていた。
 相沢英二も性懲りもなく、ひょこひょこと私のマンションにやってくる。
 私のお腹をさすり
「へぇ、ここに俺の子供がいるのか」
 あたかも子供の誕生を望んでいるように嬉しそうににやけて笑っていた。
──こいつ、バカだ。正真正銘のバカだ。
 責任を何一つ感じず、私が勝手に産んでおけと言わんばかりの対応。
 そして私が妊娠しているからと避妊具をつけずに行為をしようとする。
 そんなことまでされても、私もとことん意地を張る。
 ここで妊娠してないと思われるのも癪で、予め準備した殺精子剤を使って避妊具なしの行為をする。
 こんなことして何になるのか。
 私も負けじ劣らずの正真正銘のバカだった。
 これ以上続けてもいずれお腹が大きくならないとばれるので相沢英二とは縁を切った。
 最後に「生まれたら知らせてくれ」と言われた時には、怒りを通り過ごして殺意が芽生えたほどだった。
 佳奈美に面白半分に一部始終を電話で報告したが「いい加減にしなさい」と怒られてしまった。
 小さく「うん」と言った。
 自分でもどうしようもないくらいどうしてもバカなことをしでかしてしまう。
「私って男運悪いでしょ」
 ぼそっと言うと佳奈美は反発した。
「違う。理沙ちゃんが男見る目がないだけ」
 あっさりと言われ私ははっとした。
 佳奈美の言う通りだった。
 男を見る目がない……
 常に冷めた目で、自分が有利の立場にならないといけない関係重視。
 男の本質など最初から見てなかった。
 三岡君以外いい男なんていないと決めてかかっている。
 男を見る目など全く養われてない。
 男運が悪いんじゃなく、自らこういうことを選んでいるに過ぎなかった。
 私は深くため息をついた。
 暫く沈黙が続き、佳奈美がまた話し出した。 
「理沙ちゃん、自分で悪い方に持っていくのはやめなよ。全ては自分の行動次第だよ」
 佳奈美も心配しているのがよくわかる。
 そして言い難そうに佳奈美は話し出した。
「あのさ、私もうすぐアメリカに移住するんだ。夫が大学院に合格してそこに通うことになったんだ。その後はそのまま仕事探してずっとそこで永住」
 佳奈美がアメリカに行ってしまう。
 留学と違ってあっちにずっと住む。
「そっか、とうとう行ってしまうのか」
「でもまた時々戻ってくるから、また会える」
「そうだね」
 私はそっけなかったかもしれないが、本当は泣きそうになっているのを堪えているだけだった。
 佳奈美まで私から去ってしまう。
 私はどんどん置いてけぼりをくらうようだった。
 その後、佳奈美は本当にアメリカに行ってしまった。
 まだ実感がわかないけど、これから頼りたい時に彼女が近くにいないとわかることで寂しくなるのだろう。
 なんだか年月を重ねて幾度、少しずつ何かを削られていく気分になった。
 年取った時、そこに何が残っているのだろう。
 このままでは確実に何も残ってないのが容易に想像できた。
 でも私はまだこの先どうしていいのかわからない。
 
 妊娠疑惑後、暫くは落ち着いた日々が続いていた。
 さすがにあれだけは少し懲りたところがあった。
 とにかく仕事だけはしっかりとしてなんとか生活できるお金は稼ぎ、気分だけは気ままに過ごす。
 20代もあと残りわずかとなるが、焦ることもなく、第一まず結婚する気など全くない。
 このままずっと一人でいいと思っているくらいだった。
 そしてこの生活がずっと続くと思っていたある日、滅多に連絡をよこさない弟から連絡が入った。
 あの感情をあまり表さない弟が泣いているのか鼻声で伝えてきた。
 何が起こったというのだろう。
 もうそれだけで不安の渦に心が囚われる。
 そして弟は言い切った。
「お父さんが救急車で病院へ運ばれた。もうダメかもしれない」
 それを聞くなり顔が青ざめる。
 詳しいことも聞かず、私は慌てて病院先へ急いだ。
 それは夜中10時を過ぎた出来事だった。
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