第四章


「ちょっと、あなたね、なんで立ち止まったままなのよ」
 辛辣な匂いをツーンと嗅いだように痛みを伴った鼻を押さえて、ケムヨは文句を言う。
「ほら、プリンセスが来てるんだよ。俺の置いた煮干を食べている」
 将之の背後からそっと顔を出すと、夕方の日が暮れかけた薄暗い中、門の端の辺りに猫がうずくまって尻尾がうねっているのが見えた。
 将之はそっと近づくと、気配を感じて鉄格子のような門の間を覗くようにプリンセスが様子を伺いだした。
 「チチチチチ」と舌打ちして中腰になりながら一歩一歩プリンセスとの距離が縮まっていく。
 後ろで見守るようにケムヨは将之の行動を見ていた。
 大きな体の大人の男なのに我を忘れて猫に近づくしぐさが滑稽であり、またそれが可愛いとさえ思ってしまう。
 猫はその間、動かず将之をじっと見つめていた。
「その煮干、俺が用意したんだぞ。旨かったか?」
 返事が返ってくるわけでもなく、猫相手に恩義を着せるように声を掛ける。
 将之が近づいて手を差し伸べても門を挟んでいたので、プリンセスは安全だと思ったのか逃げなかった。
 門の隙間に顔を突っ込むように鼻をヒクヒクと動かし将之の指の先を嗅いでいた。
 将之の大きな手は門の隙間に入り込めなかったが、指先で猫の顎を撫ぜることができた。
「おっ、触れたぞ」
 素直に喜び、しゃがんだ姿勢でケムヨに振り返った。
 さっきまで言い合いをしていた男が、体を丸めて小さな猫相手に笑顔を見せている。
 そんな姿を見せられたら反則じゃないと、将之の可愛らしさに少し母性本能をくすぐられてしまった。
 将之は次に進もうと立ち上がりそっと門を引く。
 猫は一瞬で体に緊張が走り、強張った姿勢になった。じっと将之の行動を警戒して見ている。
 いくらそっと門を開けても、ギーっと錆で擦れる不快な音が響くとプリンセスは危険を察知したかのようにくるっと向きを変えて逃げてしまった。
「あっ、プリンセス」
 将之が道路側に出たときは、すでに2メートルくらいは離れてしまった。
 何度も「チチチ」と舌打ちをするが、プリンセスは不快な音が耳に残って恐怖心を植え付けられたのか寄って来る気配がなかった。
「まあ、いいか。今日は少し触れたし、ここに来れば餌も貰えると分かったことだろう」
 暫くじっと見つめ合いが続いたが、後ろから来た車に蹴散らされるようにプリンセスはまたどこかへと身を隠してしまった。
「プリンセス、またな」
 将之はふーっと力を抜くように息を吐いていた。
「まだまだ懐かないみたいね」
「まだ知り合って日は浅いから仕方がない。だけど少しは触れる事ができたよ。それになんとなく俺が餌をくれる人ってプリンセスは気がついたと思う。あと少しで警戒心を解けるかもしれない」
「そんなに簡単にいくかしら。あの猫は手強そうよ」
「見かけはそうでも中身はまだそうと決まった訳じゃない。ゆっくりと接触してお互いを分かり合えば必ず心は開けると思う。俺は信頼してくれるまで諦めずに何度でも接触するよ」
 将之は真剣な目つきでケムヨに語っていた。
 その言葉は猫のプリンセスに言ったものではなく、まるで自分に語られているようで、ケムヨはその言葉になんて返していいのかわからなくなる。暫く目を逸らすことができずに見つめていた。
 将之はニコッと笑ったが、日が暮れかけた薄明かりは将之の黒い瞳を柔らかくマイルドにさせて、その微笑が一層優しく見えた。
「そのまんまの俺を見てくれ」
「えっ?」
「それじゃ、あさっての土曜日にな」
「明日はプリンセスに会いにこないの」
「明日はちょっと仕事で忙しいんだ。だから俺の変わりにプリンセスに餌やっててくれないか」
「なんで私が」
「頼んだぞ」
 また無理に押し付けて、そして将之は去っていった。
 薄暗い中で背広の背中が妙に大きく見える。
(私よりも年下なのに、あのえらっそうな存在感はなんなんだ)
 どんなに言い争っても、意見が食い違っても、遠慮なく自分の言いたいことを言ったこともあり、対等に向き合えている。
 そして、その後は根を持つこともなくさらりとそれで終わってしまう。
 将之はまたもう一度振り返って大きく手を振った。
 ケムヨはやはりどうしてもそれに乗せられて無視はできないと挨拶程度に手を振り返す。
「将之の奴め」
 憎たらしいと思うのに、ケムヨは暗闇を隠れ蓑にして笑っていた。
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