遠星のささやき

第八章 偶然では片付けられない偶然

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 就職してから一年と少し、やっとまとまったお金が貯まって、私は就職先の近くのマンションに部屋を借りることができた。
 誰の力も借りずと言えば若干嘘になるが、保証人は父親の名前を借りたから契約の際の書類上の細かなことは仕方がないとしても、敷金、そして家電や家具を 揃えたこと、お金に関係することは全て自分の力でやったことには間違いない。
 これで一人で生活する準備が整う。
 一年かけて貯めたお金はあっという間に底をつき、通帳の数字を見ると身を削られるような気分にもなったが、一人で暮らすことを手に入れたことでまた一か ら貯めればいいと潔くなる。
 ベッドとテレビを置くだけで精一杯のワンルームの部屋、小さなキッチン、お風呂とトイレが一緒の狭いバスルーム、洗濯機が設置された小さなバルコニー、 これでも私の小さなお城。

 四階から眺める景色に自然の美しさも特別感動する風景もなかったが、密集した家や立ち並ぶ建物をやや見下ろす光景は背伸びをして大人びようとしていた昔 の気持ちを払拭させ、一人でしっかりとここで生きていかなければならない身が引き締まる気分にさせられた。
 洗濯も、食事も全て自分でしなければならない。
 不安というよりも急に解放された気分で、自分で稼いで生活するということにみなぎる自信が現れる。
 自分だけの空間で自由気ままの生活。
 小さな部屋を見回せば、そこは楽しい空間に見えてくる。
 何かを必死に積み上げていくようなやる気が不意に現れると、私は部屋の中で一人立ち、納得したように首を縦に一度振る。
 それが一人暮らしの始まりの瞬間だった。

 一年過ぎれば仕事にも慣れ、そして小さな役職が与えられた。
 小物の管理と帳簿付け。
 給料には関係ないものだが、自分の仕事だと思えば責任感も強くなり、やることが明確になればなるほど役に立ってるんだという自己満足にも繋がる。
 ただ無難に働くだけよりも私には自分のすべきことがある方が力を発揮できる気分になった。
 だから頑張れた、先輩主婦社員に意地悪されても──。
 その先輩主婦社員のことは年上でもニックネームでマルちゃんと呼ばされていたが、名前とは裏腹にしゃべる言葉にトゲがあり、またアイラインを目の周りに きつく入れ、見るからにどぎつい人だった。
 誰が見ても意地悪の権化が人間の姿をしているようにしか見えない風貌で、年は置いといて、セーラー服にロングのスカートを穿かせると不良と呼ばれる典型 的なツッパリにすぐなれる素質があった。
 きっと過去はほんとにそうだったに違いないが。
 初めて会ったときからきつい人だと印象を持ったが、接しればそのまま見た通りの人だったのは、判りやすくて笑える。
 意地悪も、常に機嫌が悪い状態でぶっきらぼうに指示され、嫌な顔を露骨に向けられるもので、ネチネチと計算されたものではなかったので判りやすいと言え ばまだ我慢できると思った方だった。
 その時は腹が煮えくりかえることもあったけど、過ぎてしまえばこちらも水に流せる。
 対応に慣れてしまって、耐えて言うことを聞いていたら、自然と向こうから歩み寄ってきてはそれなりに上手く付き合えるようになったもんだった。
 仕事だけは一生懸命やっていればいいと、一人暮らしのために必死で、マルちゃんがどうであろうと私には関係なかった。
 これが親と暮らして逃げ道があったら、簡単にやめていたかもしれない。
 だからこそ、彼女が職場にいても乗り切れた。
 決して楽ではなかったから、正直、弱音吐きたいときもあったけど。

 この頃の私は上の者からかわいがられ、相手の気持ちをコントロールするのがわかってきたように思う。
 癖のある気難しい皆から嫌われている部長であっても、私が話しかけると、笑顔で接して優しくなったりして、男を扱うのが上手くなったんじゃないかと思え てきた。
 ただ男に対しては自分が上の立場でなければ気がすまなかった。
 主導権を握り、尚且つ相手が満足するように自尊心を持ち上げるというのが私のやり方。
 私の術にはまり、寄って来る男は結構いた。
 計算していた訳じゃないけど、それは自然に身についたものだった。
 ──私が相手を思う以上に私を好きになればいい、でも私は……
 こう思うのも過去の失恋が糸を引いているから。

