第十二章 冷たい雨は容赦なく頭上に降り注いでいた
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翔が作り上げた告発書で、朝は誰もが懐疑的になり不穏な空気が充満したまま、皆仕事に取り掛かった。
一体誰が犯人だろうと勘ぐり過ぎてオフィスがギスギスしている。
自分じゃないからとわざわざケムヨと優香にいいに来るものもいた。
翔は気にせず出張でいない課長の代理を務めている。
雰囲気が悪くなったオフィスで一番居心地が悪くなるのは園田睦子だった。
ケムヨが確信したように、園田睦子が犯人だった。
園田睦子も夏生が主催する合コンに行きたいとしつこく付き纏っていたが、ただの女子だけでの食事会に変更されると知って断った口だった。
優香と同じように出会いの場を求め、医者と結婚した夏生にあやかりたいと躍起になっていた。
優香のように感情を出さないが、心の中では暗いパートのケムヨが、その合コン先でかっこいい男と出会ったことを妬んでいたという訳だった。
デートして、白昼堂々と抱きついているところを実際に見ると無性に悔しくなり、嫉妬の塊がケムヨを憎く思うようになった。
苦しめてやりたい、堂々と意地悪して困らせてやりたい。
そして自分の目の前から追い出すつもりで、嫌がらせを始めた。
だが、思うようにケムヨは堪えない。わざとミスに繋がることをしても致命傷を与えるほどではなかった。
ところが、ケムヨの休みの日に出勤だと思って嫌がらせを仕掛けてしまい、今度は自分が失敗を犯してしまった。
かなり焦ってしまったが、それは偶然優香に罪を被せる事ができて命拾いをする。
こうなると、ケムヨを追い出すことよりも自分を守る事が優先になってしまい、優香に全ての罪を着せることを考え付いた。
優香は感情的になりやすく、利用するにはもってこいの存在だった。
派遣ということもあり、このまま辞めてくれたら一件落着で終わる予定だったのが、突然の告発書によって園田睦子は絶体絶命となってしまった。
この告発書もどこか胡散臭い。
園田睦子は自分が仕掛けた嫌がらせを人に見られていたとは思えなかった。
だが、誰もその告発書についての審議を語るものが居ず、話題にしようものならすぐに疑いの目が自分に掛かってしまうのではと恐れる。
部署内の従業員達も李下に冠を正さずで誰一人それには触れずに、卑劣な犯人がこの部署にいることを非常に迷惑し、誰もがピリピリとしてこの場の空気を悪くしていた。
そんな時に、人を怪しんで見ている一部の従業員達と目が合ってしまい、園田睦子はこの上なくドキッとしてしまった。
孤独のために、一人で対処しきれず、この雰囲気にどんどん飲まれていってしまう。
完璧にやったつもりの嫌がらせ行為も、もしかしたら本当に誰かに見られていたのかもしれないと思うようになり、自分で自分を追い込んでいく。
いつ自分が犯人だとばれてしまうのかと恐れ、ビクビクしだしてしまった。
脂汗も出てきて、落ち着いて仕事も身に入らない。このままでは態度がおかしいと思われ、簡単にばれてしまう可能性もある。
そうなる前に、翔の言葉を信じ正直に話せばなんとかケムヨと優香と和解できて、自分も職を失わずにすむかもしれない。
その一縷の望みに園田睦子は賭けた。
追い詰められた結果、園田睦子は翔の言葉をいい様に受け取り、上手く解決してくれるとばかりにこっそりとメールを送った。
翔はそれを受け取ったとき、自分の勝利を自覚した。
「やはり完全に悪役にはなれないタイプだったか」
コンピューターの前で小さく独り言を言っては、鼻で笑っていた。
これもまた犯人の心理を利用した翔の作戦だった。
そして午後もう一度、翔は号令をかけ従業員を集めた。
「皆に連絡しておこうと思う。俺宛にメールが入った。これは朝言ったように約束だからここでは俺は誰だとは言わない。俺がそのことを把握しているといって、皆も名前については俺にこれ以上追及しないで欲しい」
上手く事が運ぶかもしれないと期待して、園田睦子はここでほっとしていた。
「でも、勝元さん、それって犯人を匿うみたいでずるくありません?」
