遠星のささやき

第九章

5 

「三岡君!」
 せわしく人が行きかう喧騒の中に紛れ、私の声はいきなり放たれた矢のごとく叫んでいた。
 近くにいた人が何事かと振り返り、私をチラリと見て通り過ぎる。
 そんなことなどどうでもいいように、私はさらに人々の通行の流れに邪魔になるくらい土産物屋や飲食屋がひしめく繁華街の通りで立ちすくんだ。
 その先の仕事場の店の入り口に立っていた三岡君が背筋を伸ばし落ち着いて私の側に近づいてくる。
 その間も人々が私達の間を思い思いに交差して流れている。
 近づくにつれ、三岡君は確かなものを得たように吹っ切れた笑顔になり、しっかりと私を見つめていた。
 ドキドキと心臓が破裂しそうなぐらいの高鳴りの中、一歩一歩近づいてくる三岡君に私はただ目を見開いているだけだった。
 三岡君がとうとう私の目の前までやってきた。
「リサ、嘘ついて呼び出してごめん。ついトモの名前を使ってしまった」
 嘘をついたことで私が怒っているとでも思ったのだろうか、苦笑いになりながら目線を右上にあげ許しを請おうとしていた。
 トモの名前を使ったことなどどうでもいい。
 私が素直に喜べない理由はただ一つ──。
「私達はもう会っちゃいけないんじゃなかったの」
「判ってる。俺もそのつもりだった。だけ ど偶然お前に出会ってから、もう我慢できなくなった。また偶然出会えることを願って、この附近を歩いたり、あいつら誘って近くで飲みにいったりと、自分で もストカーみたいなことしてしまった。でもそんなことしても虚しいだけだった。居酒屋で本当にリサを見たとき、自分で望んでおきながら戸惑ってしまって結 局は逃げちまった」
「あのとき、私、うっちゃんに声を掛けられたのよ」
「ああ、知ってる。トモがあの後のこと教えてくれたよ。うっちゃんの奴失礼なこと言って、リサを怒らせてしまったんだろ」
 私は、またうっちゃんに言われた言葉を思い出してしまった。
『そんなに三岡のことが忘れられないんだったら、美幸から奪っちゃえよ』
 つい手を握り力が入る。
 三岡君はそれに気がついたのか、私を慰めるかのように違う話をしだした。
「なあ、俺があの祭りの時お前に声を掛けた本当の理由がわかるか?」
 三岡君に会っただけでも頭が真っ白になっているときに質問されても、私は何も答えることができなかった。
 ちょうどそこに団体の観光客が胸に同じバッジをつけて、旗を持った添乗員に引率されながら繁華街の通りを歩いてきた。
 思い思いに歩く団体に私達は邪魔だとばかりに端に追いやられてしまう。
「ここにいると邪魔だ。少し歩かないか」
 三岡君が先に歩き出すと私はその後を無意識についていった。
 私達は繁華街を後にして、この辺りで最も有名なお寺へ続く通りを歩く。
 後にここも世界文化遺産として登録されることになる。
 この辺りはお寺がメインの観光地なので、周りは制服をきた修学旅行生や地方から来た団体で固まって歩いている人たちが目立つ。
 この季節は秋の紅葉が深まり、色づいたもみじ、赤や黄色にそまった木々が情緒豊かに景色を彩り、それを見に来る人たちで後が耐えなかった。
 そんな木々の中を抜け、私達は地元の者でありながら、観光客のように暫く言葉なくただ歩いていた。

