第四章


 将之の口から飛び出る言葉はケムヨを一瞬でも黙らせるには効果的だった。
 将之はまた新たな攻略方法を見つけてにんまりと不気味に片方の口角を上げた。
「な、なによ」
「いや、別に。少しずつだけどケムヨのことがなんか分かってきたような気がする」
「そんなこと分からなくていいの。とにかく帰って」
「残念だな。もう少しゆっくりしたかったな。セックスなんて簡単に口走る男は信用おけないってか」
「そうよ」
「男なんて、考えることは皆一緒なの。惚れた女が目の前に居たら、ついついそっちの想像力をかきたてられるのさ。俺はむっつりじゃないからつい口にだしてしまうのさ」
「だから、私達はまだそんな話ができるほど仲良くなってないじゃない。女にいきなりそういう話はするもんじゃない」
「28にもなって案外と初心なんだな。もしかしてまだ経験ないとか?」
 これ以上この話はしたくないと、ケムヨは将之を焼印が押せるくらい睨みきった。
「おお、怖〜」
「言っておきますが、私もそれなりの恋の経験はあるわよ」
 ついムキになって言ってしまう。
「そうだろうな。ケムヨは結構いい女だぜ。それなのにどうして男に全く興味を失くしたんだ? しかも結婚もしないなんて」
「別にいいじゃない。結婚だけが女の幸せとでも言いたいの? 私は一人で生きてく決心をしたのよ」
「だけど、女が一人で生きていくって生活苦しくならないか? ケムヨはパートだし、これからどうやって一生分のお金を稼いでいくんだよ」
「だから、それは…… 今から稼いで貯めるわよ」
 家業のことは説明できるわけでもなく、苦し紛れに答えた。
「でももし職をなくしたり、働けなくなったりしたらどうする? 心細くないのか? そんなときに一生を添い遂げられるパートナーが欲しいと思わないか?」
「それじゃ将之が私と結婚して養ってくれるとでも言うの?」
「いや、それは飛躍し過ぎ。そこまで俺はまだ考えてる訳じゃないけど」
「じゃあ、安易に私を好きだの惚れただのって言わないでくれる?」
「俺は恋を楽しみたいだけじゃないか。そっちこそ付き合ってもないのにいきなり結婚の話はないだろ」
「それじゃ結局はただ単に遊びってことになるじゃない。私はもう28なのよ。この年でそんなリスキーな恋ができると思う?」
「それじゃやっぱり結婚を意識してくれる人じゃないと付き合いたくないってことなのか。それってなんか矛盾してるぞ。ケムヨは結婚を考えてないって言ったんじゃなかったのか?」
「だから私はもう恋なんてしないつもりなの。付き合うこともしない、つまり男は要らないってことよ。それに私一人で生きていくくらいの準備はしてるわよ」
 ケムヨはどんどん興奮してくる。ここまで自分をさらけ出したことないくらい、本気で将之に突っかかった。
「分かったよ。そう怒らなくてもいいじゃないか」
「言い出したのはあなたでしょ」
「そうだけど、そんなにムキになるなんて思わなかった。よほど振られたことがトラウマになってるのか? 一体どんな男と付き合ってたんだよ」
「だからそれもあなたに関係ない。それに終わったことはもうどうでもいいの!」
 最後は力強く八つ当たるように将之に言い切ったが、本当にどうでもいいのだろうか。翔はもうすぐ戻ってくる。
 ケムヨは将之の前で強がっていたが、翔のことを考えると心の傷は癒えずにただ冷凍保存されていることに気がついてしまう。
 暫く俯いていたたまれない心を支えるように立っていた。
 突然動かなくなったケムヨを見ることで、将之は深い失恋の傷跡を見てしまった。
 本気で愛したに違いない。そうじゃなければここまで絶望的にならずにその後も新しい恋をすることを恐れなかっただろう。
 失ったものに執着してしまう心。
 その気持ちは将之には理解できた。
「そっか、よほどそいつのこと好きだったんだな。辛いこと聞いて悪かったな。今日のところは俺、帰るよ」
 静かにベッドから立ち上がり、空になった缶をケムヨに押し付けた。
「リサイクルしておいてくれ」
 そしてドアに向かった。
「将之、忘れ物」
 まだ袋に入っている飲み物をケムヨが渡そうとする。
「それはやるよ。お詫びの印。後でゆっくりと飲んだらいい。酒で辛いこと忘れられるならいいけどな」
「将之……」
「俺、好き勝手なことずけずけと言っちゃったけど、ケムヨの気持ち分かるような気がする。実は俺もそうだから」
「えっ?」
「あっ、そうだ。今週の土曜日空いてるか?」
「土曜日? ええ、空いてるけど」
「わかった。それじゃ迎えにくる」
「ちょっと、用件もなしにいきなり迎えに来るってどういうことよ」
 将之はドアを開けて廊下へ出た。
 ケムヨは話を中断されて、気になって後を追いかける。
「ちょっと、待ってよ。土曜日、なんで迎えにくるのよ」
「きっと、ケムヨも気に入ると思うよ。だから楽しみに待ってて」
「あのさ、なんでそう脈絡もなく次から次へと先に進んでいくのよ」
 将之は靴を履いて顔を上げる。
「興味が湧くようにもっていかないとケムヨはその場で立ったまま動こうとしないだろ。それに俺決心したよ。俺がケムヨをその苦しみから引き出してやる。いつか言っただろ、俺が救ってやるって」
「だからそれは……」
「俺がそいつのこと忘れさせてやるよ」
 ケムヨはまた将之の言葉に縛り付けられてしまった。
 なんともありふれたくどき文句。
 それなのにその言葉を耳にすると、化学反応を起こすようにドキドキしてしまうから不思議だった。
「それじゃ土曜日の昼過ぎに来るからな」
「あっ、将之っ!」
 将之が玄関のドアを開けて出て行った。
 咄嗟にそこにあったシズの履物を拝借してまた後を追う羽目になってしまった。
 年下だというのに、それを感じさせないくらいに将之はリードして行動力を発揮する。
 ケムヨは結局自ら引き寄せられるように引っ張られていた。
 だが、外に出たと思ったはずの将之はドアを開けたまま玄関で突っ立っていた。
 ケムヨは弾みで将之の背中に顔を激突してしまった。
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