第二章 頭上の星が輝いたから笑みを浮かべてみた


「真理絵先輩!」
 鼻息が荒く吹き出る闘牛かのごとく、優香は興奮してデスクについていた真理絵に影を落とした。
「あら、優香、それに留美、一体二人してどうしたの?」
 留美が優香の後ろで顔をしかめ目をぱちくりさせながらそれとなく原因を知らせている。
 目の前の優香の興奮状態も含めて真理絵はすぐにサインを読み取り、理解した上で素知らぬ顔を決め込む。
「酷いじゃないですか。留美から聞きました、金曜日のこと。どうしてそんなことになったんですか? 夏生さんの連絡先教えて下さい」
「ああ、あのことか。別にそんなに怒ることでも。あんたが来なかったのが悪いんじゃない」
「だから、合コンだったら無理してでも行ってました。それをただの食事会だなんて言うから……」
「優香、いい加減にそうがっつくのよしなさい。みっともないわよ。私達との食事は平気で断って、合コンだったら無理してでも行っただなんて、私達に失礼だと思わないの。あなたのような人が来なくて良かったわ。夏生が恥をかくとこだった。夏生の連絡先は教えられないわ」
 はっきりといわれて優香は腹が立つと共に、暴言に近い言葉を吐き出した。
「そういう真理絵先輩だって、結局は夏生先輩のこと影では羨ましいって思ってるんでしょ? 自分だっていい男見つけたいんじゃないんですか」
 あまりにも力説しすぎて声を張り上げたので、周りの人たちの注目を浴びてしまった。
「優香、もういい加減にしなよ。真理絵先輩に失礼だし、皆見てるよ」
 留美が止めようと優香の肩に手を置くと、優香はブルブルと震わせ涙目になっている。
「ちょっと優香、泣くことじゃないでしょ。ほんとにあんた何をそんなに躍起になってるのよ」
 真理絵が呆れたとばかりに顔をしかめた。
「とにかく真理絵先輩、もう一度夏生先輩に頼んで下さい」
「嫌に決まってるでしょ。他の人にあたりなさい。これから会議があるんだから、もう邪魔しないで」
 デスクの書類をかき集め、それをまとめると真理絵は席を立った。
 それを合図に、留美はお辞儀をして真理絵に申し訳ない態度を見せる。
 そして優香の腕を引っ張って自分の部署に連れて行く。
「悔しい」
 優香は下唇を噛み、わなわなとしていた。
 留美もまた引いてしまうほどうんざり気味に廊下を歩いているとケムヨとすれ違ったので、その大変な様子を分かって欲しいとわざとらしい苦笑いで示してしまう。
 ケムヨはつい優香の敗北した姿を見てしまったが、それが気に食わないと優香は食いかかった。
「何見てんのよ」
「いえ、別に」
 ケムヨは目を逸らし下を向いた。
「もう、優香、やめてよ。ごめんなさい、ケムヨさん」
 そこにスーツを決め込んでオーラを漂わせた会社の役員らしい男性達が数人歩いてきた。
 会社の中のお偉いさんとあって、すれ違う周りのものは立ち止まり大名行列を見送るように礼儀正しく礼をしている。
 優香も留美も緊張して背筋を伸ばし何事もなくすれ違って欲しいと大人しく突っ立っていた。
 ケムヨは態度を変えることなく暗くじっとする。
 その時目に映った周りの社員達の姿をケムヨは物悲しい目で見つめていた。
 権力をもったものには逆らえない、そして従わなければならない絶対的な力を見せ付けられる。
 これが会社の組織と言うものだと、体全体で感じていた。
 役員達がケムヨの前をすれ違ったとき、ケムヨも頭を下げた。
 その中で一人ケムヨを見つめて歩くものがいた。
 年は50を越えているが、白髪混じりながらも紳士らしい気品が感じられた。この会社の専務だった。
 役員達が見えなくなると、従業員達がほっと息をつく。
 今まで息をしないで我慢していたようだった。
「ああ、緊張した」
 張り詰めた空気を逃がすように留美が言った。
「どうやったらああいう男達に近づけるんだろう」
「優香、なんでそうなるの? あの人たち結構年いってるし、絶対妻子持ちだと思うんだけど」
「それでもいい。あの権力憧れる」
 留美はどうしようもないと、匙を投げたくなった。
「ほら、いつまでもこんなことしてられないわ。私達は契約切られたらそれまでなんだから」
 留美は優香を引っ張っていった。
「契約切られたらそれまでか……」
 ケムヨは呟く。
 そして自分の与えられた雑用の仕事に取り掛かった。
 時給850円、週に2,3日顔を出すだけで仕事は難しくない。
 だがケムヨは一生懸命自分の与えられた仕事以上に取り組む。
 トイレ掃除は清掃係の仕事だが、時々手伝ったりもする。
 なぜなら清掃係のおばちゃんたちからの面白い話を聞いたり、そしてトイレに集まってくる女性社員たちの本音が耳に入るからである。
 趣味といってしまえば悪趣味だが、大きな会社に入って学ぶことは色々だと、ケムヨは鋭い目を光らせて隅々を見ていた。
 人を観察する癖がついて、物事を常に冷静に見る。
 そこに人生の非情さを見つめ、世の中は不公平が当たり前なんだと思うところがあった。
 それでも人はもがいて少しでも良い場所を求め、時には策略が仕掛けられる。
 優香がいい例だった。いい条件の男を求めようとして分かりやすいくらいの行動力を見せ付けられた。
 それは見苦しいが悪いことだとは思わない。人間の本能であり、結局は自分が手に入れられるかそうでないかそこへ辿り着いた結果が全てだ。
 自分がこんな状況でそれなりに満足しているから冷静に見られるだけであって、そうじゃなければ何をしてたかわからない。自分も優香のようになっていたかもしれない。
 週2、3日のパートで楽だから満足しているわけではなく、ケムヨは他にも仕事を持っていて、やるべきことをやっていたからそんなことが言えた。
 ケムヨは自分でも恵まれていると思うくらいのことはやっていると納得している。
「あ、ケムヨさん、お茶入れてくれない」
 誰かがケムヨを呼んでいる。
「あっ、はい、今行きます」
 ケムヨはしゃきっとして自分の仕事に取り掛かった。
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