「さっきの続きだ。答えがわかったかい?」
 私は首を横に振った。
 三岡君はふと笑うと懐かしむように語った。
「あの時、最初に声を掛けようとしたのはうっちゃんだった」
「えっ?」
「誰よりも早くリサに気がついて、好みのタイプだなんて言ったんだ。俺とうっちゃんの好みって結構よく似てるところがあったんだ。それで俺もリサを見てす ぐ気に入った。ほら、うっちゃんって男の俺の目から見てもハンサムな奴だろ。なんか急に負けたくないなって思ったんだ。そしたら自然と声を掛けてたんだ」
 私は驚きながらも静かに聞いていた。
「うっちゃんは俺がそんなことするなんて思ってなかったからびっくりしてたよ。でもうっちゃんは争うとかそういうの敬遠する奴なんだ。それにあの時はリサ は俺の方を見てくれてただろ。だからうっちゃんも何も言わなかった。でもこの間は違った。うっちゃんは自分の本当の気持ちをリサに知って欲しかったんだと 思う」
「そんなの、言われても、私どうしていいか、それに……」
「それについての答えなんて俺は何も求めてないんだ。俺、あの後の話を聞いて思ったんだ。そして目が覚めた。こそこそするんだったら、堂々とリサと会お うって思ってさ」
 それを聞いて、私は何の解決にもならないことに苛立ちを覚えた。
「私のことまだどこかで思っていてくれたのは嬉しいけど、三岡君は結婚してるんだよ。子供もいるんだよ。こんなことしたって、三岡君だって苦しくなるだけ でしょ。それにこういうこと三岡君が一番許せない行為じゃないの」
「判ってるんだ。でももう気持ちは抑えられない。お前を見たらあの時の判断が間違ってたように思ってしまう。自分がもっといい加減な性格だったらよかっ たって思うくらいだ」
「そんなこといっても、過去は変えられないし、子供ができちゃったんだからああいう判断でしかできなかったと思う。三岡君も私も過去の悲しい思い出を美化 しすぎなんだよ。手に得られなかったことにいつまでもこだわって、そしていいところだけしか覚えてない」
「そうかもしれないな。だけどお前は俺の中で一番なんだよ。いつまでも、この先もずっと」
 この言葉で私はもう簡単に泣き崩れてしまった。
 真剣に見つめる三岡君の目。
 我慢してたものがもうはちきれて立っていられないくらい力が抜けていく。
 気がつくと私は三岡君の胸にすっぽりと包み込まれていた。
 制服を着た高校生達がひそひそと指を指しながら冷やかすように遠目で私達のことを見ていた。
 側を通った人はぎこちなく見てみぬふりをして過ぎ去っていった。
 私はもう勢いに飲まれ何が何かわからなくなっていく。
「リサ、俺今でもお前が好きだ。こんな立場であっても、あの時お前を捨ててしまっても、それでもお前が好きだ」
「三岡君……」
「俺、自分に素直になりたい。何もかも失ってもリサと一緒にいたい」

 もうダメだった。理性や理屈、常識といったものは私の頭から排除されてしまった。
 それは三岡君も全く同じことだった。
 再び出会ってしまった二人の心は、この時一瞬にしてまた求め合いそして後先のことも考えられないまま己の欲望に負けてしまった。
 どんなに責められようとも、もう二人の気持ちは離れられなかった。
 うっちゃんが言った「奪う」という言葉の意味がこのときになって私の心を占める。
 元々三岡君は私のものだった。
 この時ほど私は自分が酷い女だとは思わなかった。
 私はとうとう三岡君と一線を越えてしまった。
 自分のマンションの部屋、ベッドの中で激しく抱合う。
 この後、さらに苦しくなるのを覚悟して、それでも私達はずっと遂げられなかった二人の思いをこのときばかり深く刻みあった。
 愛する人に抱かれるのは怖いほど幸せだった。
 三岡君の全てが愛しかった。

「リサ、俺、後悔してない。これから俺は俺でけじめをつけようと思う。美幸とは別れるよ」
「だめだよ、それは。子供だっているんだよ」
「判ってる、それはそれで責任取る。この先俺はリサに苦労かけるかもしれないけど、それでもお前といたいんだ」
「世間ではきっと許されないと思う。私達罪を犯したようにきっと一生責められると思う。それでもいいの?」
「ああ、覚悟はできてる」

 三岡君は私を力強く抱きしめてくれた。
 私は腕の中でなぜか震えていた。
 美幸という存在とその子供のことを考えると心にどこか引っかかる。
 この先本当にどうなってしまうのだろうと、見えないものに怯えていた。

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