第十一章

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 次の日の金曜日の朝。
 ケムヨはいつもより早く出かけ、ビルの入り口で翔を待っていた。
 翔の方が先にケムヨを見つけて掛け寄って来る。
「こんなところで何をしてるんだ。まさか俺を待ってたとか?」
 冗談で言ったところ、ケムヨが首を縦に振ったので翔の顔が輝いた。
 だが、会社のトラブルのことだと知ってすぐにがっかりしてしまう。
「なんだ、上司として待ってたのか。まあいいけど」
「とにかく翔の助けが必要なの」
「わかったわかった」
 部署に行く前に人が居ない部屋を見つけ、そこでケムヨは一部始終を説明した。
「そっかなるほど、そういうことか。ケムヨが将之なんかと知り合うからとばっちりうけるんだぞ」
「なんでそうなるのよ。それは関係ないでしょ」
「だけど吉永課長の件もこの件にしても人間の醜さが露呈し過ぎだ。ケムヨもとんだ災難だったな。さて、この件についてはどうしようか。証拠がないだけに難しい…… それならば証拠を作ればいいか」
「えっ? どうやって作るの」
「まあ一か八かやってみるか」
 翔はケムヨに先に行ってろと言ってどこかに消えていった。
 一体何が始まるのかさっぱり見当つかないまま、不安だけが押し寄せる。

 オフィスに入ったとき、すでに来ていた優香と目が合った。
「ケムヨさん、おはようございます。昨日はありがとうございました」
 すっきりとした笑顔を添えて優香はケムヨに挨拶した。
 留美も小走りで寄って来た。
「ケムヨさん、おはようございます。優香から昨晩電話で全て聞きました。優香が犯人じゃなくてほんとによかったです」
「でもまだ終わってないからね。これからが正念場よ。とにかくいつも通りに仕事は一生懸命やりましょう」
 優香も留美も元気に返事をしていた。
 その向こうで園田睦子は素知らぬ顔でデスクに座っている。
 ケムヨは憤りを感じ、人を陥れる策略を練る園田睦子が許せなく体が震えていた。

