第十章


 この日は午前の失態を取り戻すため、全神経を集中させ、疲れを見せないようにと笑顔も振りまいて踏ん張って乗り切った。
 何もかも終えて、ゲンジが迎えに来た車に乗ったとき、やっと解放されるとばかりに後部座席のシートの上で溶けていく気分だった。
「お嬢様、お疲れ様です」
 ゲンジは労いの言葉を掛け、家路へと車を走らせた。
 ケムヨはこの日の一日のことを振り返り静かに乗っていたが、幸助が戻ってきたことを考えているとゲンジがワインを持ってきた日のことをふと思い出した。
「ねぇ、ゲンジさん。もしかして最近私の父と会いませんでしたか?」
「いえ、お会いしておりませんが……」
「だけど、いつか持ってきてくれたあのワインは父が製造したものじゃないんですか?」
「はい、あのワインは若旦那様が味見をして欲しいと何本か私とシズに送ってくれたものでした。とてもおいしかったので、お嬢様にも是非飲んで頂きたかった訳でございます」
「そうだったの。まずは一番話の分かるゲンジさんとシズさんに意見を聞いて、その後に帰国しておじいちゃんのところに行ったってことか。だけどなんで私に会いに来ないのよ」
 また怒りがぶり返し、不満の声を漏らしてしまうケムヨに、ゲンジは幸助を庇うように口を挟んだ。
「あの、若旦那様はお嬢様にも会いに来られたみたいですけど」
「えっ? どういうこと」
「実は家の前まで来られたみたいでしたが、ちょうどお嬢様のお客様が来ていらっしゃるのを見て帰られたご様子でした」
「でもゲンジさんは父に会ってないって言ったわよね。どうしてそんなこと知ってるんですか?」
 幸助を庇うがあまり、ゲンジは墓穴を掘ってしまい、正直に話しだした。
「そ、それが、その若旦那様とお会いになったのが、その篠沢さんでして、お話を聞いていたら若旦那様が来られたと知った次第です」
「なんで、将之が私の父と会ってるのよ」
 ケムヨは驚いて、つい身を乗り出してしまう。
 もし父が変なことを将之に話していたらと思うと血の気が引いていく。
 その様子をゲンジはすぐに悟り、シズも同じ事を思いそれについて将之に尋ねたが、心配するような話はしてなかったことを伝えた。
 ケムヨはそれで一応安堵の息が漏れ、身を引いてどさっとシートの背もたれに力強くぶつかっていた。
 だがまた疑問が湧くと体が勝手に前のめりになる。
「だけど、それならどうして将之は私の父に会った事黙ってるの?」
「あっ、それは……」
 ゲンジは言い難そうにその後を続けた。
 事を荒立てることを恐れて、自分たちが黙っているように差し向けたと申し訳なさそうに説明する。
 自分が気を遣われていることでケムヨは納得したが、自分の知らないところで起こったことだけに少し気分を害していた。

 車が家の前に止まる瞬間、プリンセスが突然現れて車の前をすばやく横切った。
 ゲンジは咄嗟に「危ない」と声をあげ、肝を冷やしていた。
 ケムヨもドキッと心臓が跳ね上がった気分だった。
 普通に走ってきた車だったら轢かれていたかもしれない。
 車を降りるや否や、ケムヨは猫相手につい声を荒げてしまう。
「ちょっとプリンセス、車には気をつけなさい」
 しかしプリンセスはケムヨの目の前で暢気に毛づくろいをしていた。
「あのね、プリンセス」
 なんとか言い聞かせたいと、車庫に向かって去っていくゲンジが運転する車を指差し、車が危険な物だと分からせようとするが、全く無駄だった。
 プリンセスは立ち上がり、尻尾を立ててケムヨの足元に絡み付いてきた。
 ケムヨは鼻から息が漏れるように呆れ返る。
「その調子じゃ、餌を要求ってことね。将之も忙しくてあまり来られないみたいだし、結局は私が世話係りってことか。仕方ないな。ほらおいで、餌あげるから」
 餌という言葉だけは理解できるのか、プリンセスはケムヨを見上げながらリズミカルにケムヨの後を着いていく。
 話がわかるのかわからないのか、それでもケムヨに素直に懐くプリンセスはとてもかわいかった。
 警戒していた日々が嘘のように思え、そんな猫の姿を見ていると癒されていくようだった。
 特に疲れたこんな日にはプリンセスを見るだけで自然と笑みがこぼれてくる。
「プリンセス、もうすぐ将之が迎えに来るみたいだぞ」
 プリンセスは分かってるとでもいいたげに「ニャー」と返事する。
 すっかり人間に心を許しているプリンセスの姿に、最初懐かなかった野良猫でも素直になると可愛くなるものだと感じていた。
 さらにプリンセスは喉を鳴らしながら頭を摺り寄せてくる。その姿は素直に自分をさらけ出していた。
 プリンセスがここまで懐いた過程を追っていくと、自分も将之と深く関わってしまったと再確認する。
 そしてその時ふと夏生の言葉が頭をよぎった。
『将之さんって、ケムヨちゃんと話が合いそうだね。翔さんよりはよほどケムヨちゃんに合ってると思う』
 将之の前では翔の時のように全く構えてなかった。
 そして自分もこのプリンセスのようになってきていると思えてならなかった。
 暫く玄関の前でプリンセスを見つめていると、ドアが開いて中からシズが出てきた。
「お嬢様、お帰りなさい。車の気配はしたのに中々家に入ってこられないので何かあったのかと…… あら、猫のプリンセス。今日は篠沢さんはまだ来られてないんですか?」
「忙しいからあまり来られないので、私が餌やっててくれって頼まれて」
「そうなんですか。それなら私もお手伝いします。プリンセス、今餌あげるからね」
 プリンセスはすぐに反応し、ケムヨのことはどうでもいいとシズの方に注意を向けた。
 シズが餌を運んできたときはシズの足元に濃厚に纏わりつく。
 またその様子は都合のいいようにどっちにもなびく優柔不断な姿に見える。
 まるで将之と翔との間で揺れ動いている自分の姿にも見えるようだった。
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