第一章


 曖昧なぼやけた記憶の中、映写機のスイッチを突然入れられたように昔に出会った男の子の顔がぼんやりと映し出された。
 忘れていた記憶は正確な時期までははっきりと蘇らないが、ケムヨが小学生の高学年くらいで、自己主張がそろそろ出来るようなおしゃまな年の頃だった。
「いつもあの人たちから逃げてるの?」
 あどけない瞳の男の子が不思議そうにケムヨを見つめ、小さな声で訊いていた。
 ケムヨが「しー」っと指を口元に当て息を潜めると、男の子は一瞬にして緊張し、体を縮めるように力が入った。
 二人はこそこそと周りを気にするように建物の間の隙間に身を隠し、そこに置かれていたゴミ箱の影でしゃがんでいた。
 それに気がつかず、二人の大柄の男たちがケムヨの名前を呼びながらまっすぐ過ぎ去って行く。
 声が遠くなると、ケムヨは建物の影からそっと伺い、去っていった大人達の後姿を確認してから「もう大丈夫」と呟く。
 ほっと息をつき、そして二人だけで遊べる場所を求めて用心しつつ、下町の中を歩き出した。
 目が合えば二人はニコッと微笑む。
 その男の子と会うときはいつもこんなことを繰り返していた。
 そしてある日のこと。
 ケムヨは手に長方形の箱のようなものを抱えて走りながら、その男の子に会いに来た。
 はあはあと息が切れる中、持っていたものを突き出す。
「これマサキ君にあげる」
 それは100色ある色鉛筆のセットだった。
「こんなに沢山の色鉛筆をくれるの?」
 受け取ったときずっしりとくる重さにマサキと呼ばれた男の子は驚いてしまう。
「これで一杯絵を描いて。私マサキ君の描く絵が大好き。マサキ君、絵を描くのほんとに上手いんだもん。いつか私にも描いてね」
 マサキとはどこで知り合ったのか詳細は思い出せないが、絵を通じて仲良くなった友達だった。
 マサキは絵を描くのが上手く、偶然それを見たときケムヨは子供心ながら感銘を受けた。
 自分も絵を描くのが好きで買ってもらった色鉛筆だったが、この先益々隠れてマサキと会えなくなるのを分かってかケムヨはそれをマサキにあげた。
「わかった。ありがとう。それじゃどんな絵を描けばいい?」
「王子様がお姫様を悪い魔法使いから救ってる絵」
「王子様、お姫様、魔法使い……」
 マサキはイメージを浮かばせるように、首を上向きに上げ考えるしぐさをしている。
 その時、見つけたと言わんばかりに後ろからケムヨが大人たちに押さえつけられた。
 嫌がるケムヨだったが、有無を言わさず大人たちに連れて行かれる。まるでそれは悪い魔法使いがお姫様をさらっていくようだった。
 マサキは助けたかったが、小さすぎてあまりにも無力すぎた。
 それでも思いが口から飛び出す。
「僕、いつか助けに行くから、だからまた一緒に遊ぼう」
「マサキ君!」
 そして、またマサキに会えることを願っていた。いつか絵を描いて持ってきてくれるとケムヨは信じていた。
 だけどそれは叶わぬ夢となった。
 マサキは交通事故に遭い、この世から消えてしまったと知ったのはそれから数年後の事だった。
 
「おい、どうかしたのか?」
 視線も合わず、固まって動かずに遠いところを見ていたケムヨの顔に将之は掌をひらひらと振っていた。
「マ…… サキ……」
 ケムヨの呟きに将之は「ん?」と首を傾げた。
「それじゃ、次は二次会としてカラオケ行きましょうか」
 突然、豪が大きな声を出す。
 それにケムヨは我に返ったと同時に将之と目が合った。
 慌てて目を逸らし席を立つ。
「私は遠慮しておく。ここまで付き合ったんだからもういいでしょ、夏生」
 夏生もこれ以上引き止めてもケムヨを怒らすだけだと思うと「うん」と首を縦に振った。
 会計は仲良く割り勘ということになり、ケムヨは自分の分を夏生に渡し、夏生の旦那を筆頭にこの日出会った男性達にきちっと挨拶をすませていた。
 将之にも分け隔てなくビジネスのお手本のような丁寧なお辞儀をして、後は静かに早々と去って行った。
「なんかケムヨさんてかっこいいですね。今日のケムヨさんって会社で見るのと全然違う」
 留美が誰に言うわけでもなく自然と口から漏らす。
 貴史が少し離れたところで将之に耳打ちする。
「どうやら、俺の勝ちみたいだな」
「ああ、悔しいけど、今日集まったメンバーはお前の言う通りだった。だけどまだ俺はアイツの返事を聞いてない。チャンスはこれからだ。俺は今からアイツを追いかける」
 そういって、皆に簡単に挨拶をして将之はケムヨの後を追いかけた。
「将之さん、ケムヨを気に入ったみたいだね」
 真理絵は夏生にめでたいつもりで耳打ちする。
 夏生は本当にこれで良かったのか心配になってきた。
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