 その後、暫くしてから翔が「おはよう」と大きな声を掛けて部署に入って来た。
 部下達と機嫌よく挨拶を交わして、いつもと何ら変わらなぬ態度だった。
 一体何を企んでいるのだろうか。
 ケムヨは心配した表情で翔を見つめると、翔は自信溢れる笑顔をケムヨに向けた。
 昔もそうだった。ピンチに陥ったときや、息詰まったときですら翔は不敵に笑う。
 そうやって自分達は幾度の問題を上り詰めてきたことを思い出していた。
 翔が居たから、どんな困難に出会っても解決できると信じられた。
 少なくとも翔を頼っていたところがあったと、あの頃を急に懐かしく思い、ケムヨは複雑な思いを抱いて翔を見ていた。
「ちょっと皆集まってくれないか。仕事に取り掛かる前に少し話したい事がある」
 翔のよく通る声が部屋一杯に広がる。
 ケムヨの体に緊張が走った。
 従業員達は何事かとぞろぞろ集まってきた。
「実は俺宛に怪文書が届いた」
 翔はその紙をひらひらと上に掲げて見せている。
「一体何が書いてあったんですか?」
 誰かが先を急がした。
「それが、重要書類が破棄されていたことが書かれていた。俺が来る前の出来事だからさっぱり分からないんだが、それの犯人についてだった」
 大体のものは優香に一瞥をちらりと向けたが、優香は前を見据えて堂々としていた。
 留美もその隣で優香を支えるように息を飲んで体に力を入れた。
「どんな内容か読んで下さいよ」
 また誰かが言った。
「それじゃ読み上げるぞ」
 翔は物事の始まりに相応しいように、エヘンと一度喉を振るわせた。
 それは自分の力量に掛かっていると、気を引き締めているようにも見え、またはケムヨにこれからのことをしっかりと見ておけと知らせているようにも取れた。
 翔はゆっくりとその文書を読み始めた。
「『重要書類が破棄されていたことで犯人に言いたい。あれはノノヤマユウカの仕業とされたが全くのでっち上げである。なぜなら、こ の私がその書類を破って捨てるところを見ていたからである。しかもその犯人はナサケムヨにも罪を被せ、嫌がらせをしている。今回ノノヤマユウカが疑われた のも、元々はナサケムヨに罪を被せるつもりが、その時ナサケムヨは休みでいなかったために計画が変更になったからである。実はナサケムヨに嫌がらせをした ときもしっかりとその犯行現場を私は見ていた。証拠も持っている。その様子を携帯のカメラに収めている。本当なら犯人本人に脅迫しようとかと思ったが、ナ サケムヨとノノヤマユウカがあまりにも可愛そうに思えてここに告発の形をとったと言う次第である。もしまだ良心が残っているのなら名乗りを上げてこの二人 に謝りたまえ。それができないのなら次回は犯人の名前と証拠写真をつきつけることとする。これを読んでから一日の猶予を与える』 以上だ。俺にはさっぱり だが、皆には何のことか分かってるのか?」
 数人頷いて返事をするものがいた。
「そっか、これが送られてきたということは犯人はこの中にいるということになる」
 翔が一芝居を打っている。
 ケムヨが言った言葉をそのまま引用し、はったりまで加えて大胆な行動だった。
 翔のアイデアは少々強引過ぎる。
 助けを持ちかけたケムヨ自身戸惑っていた。
 優香も名指しされて鳩が豆鉄砲食らったように驚いている様子だった。
 事が起こってしまった以上成り行きを見守るしかない。ケムヨはこっそり園田睦子を一瞥した。
 隠そうとして平常心を装ってはいるが、血の気が引いたようにどこか表情がぎこちない。
 それだけではまだ犯人と決め付ける要素が弱すぎた。しかし、こんなものでも当事者にしてみれば多少の動揺を与える効果があるものだった。
 園田睦子の瞳が潤っている。恐怖心からか、今にも泣きそうな顔になっていた。
 もう一押しだと、どこか体に力が入ってくる。上手く行くことを願いつつも、しかし、必ずしも成功する保障もない。
 もし名乗りを上げなかったら、次はどうするつもりだろうとケムヨは不安になってきた。
「ケムヨさん」
 優香も側で助けを求めるように寄り添ってきた。
 その二人を従業員たちは遠目に見ている。
「ナサケムヨ、ノノヤマユウカ、二人に聞くが嫌がらせをされたのは事実であるか?」
 翔がこの劇に参加しろと言わんばかりに名指しする。
「はい、そうです。私達は身に覚えのないことを自分達のせいとされました」
 状況を把握してケムヨも翔に合わせて答える。
 優香も全く同じだと力強く「その通りです」と返事した。
 ケムヨは内心ヒヤヒヤしていた。インパクトが強すぎて、あたかもそこに真実があるようにもって来ているこの状況は実は脆くて壊れやすいことも承知している。
 諸刃の剣──。
 誰かがこの告発に少しでも疑問を持ったら、それまでになってしまう。
 しかし翔は全くそのことを恐れてない。弱みを握られないように完璧にこの状況をコントロールしている。
 翔は恐れず突き進む。
 緊張した張り詰めた空気が漂う中、翔は敢えて笑顔を見せた。
「これをこの公で読み上げたら、犯人は益々名乗りを上げにくくなる。俺だったら白を切り通すだろう。犯人が恐れていることは二つ。自分が犯人だと知られる こととその後の処分だ。だからここで取引しようじゃないか。犯人の名前を俺は明かさないし、俺がこの件の肩を持ち、被害者二人からの許しを俺が請うてやる。だか ら正直に俺にメールで自分がやったと名乗って欲しい。俺は秘密厳守でこの部署の誰にも漏らさないことを約束する」
 いやに『俺俺』を強調していることでケムヨは翔の意図に気がついた。
 この戦略が上手く行くか行かないか、ハラハラしながら見守っていた。
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