 寄って来る男の一人に堅田さんという有名二枚目俳優にそっくりな人がいた。
 かなりのハンサムと会社の中でも女性には人気があり、彼が私に近寄ってきたときは驚いた。
 でも顔はかっこよくても私が溺れるほど好きになることはなかった。
 ときどき誘われてはデートを重ねたけど、これもまたどっちにとっても都合のいい関係。

 堅田さんには服飾業に携わるものには不利になる色覚障害を持っていたために、色を識別するのが困難なところがあった。
 それをずっと隠して仕事をしていたので彼は悩んでいた。
 その悩みを私だけに告白してきたのがきっかけで親密度が増していく。
 私には全てを打ち明けられると彼は常に私に甘えてきた。
 私も親身になり彼の要求には応えていたが、ある日言われた。
「君はどこか僕を完全に受け入れてくれないね。こんなに優しく支えてくれているのに、心にバリヤーを張ったように僕はそれ以上君に入り込めない」
 私は力なく笑っていたと思う。
 人を真剣に好きになるなんて真っ平ごめん。
 わかる人にはわかるんだなって、それが可笑しくて自分を嘲るように笑っていた。
 その後堅田さんは転勤で地方に飛ばされて私の前から消えた。
 ほらね、いつかはそうやってみんな消えていく。
 真剣にならなくて正解だったでしょう……
 小さなワンルームマンションで私は一人冷めて呟いた。
 恋に関しては一生懸命になれない、寧ろなろうとしない。
 いつまでも私の中では三岡君が残る。
 彼には妻がいて子供もいるというのに、全てが終わった後だというのに、それでも三岡君を思う気持ちは決して消えなかった。
 急に目がうるうが、それ以上涙が出てこないように必死で目に力を入れる。
 もやがはったように胸の中が熱く蠢く。
 いつか忘れられるときが来るんだろうか。
 これ以上に好きになる人が現れるんだろうか。
 答えはすでにわかっていたけど、馬鹿馬鹿しく自問自答をしてみる。
 
 ふと、うっちゃんとトモのことも思い出す。
 三人で祭りの屋台で働いていた姿も浮かんだ。
 あの三人はいつまでもあのままでいるんだろうか。
 一人暮らしの寂しい夜はあの日のドキドキした時が懐かしい。
 感情が溢れ涙が頬を伝ったときが憎らしく感じるときもあるけど。
 そしてお決まりのように出てくる疑問。
 なんで出会ったんだろう。
 一体あの時の出会いにどんな意味があるというのだろう。
 辛いもの以外何も残らなかった。
 まだ私は越えられない壁に囲まれて納得できる答えを見つけようとしている。
 
 苦しい感情の中でふと何気に浮かんだ。
 そう言えば19歳。
 厄年だ。
 先日、実家にたまたま掛けた電話で、母親に気をつけなさいと言われたが、そんなこと言われなかったら、何も意識せず普通だったのにお陰で余計に不吉な気 分にさせられた。
 そして十代最後の年でもあることに強く気づかされる。
 二十歳を目の前に初めて年を取るのが嫌だという気分が芽生えたときだった。
 でも人生の節目で何かが変わるかもしれない期待感もあった。
 変わって欲しいと強く願いつつ、また無理やり三岡君の思いを閉じ込める。

 その時ピーピーと洗濯機の洗いが終わったことを知らせる音が響く。
 バルコニーに出てみれば、夜空に星が出ている。
 周りの建物の明かりが強いのか、星の瞬く光が弱々しく見えた。
 季節は初夏。
 そのうち七夕がやってくるんだなと、まだ両想いで会えるだけでもましだと思いながらため息を吐き洗濯物を干していく。
 時々空を眺めながら、チロチロと瞬く光のその先のずっと向こうの星に思いを馳せてみる。
 小さくても光が弱くても輝いてさえいればまた私も誰かに見つけてもらえる?
 そう思うと同時にシャツの皺をのばそうと力が入って強くパンパンと叩いてしまった。
 やるせない気持ちを打ち消すかのように──。

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