「そうですよ、ここは犯人に責任取ってもらわないと納得できません。いつまた自分達にもミスを押し付けられるかもと思ったらたまったもんじゃないです」
従業員達が意見を出し合う。
その時、園田睦子は拷問に掛けられたように苦しい思いを抱く。翔の言葉をとにかく信じるしかなかった。
「言っておくが、俺は犯人を庇おうとか一切思っていない。この事件を片付けたかっただけだ。これで証拠となる告白メールもあることだ。そしてこのメールについては皆が証人となった」
「一体どういうことですか?」
園田睦子も固唾を飲んでいる。
「メールを書けと無理に強制してないってことさ。犯人は自発的に送ってきた。これなら犯人もいい訳できないだろう。『無理やり書かせられました』って」
「あっ、なるほど」
皆、頷いていた。
ケムヨもこのことに気がついていた。
翔が証拠を作るといっていたのは、自分が作り上げた告発文じゃなく、自ら犯人に作らせる証拠のことだった。
そして犯人を安心させるようなことを言っていたが、俺俺を強調し、俺はしないけど他のものがするかもと示唆していたも同然だった。
翔は結局は犯人を騙していた。
しかし、騙されたなどと園田睦子も言える立場ではないので翔のやったことは誰一人文句はないことだろう。
こういう大胆な行動は今に始まったことじゃない。
翔はときにははったりを使い、ずるい手と言われようが、合法的にすれすれのところを掻い潜ってのし上がってきたような男だった。
納得がいかないのは園田睦子ただ一人ということだった。
「さて、この件は俺の手から離れることになる。俺はこの部署の誰一人にはこの話はしないと言った約束は守る。だが、この後はここを離れた上の判断に任せるということを伝えておく。だから皆も心配することはない。以上」
関係のないものにとっては深刻な問題ではないので、各々好きに話していたが、園田睦子は針の筵に立たされていた。
顔を真っ青にし脂汗が額から噴出していた。
あの告発文がはったりであり、自分はまんまと引っ掛けられたと感じても、もう後の祭りだった。
泣き出しそうになりながらも、必死で堪えている園田睦子の様子を、翔は冷たく一瞥する。
翔はメールを受け取った直後、信頼が置ける上司、即ち専務の須賀に直々一部始終を報告して、証拠となるメールも一緒に提出していた。
その後園田睦子は須賀に呼ばれこの件についての話し合いとなった。
歴とした業務妨害であり、会社に不利益をもたらす行為とされ園田睦子はその場で退職勧奨されてしまう。
懲戒解雇扱いにしなかったことは、自ら罪を認めたことで多少なりの配慮を設けたつもりだった。
園田睦子も自分で首を絞めてしまった結果となり、証拠となる自分が送ったメールを突き出されては従うしかなかった。
これ以上会社の不利益になるようなことを仕掛けられては困るため、その日のうちに全て荷物をまとめ、園田睦子はあっさりと出て行くことになる。
周りはそれがどういう意味なのか分かっていたが敢えて何も言わなかった。
ただ冷たい視線を送っていた。
優香も何も言わず遠くからその様子を見ていた。
翔はケムヨに近づいて、そっと耳打ちする。
「これで全て解決だ。ケムヨもこれでよかったと思ってるだろ。まさか同情的になってるんじゃないだろうな」
「ううん、これでいいと思ってる。会社に不利益になるような人材はいらない。これが本来の会社の姿だと思う」
「そうだな」
「翔、いえ、勝元課長補佐、どうもありがとうございました」
「さあ、この後の代償は高くつくぞ」
「えっ?」
「今日はこの後、俺に付き合え。それぐらいのことを俺はしただろう?」
翔はこういうところもちゃっかりとしていた。借りを作って、返してもらう。
ケムヨもお礼くらいはしないといけないとは思っていたが、こうも露骨に利用されるとは思わなかった。
「上司だからこれは仕事範囲でしょ」
「まさか、ケムヨも俺がそれで済ませるなんて思ってないだろう」
最後はゲームの勝利を味わうようにふてぶてしく鼻で笑っている。
ケムヨが断れないことも含めて、自分の思いのままだといわんばかりのムカつく笑いだった。