第十章
6
普段は気楽に働ける職場が、翔の登場で茨に囲まれたジャングルとなってしまい、また時間が経つのが遅く感じる。
このままではやっていけないとまで思えて、ケムヨは専務の須賀の所へと向かった。
社長直々の命令だが、事情を良く知っている須賀に助けを求めれば変更可能かもしれない。
それを期待して、須賀のいる部屋のドアを叩いた。
中から返事がしたので、ドアを開けるが、そこにはすでに他の来客がいた。
だがケムヨはその人物を見てはっとしてしまう。
「どうしたのかね、ナサさん」
しがないパートの名前を親しげに呼ぶ須賀にそこに居た人物もまたはっとした。
「あ、あのお取り込み中でしたら、また後日に伺います。お邪魔してすみませんでした」
また引っ込んでドアを閉めた後、ケムヨはついてないと思った。
新たな火種にならないかと心配する。
須賀の前に居たのは只今不倫中の吉永課長だったからである。
吉永が一瞬見せたあの表情は、ケムヨの登場で何か都合が悪いことになると思ったからに違いない。
それとも考えすぎだろうか。
ケムヨはゴタゴタに巻き込まれすぎて神経が磨り減っていった。
そろそろ終業時間だというのに、翔は残業を命じてケムヨを上がらせなかった。
翔にとっては海外勤務を終えて久し振りの日本での仕事のために、全てを把握していたいという熱心な仕事振りから、ケムヨの助けが必要不可欠と感じたのかもしれない。
だが、次々と社員達が帰っていく中、二人きりになったときそれはただの口実だったとケムヨは気がついた。
「夕飯一緒に食べないか?」
「何を言ってるんですか、勝元課長補佐。ランチすでに一緒に食べたでしょ。もうそれで充分です」
「今度は二人きりで話がしたい」
「何を話すんですか。仕事のことならまた明日でも……」
ケムヨはここまでは翔のことを上司として対応していた。
だが次の翔の言葉でそれもできなくなってしまう。
「ケムヨ、どうすればお前は俺を許してくれる? 俺は本当に後悔してるんだ。以前と同じようになるにはどうしたらいい?」
「翔、言ったわよね。私情を挟むなって。今翔がやってることは私情を挟んでいる。ランチの時もついて来たし、残業もこんな風にもっていくためにわざと遅くまで私に仕事をさせたの?」
「そうだったな。確かに俺は私情を挟んでしまったな。しかし、こうでもしないとケムヨはすぐ俺の前から姿を消してしまう。こうするしかなかったんだ。頼むもう一度チャンスをくれないか」
翔は真剣な眼差しでケムヨを見つめる。
また過去のことを思い出し、この時も辛いことを棚上げして楽しかった部分だけが誇張されてくる。
ケムヨの心が揺れ動いてしまう。
それでもやはり口から出る言葉は翔を突き放した。
「翔、やっぱりできないのよ」
「なぜだ。今すぐに寄りを戻せとは言ってない。ただ俺をもう一度見て欲しいんだ。そのチャンスが欲しいだけなんだ。そんなに俺を拒むのはもしかして、あいつが関係しているからか?」
それは将之のことを意味していた。
「違う、私は誰とも付き合うつもりなんてないの。一人で生きていく覚悟をしたの」
「今はそう思っていても、それは君には重荷過ぎやしないか? いずれ誰かを頼りたくならないのか? いつかきっとそうなるような気がする。ケムヨは昔から一人で抱え込んでばかりだった。俺なら全てを理解して支えてやれる」
翔がケムヨの秘密を知っているから出てきた言葉だった。
ケムヨは黙り込んでしまったが、翔が全てを知っているとはまだこの時気がついていない。
誰かを頼りたい。支えて欲しい。
その言葉はケムヨの心で響いた。まさにこれからのことを考えると、あまりにも自分に降りかかる役割が重すぎる。
翔ならそれを軽減してくれるのかもしれない。
元恋人を目の前に、ケムヨは自分の意地と情の狭間で揺れ動いていた。
ケムヨも仕舞いにはどうしていいのか、茫洋とした心の中で迷い込んでしまった。
「ごめん、今日は疲れたの。明日も早いし、これで失礼します」
逃げてると思われてもいい、とにかく一刻も早く翔から離れたかった。
ケムヨは必要なものを手にして部屋から飛び出して行く。
「ケムヨ」
翔は名前を呼んだだけで追いかけることはしなかった。
これ以上しつこくしても裏目に出る。
それよりもケムヨの心の揺れはしっかり見えたと、とにかくチャンスを伺うしかなかった。
「いつかきっと入り込める隙が出てくる。そこを狙える」
翔は持久戦に持ち込む覚悟で勝利を想像し、片方の口元を少し上げて粋がってみた。
だがケムヨの近くにいてもすぐに触れられないことで欲求不満を引き起こし、焦りが胸の内から突き上げる。
ネクタイを少し緩め、どかっと椅子に座って暫くどうすべきか考えていた。